◆7話 日下くんが腹パンする
すっかり失念していたけれど、園芸部の部長も同じ高校に入学したのだ。クラスは違うけれど。
「もう部長じゃねえんだから部長って呼ぶんじゃねえよ」
「じゃあ、えっと、……。……。部長の名前ってなんだっけ……」
「小宮てめえ」
「忘れてない! 忘れてないよ? 3年間同じ部活で汗を流した仲間の名前を忘れるわけないよ? 思い出せないだけだから。覚えてはいたはずだから。喉まで出かかってるから。こ……こば……こだ……」
「小金井」
すっ、と日下くんが私と部長の間に割り込んで、正解を言ってくれた。
「日下もいたのか。ふたり揃って中庭で何してんだ?」
「部活だよ。ね、小宮さん」
「うん! この部長タスキが目に入らないかね、ぶちょ……小金井くん!」
懸けたままにしていた「部長・小宮小明」のタスキを小金井くんにアピールしたら、「いや部長なのは分かるが何部なのかが分からん」と返されたので、ここぞとばかりに「日下部」の貼り紙を見せた。
「……くさかべ?」
「ううん、くさかぶ……んっ、ん、ひのしたぶ、です!」
「ひのしたぶ」
「日の下で活動するのが命題の部活なの。さっきまでは青空の下で書道をしていました。昨日、私が作ったばかりのぴかぴかの部活だよ」
胸を張って答えたら、「小宮……また変なことをして……」と、呆れ顔を返されてショックを受けた。
「へ、変……!? 中学の時のあだ名が『マッド菜園ティスト』だった部長に言われたくないよ!」
「えっ、俺そんなあだ名つけられてたの……?」
今度は小金井くんがショックを受けた顔になった。お互いを傷つけあう悲しい世界である。
「とにかく、先生にも認められた明るく真面目で一切の下心皆無の健全な部活だから! 本当に! 下心はないから! 屋内での親密な会話とか屋外でのラッキーすけべとか全然楽しみにしてないから、健全だから、本当だからあ……!」
「わ、分かった分かった。いい子だから落ち着くんだ小宮。真面目な部活なんだな」
もしや私の「日下くんと公式にふたりきりで過ごせて最高」という下心が滲み出ていたのかと思って必死に健全さをアピールした結果、却って不純な動機が丸出しになった感は否めないけれど、とにかく日下部を真面目な部活として小金井くんに認めてさせることに成功したようだ。ふう。危なかった。
「しかし、よかったな小宮」
「うん?」
「日下と同じ部活なんだろ。お前、日下のこと好」
「うわああああ!」
思わず小金井くんの鳩尾に正拳突きを食らわせてしまった。
中学時代、私は日下くんへの恋心を慎ましく心の奥底に秘めて誰にも言わなかったのだけれど、なぜか園芸部の面々には周知の事実だった。小金井くんも当然、私が日下くんを好きなことを知っているのだけれど、あろうことか日下くん本人の目の前で口を滑らせるなんて。私の心臓を止める気か小金井くん。
「ごふっ」
女子高生の膂力とは言え、的確に急所を撃ち抜かれた小金井くんはお腹を押さえて呻いた。
「はっ!」
申し訳ないけれどそのときの私は小金井くんのお腹よりも、日下くんに「バイオレンス小宮」の印象を与えてしまったのではないかということを心配して、ちらりと後ろを窺った。
どっこい日下くんは、突如暴力に訴えた私に怯える目を向けるでもなく、むしろ「いいフォームの正拳突きだったなあ」みたいな感心した表情をしていた。日下先生、書道以外でも褒めの姿勢を崩さない。伸びます。永遠に師事します。
「小宮よくも」
小金井くんは鳩尾に一発食らった報復をしようと私に手を伸ばした。中学の園芸部時代、私はよく彼にヘッドロックをかけられたものである。
「その手は食らわきゃんっ」
ヘッドロックをかけられると思って身構えていたら、まさかのデコピンをされた。おでこを守るべき前髪が短いというオン眉ぱっつんの防御力の低さを狙った非情な攻め方である。
「いひゃい……」
「ふっ。小宮もまだまだ守りが甘ぐはぉうっ」
おでこを押さえている私の目の前で、日下くんが無言で小金井くんの鳩尾に正拳突きを食らわせた。
今度は男子高校生の膂力である。しかも日下くんが細身だからと侮るなかれ、日下くんはサッカー部の前島くんをお姫様抱っこで運んだ前例があるくらいだから割と力がある。そんな威力の攻撃を食らった小金井くんは、私の乙女心防衛パンチよりも遥かに重いダメージを負ったらしく、がくりと膝をついた。
普段の穏やかなイメージから掛け離れた、一切の迷いなき無言の腹パン行使。驚いて日下くんの顔を見ると、膝をつく小金井くんを見下ろすその表情はツンと冷え切ったもので、もはや日下くんではなく氷点下くんと呼びたい。
「く、日下、何故お前まで……」
「至宝たる存在の小宮さんに対して危害を加えたんだから腹パンくらい当然だと思わない?」
「し、至宝……?」
「……。……。小金井。小宮さんは日下部の部長なんだ」
「それと至宝になんの因果が……」
「部長とは部の至宝。小宮さんは部長。つまり小宮さんは至宝」
「初耳の三段論法」
「次に小宮さんに危害を加えた時は、茹でる前の三輪素麺で刺す」
「地味に痛そう!」
私を庇うように立ち、素麺を用いたアグレッシブな報復手段を挙げて小金井くんを牽制する日下くん。
温厚な日下くんが突然バイオレンスに走ったので何事かと思ったけれど、己の所属する部の部長を攻撃されて憤慨したと分かって、感激で震えた。
なんて部長思いな部員なんだ、日下くん。部長になってよかったと心の底から思った瞬間である。
「小宮さん、おでこ大丈夫?」
日下くんはくるりと振り返り、氷点下くん一変、涙目の私を見て痛ましそうな表情になった。デコピンのダメージによる涙目ではなく、彼の熱い部長愛を感じたことによる感激の涙目だったのだけれど、日下くんは気遣わし気に私のおでこを撫でた。
え、撫で……?
