◆6話 日下くんと書道に励む
部が成立した当日、顧問になってくれた担任の先生が「資材置き場の一角を提供しましょう」と言ってくれたので、その日のうちに部室が手に入った。
日下部は総勢4名だけれど半分は幽霊部員だし、主な活動は屋外になるはずだから、パイプ椅子を2つ並べたらぎゅうぎゅうの小スペースであっても問題は無い。
むしろ、断じて下心によるものではなく部室が狭いという物理的にやむを得ない正当な理由によって日下くんと近距離で過ごせるこの部室は最高の環境と言える。
ただいま私と日下くんは、昨日設立ほやほやの日下部における初部活動の初ミーティングのために、先述のパイプ椅子に腰掛けている。一方がタカラヅカの男役の座り方をすれば膝がくっつくほどの近距離だ。最高!
いや最高を感じている場合ではない。私は日下部の部長だ。部長らしいことをしなくちゃいけない。しかし部活のミーティングってどう始めるんだろう。部長の経験が無いから分からない。中学の時の園芸部の部長を思い出してみる。うん、ミーティングも何もなく、有無を言わさずトマトの苗を渡されたのが部活初日だった。参考にならない。
私が神妙な面持ちで黙っているので、日下くんも言葉を発さない。部長の発言を待っているに違いない。慎み深い。ときめく。ときめいている場合ではない。このまま資材室に並べたパイプ椅子に座って黙ったままでいては、日下くんに不審に思われるだろう。手を伸ばさなくても届く距離に日下くんがいるせいで動悸が激しいけれど、見切り発車でひとまず世間話から入ってみよう。
「あ、のね日下くん」
「うん」
「私、昨日ね」
「うん」
「親子とじうどん、食べた」
「……」
だから何だと言うのだ……。
ものすごく深刻な表情で重々しく切り出しておきながら、昨日の晩御飯の話をしてしまった。しょぼい。己の世間話スキルの低さが嘆かわしい。
日下くんも呆れているに違いないと忸怩たる思いで、そっと彼の様子を窺って、驚いた。
日下くんは感動を湛えた瞳でこちらを見返していた。
世界一の絵画を目にした人みたいな、心打たれた表情をしていた。
ん?
うどんの話が日下くんの琴線に触れたのかな……?
とりあえず親子とじうどんの話題を掘り下げてみよう。
「日下くんは、親子とじうどん、好き……?」
「うん」
日下くんのその短い頷きには、全身全霊の好意が込もっているに違いないと思わせる情熱があった。
そっか。
そっかあ。
日下くんって、親子とじうどんが大好きなんだなあ……!
話題のチョイスが奇跡的にドストライクだったらしいことが分かって、俄かに元気が出た。
「一緒だね! 私も親子とじうどん大好き。すごいよね、親子とじうどん。親子丼の存在は前々から知っていたけれど、それをうどんで再現するなんて。親子とじうどんが発明された日は、うどん界に旋風が起きた瞬間だったに違いないよ」
「うん。そうだね。たいていの丼ものを再現できるうどんの懐の深さには敬服するよ」
「ね! 天ぷらうどんもすごいよね。だって、天丼のうどんバージョンだよ? 普通、天ぷらを汁物に転用しようなんて思いつかないよ。さくさくという天ぷらの強みを殺しているにも関わらず、ふやふやの衣が意外に美味しいという新たな価値観を創造している点がもう、もう……革命だった」
天ぷらうどんに対する熱い賛辞を口にすると、日下くんはくすくすと笑って、「そうだね。革命だね」と頷いた。
ああ、日下くんとこんなに楽しく、うどん談義ができる日が来るなんて……。
生きててよかった……。
その後も、部活ミーティング前のちょっとした導入のつもりで始めた世間話は大いに盛り上がり、話題が日本における小麦粉料理の歴史に波及する直前でやっと我に返った。
「はっ。部活。部活しなくちゃ! えーと、うん、じゃ、道具持って外行こっか!」
結局、特にミーティングをしないまま、とりあえず外に行く流れになった。
「今日の降水確率は0だって。嬉しいね」
「そっ、そうだね。絶好の日下部日和に部長として腕が鳴るよ」
ミーティングもろくに進行できない私と違い、日の下で活動する者として重要な情報である降水確率をばっちり押さえている日下くん。しっかり者だよ日下くん。部長の座を狙っているのか日下くん。微笑みが眩しいよ日下くん。
「えっと、それでは、本日の部活動を始めます!」
せめて部長らしく、開始の合図を高らかにあげた。
今までは日下くんと対面する度に挙動不審だった私だけれど、先刻の密室・近距離・親密な世間話の経験を経て、日下くん耐久度が上がったようで、今はなかなかに平常心だと自負している。
それに昨夜はきちんと前髪のセルフカットをしておいたので、前髪オン眉ぱっつん度にも抜かりはない。うん。大丈夫。今日は部長らしく堂々した振る舞いで、日下くんに頼れる大人感をアピールしていこう!
