◆3話 日下くんが入部したがる
「ひぇっ」
慌てて床に突っ伏して、両腕で申請書を隠した。
「小宮さん。中学の卒業式ぶりだね」
「な、なあう、くっ、さかくん、な、何用かな!?」
努めて冷静を装って日下くんを見上げる。
日下くんの視線は、腕で隠しきれていない申請書の上部、「部活動名」の欄に注がれている。「日下部」が丸見えである。まずい。
あと床に伏した今の体勢のままだと、もしも誰かが廊下を取りがかった際に、「日下深幸は入学早々、女子生徒に土下座をさせて見下ろしているヤバイ奴である」という、あらぬ噂が立ちかねない。
平和の象徴である日下くんにそのような汚名を着せる訳にはいかないので、慌てて立ち上がり、申請書は背後に隠した。
「小宮さんが紙を追って疾走してる姿が見えて。その紙、入部届け?」
「え!? んっ、いや、入部届けでは、ない、よ……?」
入部届けではありません。
日下くんを見守るために立ち上げようとしている部の新設届けです。
なんて正直に答えたら死ぬ。
日下くんをこっそりと陰から見守らなければならないのに、部を発足する前に本人に露呈してしまうなんて。
このままではきっと芋づる式に、実は中学3年生の春からずっと日下くんを見守っていたことがばれてしまう。
日下くんが緑茶よりも麦茶派であることとか、岩塩よりも藻塩派であることとか、昼食はお弁当持参の日とパン屋さんで買う日が交互にあってパン屋さんの日は高確率で焼きそばパンを選ぶこととか、その他諸々を把握していることがばれてしまう。
絶対に変な奴だと思われる。日下くんに嫌われてしまう。
「日下部って書いてあったけど」
「うあ、あの、これは、その」
「いいなあ」
「え?」
「それって、日下って姓の生徒しか入れない部活? 鈴木神社的な……」
確かに日本には鈴木姓の人間に御利益をもたらす鈴木神社なる神社があるらしいけれど、まさか日下部がそんな誤解を招くとは思ってもみなかった。
「2組の前を通りかかった時に、小宮さんが『くさかぶ』って話してるのが聞こえてて、ちょっと気になってたんだけど……。本当に日下部なんてあるんだね。せっかく日下に生まれたんだし、僕も入りたい。まだ部活決めてなかったし」
全国の日下さんしか入部できないレアな部活だと思ったらしい日下くんは、瞳をきらきらさせて入部を希望してきた。眩しい。可愛い。ときめく。
「ん、あれ? でも、小宮さんは小宮さんだよね」
ときめいている場合ではなかった。
『日下しか入れないはずの日下部に小宮が紛れている問題』に思い当たってしまった日下くんが首を傾げた。
問題が根本的過ぎて対処できない。鈴木神社路線は消えた。
「小宮さんの下の名前は小明だし……」
「!」
日下くんに名前を覚えていただいていた上にお呼びいただいてしまったという本日最大の幸福が突如飛来して頭が真っ白になったけれど今はなんとか日下くんを見守る部活を立ち上げる気だったことの露見を回避することに全力を出さないといけないから幸福には家に帰ってから浸ることにする。
「あの、えっと……これは、くさか部、じゃなくて……」
しどろもどろになって目を泳がせまくっている不審な私を不審がる様子も無く、日下くんは言葉の続きを持っている。
私は日下くんと話す時、たいてい挙動不審で言葉を噛みまくって怪しい奴なのだけれど、彼は鷹揚に構えて急かさない。毎度ありがとう日下くん。好きです。
日下くんの優しさに一匙の落ち着きを取り戻し、そして。
「……ひのした部、です!」
ものすごく苦しい言い訳をしてみた。
「ひのした部?」
「そう!」
日下部という字面はすでに見られてしまっている。
ので、「くさか」に関係の無い読み方にするほかない。
「くさか部、じゃなくて、ひのした部! 日の下で過ごす部活動なの! くさかべって誤読されがちなんだよねってクラスの子と話してただけで、真の部活名は日下部なのです」
「日の下で過ごす」
日下さんしか入れないレアな部活ではないことを知って落胆しちゃうかなごめんね日下くんと思いきや、あにはからんや、日下くんはこれはこれで興味を惹かれた様子を見せた。
「初耳の部活だな……。たとえばどういうことをするの?」
「えっと……その、校庭を散歩したり、木漏れ日の下で読書をしたり、屋上でラジオ体操をしたり、そんな感じの明るく健全でやましいことなど一つもない明朗会計な部だよ。物陰に隠れて意中の人を見守って盛り上がる部では、断じてないよ」
「へえ……。なんか、のんびりしてて楽しそうな部活だね」
「うん。慌ただしい現代にスローライフを提唱するよ」
苦し紛れに放った「ひのした部」を日下くんは完全に信じてくれたようだった。
ごまかせた安堵が胸に広がる。
「というわけで、全国の日下さんとは一切の関係がない部活だから小宮が紛れているという訳でして。ごめんね、ややこしい部活名にしちゃって」