日下くんに撫でられた?
日下くんにおでこを撫でられてしまった。
私のおでこが世界一幸福なおでこになった瞬間である。
「ほんじつにどめのらっきーすけべ……っ!」
幸福過多に眩暈がし、思わず顔を覆ってその場に崩れ落ちた。
「えっ、小宮さん、大丈夫?」
「え、あ、ううん、大丈夫、立ち眩み! ちょっとね、うん、太陽に当たり過ぎちゃったかな! もう平気! 元気元気!」
「木漏れ日でも熱中症になるくらい繊細なんだね小宮さん……」
日の下での活動を提唱した人間の割に木漏れ日レベルで立ち眩みを起こす体質だという誤解を日下くんに与えてしまったけれど、おでこが幸せで崩れ落ちたなんて正直なことは到底言えないので仕方がない。
ああ、神様は今日という日に幸福を詰め過ぎではないだろうか。
小金井くん、デコピンしてくれてありがとう……!
後で菓子折り、届けるからね……!
感謝いっぱいの気持ちで小金井くんの方を見たら、彼は日下くんの部長思いパンチによるダメージから回復しつつあるようで、よろよろと立ち上がるところだった。
「素麺でなんてことを……。日下、食べ物を粗末にするんじゃありません……」
「刺した後はちゃんと茹でて美味しく頂くから粗末にはならない。胡麻油で和えた茹で鶏肉と茗荷と大葉を添えて食べるつもりだから」
「美味しそう! じゃなかった、分かった、分かったから、お前のとこの部長に危害は加えないから落ち着くんだ日下、どうどう。オン眉ぱっつんの小宮にデコピンはさすがに悪かったと反省している。もうしない」
「ならいいいけど……」
素麺をアグレッシブに運用した後はちゃんと美味しく頂くつもりらしい日下くんの家庭的な一面にきゅんとしている間に、小金井くんは日下くんと和解したようだった。日下くんと小金井くんはもとから仲がいい。拳で分かり合う男の友情である。
「小金井くんに渡す菓子折りなんだけど、お煎餅でいいかな!」
「一体何の話をしているんだ小宮」
「好きだったよね、お煎餅!」
「好きだけども」
「聖ちゃんと分け合うといいよ。聖ちゃんは醤油味が好きだよ」
「なん、そん、なぜ急に高野の話をするんだ小宮いいか断じて高野と同じという理由でこの高校を選んだわけではないし奇跡的に同じクラスで浮かれているとかそんなこと全然ないから毎回毎秒心から喜んでいるだけだから」
小金井くんは中学一年生の頃から片思い中の聖ちゃんに未だ告白せずにいる。頑張れ小金井くん。
「ところで小金井くん、私に何か用事だった?」
「いや別に。中庭で怪しい動きをしている小宮を見かけたから何をやらかしているのかと不安になって声を掛けただけだ」
「小金井くんは私を不穏分子か何かだと思ってるの……?」
「部活の邪魔をして悪かったな。じゃあな。俺も部活だ」
「小金井くんは何部なの?」
「園芸部」
「ぶれないね小金井くん」
私が中庭で蠢いている案件による不安を拭えた小金井くんは、校舎裏を畑に変えるべく、小走りで去っていった。彼が高校においてもマッド菜園ティストの異名を馳せる日は近い。
「えーと。私たち何してたんだっけ……?」
本日二度目のラッキーすけべによる興奮や、日下くんの様々な一面(部長思い日下くん、氷点下くん、素麺アレンジ日下くん)を垣間見た興奮等々で思考がおぼつかなくなっている私に、「部室に貼り紙しに行くところだよ小宮さん」と、日下くんが優しく告げる。そうだった部活中だった。部長なのに部活中であることを忘れていた。
「そうだった! うん! 部室に戻ろう! 貼りに行こう!」
こうして私たちは日下部の初部活である青空書道を無事に終え、部室に戻ったのだった。