「今日は日の下で書道をします!」
なぜ書道か。
日下部の部室として与えられた「第4資材室」に部室感を添えるためである。
現状の「第4資材室」の扉のまま使用を続けた場合、「放課後に資材室に出入りする怪しい生徒」と通行する生徒たちに疑われ、ひいては生徒会に通報されて屈強な生徒会役員の皆さんに尋問をされてしまう危険がある。
なので、ここに部室があるという事をアピールするためにも、貼り紙を用意しようということになったのが、昨日のことだ。危惧を呈したのが沼姫ちゃん、打開案を出したのが神谷くんだ。幽霊部員なのに部の行く末を案じてくれている彼女たちの心配りには頭が上がらない。
そういうわけで、日下部の記念すべき最初の活動は、「書道」だ。
もちろん日下部だから屋外で行う。
木漏れ日がいい感じの中庭に、レジャーシート(小宮持参)と書道セット(日下くん持参)を広げた。
中学校では書道部だった日下くんがテキパキと書の準備を進める様子に見惚れ、部長なのに何もしていないことに気が付いて、何か仕事は無いかと辺りを見回し、レジャーシートの上に迷い込んできたアリを退避させることに尽力し、合間を縫って日下くんの方に目をやり、木漏れ日の下で端座し墨を磨る凛とした所作に身悶えした。
「小宮さん、準備できたよ」
「うん! こっちもアリ一匹いないよ!」
「まず貼り紙作りだよね。『日下部』って書くだけでいいかな?」
「うん! お願いします!」
日下くんはさらさらと、三蹟もかくやの美しい字で、「日下部」と書き上げた。
「上手過ぎるよ日下くん……!」
「ありがとう。まあ、日下は自分の名字だからね。書き慣れてるだけだよ」
「こんなに美しい字の『日下部』という文字は人生で初めて見たよ……!」
惚れ惚れと称賛する私に、日下くんは「褒め過ぎだよ」とはにかんだ。きゅんする。心のシャッターを連写した。
「次は小宮さんの部長タスキを作ろう」
日下くんは続いて、真っ白なタスキに「部長・小宮小明」と記した。日下くんの書でフルネームを認めて頂いてしまった感動に震えた。
「上手過ぎるよ日下くん……! 今まで目にした自分の氏名で最も美しいよ……!」
「ありがとう。まあ、書き慣れてるだけだよ」
「書き慣れてる……?」
彼の名字である日下の字は普段から書くにしろ、「小宮小明」という他人の氏名を書き慣れるほどたくさん書く機会なんて、そうそうないのでは……?
えっ。まさか。
このタスキのためだけに、昨夜の間に私の氏名をたくさん練習してきてくれたということ……!?
なんて努力家なんだ日下くん。タスキ一枚にも気を抜かない彼のプロ意識に胸を打たれて目頭が熱い。
空を仰いで落涙をこらえる私に、日下くんはさらなる追い打ちをかけてきた。
「素敵な名前だよね」
「えっ」
「小さい宮に小さい明り。可愛いよね」
「はぐぅ……っ!」
その場に崩れ落ちた。
電報だ。
おばあちゃんに電報、打とう!
私の命名者である祖母に、この名前を付けてくれてありがとうと伝えよう!