「ううん。こっちこそ勘違いしてごめんね。ねえ、さっきその紙は入部届けじゃないって言ってたけど……」
「うん。入部届けじゃなくて、部の新設届け!」
「小宮さんは日下部を今から作るつもりなの?」
「うん。太陽大好き!」
「部員は集まった?」
「うん。私の他にふたり入ってくれたから、ぎりぎり!」
「そっか。ねえ、僕も入っていい?」
「うん。えっ?」
適当にでっちあげた「ひのした部」が、どういうわけか日下くんの心の琴線に触れてしまったらしい。
彼は入部する気満々で、熱い視線を申請用紙に注いでいる。
「その用紙に僕の名前も書……」
「あ、だっ、駄目!」
「えっ」
部の概要欄に記入した「日下深幸くんを見守る」という文面を見られたらお終いなので全力拒否したら、入部を拒否されたと受け取ったらしい日下くんがものすごく悲しそうな表情になったので、慌てて弁解した。
「いや、違うよ、日下くんの入部はウェルカムだよ! むしろ部長になってくれてもいいくらいだよ! えっと、この紙が駄目なの、その、書き間違えちゃったから」
「なんだ、びっくりした……」
入部拒否ではないと分かって安堵する日下くん。
「よかった。小宮さんに蛇蝎の如く嫌われてるのかと思って焦ったよ」
なんて冗談めかして言いながら微笑まれたものだから、「嫌いだなんてまさかむしろ愛してます」と、危うく愛の告白をするところだった。
「じゃっ、じゃあ、予備の申請書が教室にあるから取ってくるね」
「僕も名前を書かなきゃだし、ついてくよ」
「う、うん」
申請直前にして廃部が確定した「くさか部」の申請書を鞄に隠し、白紙の申請書を取りに教室に戻ると、運良く、沼姫ちゃんと神谷くんはまだ教室に残ってくれていた。
「2組のふたりは1組の日下くんを知らないのでいきなり日下くんが近づいたら緊張しちゃうから事前説明してくる」という無茶な理由で待機をお願いすると、人を疑う心を持たない素直な日下くんは素直に了承してくれた。
日下くんを教室の入り口に残し、ふたりのいる席に向かう。
どちらが持ってきたのか、ふたりは机の上にバックギャモンの盤を置いて対戦中だった。
「姫、強ぇわー」
「だからその呼び方やめろよ」
「じゃあプリンセスにしようか?」
「……姫で」
ちょうど勝敗が決したところらしく(勝者:沼姫ちゃん)、慌てて教室に戻ってきた私に気付いたふたりは、同時にこちらを見た。
「宮。おかえり」
「あかりん。おかえり」
「ごめんなさい! 諸事情で、部活内容を変えることになっちゃいました……! 申請書作るの手伝ってもらったのに、ごめんね……」
せっかく日下部に入部してくれたのに勝手に部活内容を変更してしまって、退部されても文句は言えない(そもそも部の立ち上げすらしてないけれど)……という申し訳なさいっぱいの気持ちで打ち明けると、どっこい、沼姫ちゃんと神谷くんはたいして気にした様子でも無かった。
「うーん、あの申請内容じゃ通すのは難しかったかー」
「通る確率は五分だなって神谷と話してたし、気にしないであかりん」
「いや、その、まだ先生には提出してなくて。その……」
ちら、と教室の入り口で待機してもらっている日下くんに目をやる。日下くんは目が合うと、にこっと笑って軽く手を振った。フレンドリー。
「ちょっと、色々あって、日下くんが入部することになって」
私の視線の先を辿り、日下くんご本人を視認した沼姫ちゃんと神谷くんは、「ああ……」と、納得した顔になった。
「経緯は察した」
「ごまかすしかないわな」
察しの良すぎるふたりである。前世は探偵なのだろうか。
「くさか部改め、ひのした部になります……。いいかな……?」
「俺はいいぜ。幽霊部員だし」
「私も。この部の主役はあかりんだから」
「うっ、ありがとお……!」
部活内容変更の密談を終えたので、待機中の日下くんを呼ぶ。
「沼姫ちゃん、神谷くん。こちら、新たに部員に加わりました、1組の日下くんです」
みたいな感じでつつがなく顔合わせを終え、4人で新たな申請書に記入をする。
部活名 :「日下部」。ルビは「ひのしたぶ」。
部員 :小宮、沼姫、神谷、日下の4名。
部の概要:「日の下における適切な運動及び学問追求の活動を通し、太陽光を浴びることにより生成されると言われるセロトニン及びビタミンDの生成等を促し、健全な心身を育むことを目的とする」。
この完璧な申請書は、滞りなく受理された。
「先生。諸事情がありまして、日下部になりました!」
「日光を浴びて活動する。なんとも健康的でいい部活ですね」
「はい!」
「数学の神髄は先生の授業で吸収してください」
「善処します!」
こうして、日下部は無事に設立を果たし。
「というわけで、えっと、部活動は明日からということで」
「うん。よろしくね、小宮さん」
「よろ、よろしくお願いします、日下くん……」
日下くんを見守るために設立しようとした日下部に、日下くんが入部してしまったのだった。