「こ、小宮さん? 大丈夫? 立ち眩み?」
「おばあちゃんスマホもってないから電報が一番早い……って、え、日下くん、え、うん、大丈夫! ちょっと感動のあまり膝に力が入らなくなっただけだよ!」
体調不良だと思われて心配をかけてはいけないので、健康アピールのためにタスキを懸けてぴょんぴょんと跳ねて見せた。「そんなに部長タスキ嬉しかったんだ……」と感慨深そうな日下くん。はい、超絶嬉しいです。
「あのできれば自宅に飾……っ、……、部長の責務として部長タスキの予備を自宅に保管しなければならないと思われるので、もう一枚、書いて頂けないでしょうか」
日下くんは快く応じてくれて、予備のタスキに「部長・小宮小明」と記してくれた。日下くんの手による私のフルネーム。家宝だ。小宮家の家宝にしよう。
「あとは部員みんなの名前を書くんだよね」
「うん。資材室の壁に貼って、ちゃんと4人いるよってアピールするの」
「そういえばあとの2人が今日はいないけど……」
「うっ」
もとは日下くんを見守る日下部のために幽霊部員確定で入部してもらったとは説明しづらい。ごまかそう。
「ほらそのあの沼姫ちゃんと神谷くんは放課後は直帰で自宅でオンラインゲームをしているわけだけれどそれは日下部の中でも私たちが太陽光浴びる専門の部員だとしたら沼姫ちゃんと神谷くんはブルーライト浴びる専門の部員だからで全然問題はないよ」
意味不明な説明になってしまったけれど、日下くんは「そっか。じゃあ、実際に部活をするのは小宮さんと僕だけなんだね」と、満足そうに頷いた。ふう。この説明で満足してくれてよかった。
日下くんはやっぱり美しい字でさらさらと、部員全員の名前を書き上げた。
「よし。事前に決めていたものは全部書けたね。墨と紙が余ったけど……せっかくだし、小宮さんも何か書かない?」
「えっ」
日下くんの書道姿を拝むことに全力投球してすでに息が上がっていたところに、ふいに筆を渡された。私はそんなに字が上手じゃない。日下くんに下手な字を見られるのは恥ずかしい。
「わ、私はいいよ、その、書道の心得もないし、義務教育で習った気もするけれど筆の持ち方も忘れちゃったし」
「そう? なら教えるよ」
「えっ!」
日下くんによるマンツーマン授業……?
待って……。
死んじゃう……。
幸福供給過多で死んじゃう……。
「お、お、おねしゃす……」
死ぬと分かっていても飛び込んでしまうのが恋の業、震える声でお願いしますを言って、その場に正座した。
「筆の持ち方はこう。うん。そう。上手だね」
「あわわわわ……」
手を添えて筆の持ち方を教授される。日下くんと手が触れ合っている。ラッキーすけべだ。本当にあるんだ、ラッキーすけべ……。
「ななななな何を書けばいいかな……?」
「小宮さんの好きなもの書いて」
正直に書くと「日下深幸」になるけどいいかな……?
「う、う、うどんで……」
「うん。いいね。綺麗に書こうとか、バランスとかは考えなくていいから、落ち着いた気持ちでゆっくり書いてみて」
「ひゃい……」
せっかくの日下くんの指南だけれど「落ち着いた気持ち」には到底なれないので、せめて「ゆっくり」だけは遵守して、「うどん」と書いた。
最初の「う」が大きすぎて、紙のスペース上「どん」が異様に小さくなってしまった。音に出すと「うっ! ど、ん……」的な感じだ。総じて下手。辛い。恥ずかしい。
「素敵だよ小宮さん。このダイナミックな筆運び。うどんを啜る勢いの良さが見事に表現されている。ただごとじゃないよ」
どっこい、日下先生的には花丸らしい。
「そ、そうかな……?」
「うん。とても良い書だよ」
先生優しい。褒めて伸ばすタイプだ。
「え、えへへ、ありがとう……」
「もう一枚書こうか」
「うん!」
日下先生の超優しい判定に調子に乗った私は、いそいそと二枚目の書に取り掛かった。
「次は漢字にしよう。僕の氏名を書いてくれる?」
「えっ、日下くんの氏名を……?」
「うんなんかたまたま偶然なんだけど留めとか跳ねとかが丁度よく入ってて初心者にお勧めの字がいい感じに配置された氏名だから練習にぴったりだからぜひ書いて欲しい」
「へー、そうなんだ!」
図らずも「日下深幸」と書く光栄に浴することになってしまい、「うどん」よりも遥かに気合を入れて筆を取り、持てる全ての情熱を込めて日下くんのフルネームを書いた。
先程の「うっ! ど、ん……」の経験を生かして、最初の字を大きく書き過ぎないように配慮したから、今度はちゃんと概ね均等な大きさで4文字書くことができた。
「はあ、はあ、書けた……! どうかな日下くん……!」
情熱を込め過ぎてやや酸欠気味で振り返ると、日下くんは感動の面持ちで頷いてくれた。
「完璧だよ小宮さん……。こんなに胸を打つ日下深幸の字はこの他に存在しない。最高だよ」
褒めて伸ばすタイプの日下先生は賛辞を惜しまない。嬉しい。伸びます。一生ついて行きます先生。
「墨も乾いたし、そろそろ部室に貼りに行こっか」
「うん!」
青空の下での爽やかな書道を終えた満足な気持ちで片付けに入っていると、「何してんだ小宮」と声を掛けられた。
「あっ。部長!」
顔を上げると、中学の時の園芸部の部長が立っていた。