◆16話 (回想:中学校)
中学校の入学式翌日。
僕の心は晴れやかだった。小明ちゃんと同じ中学。そのうえ、小明ちゃんと同じクラス。人生が輝いている。
このうえない幸福に身を浴しながら、ただ一つ不幸な点があるとすれば、あいうえお順の席並びの結果だ。
日下深幸、小金井花枝、小宮小明……。
小金井がいなければ、僕の真後ろが小明ちゃんだったのに……。
後ろの席にプリントを回す際に小明ちゃんに手渡しできるという栄光が手に入ったはずなのに……!
あり得たかもしれない至福の未来を逃した悔しさでわなわなと震える僕に、小学校以来の腐れ縁(六年間全て同じクラス)である小金井が呑気に話しかけてくる。
「小学校でも毎回最初は日下の後ろだったよなあ。よろしくな、日下」
「貴様さえいなければ……」
「深く恨まれている!?」
しかし小金井経由とは言え、間接的に小明ちゃんにプリントを回せるのだから、幸福と言えば幸福な部類だろう。うん。小明ちゃんと同じクラス。それだけで最高じゃないか。うん。小金井への恨みで曇りかけていた心が再び晴れやかになる。小明ちゃん、存在してくれてありがとう。
中学校生活が始まってまもなく、小明ちゃんはポニーテール女子に誘われて園芸部に入った。中学一年生の僕は、まだまだ小心翼々のチキン野郎だったので、小明ちゃんと同じ部活に入る勇気はなく、書道部に入った。
書道部を選んだ理由は、部活で使われる教室がちょうど園芸部の活動場所を見下ろせる位置だったからだ。部活をしつつ、小明ちゃんを見守るという至上命題をこなせる、最高の立地である。
麦わら帽子を被って園芸に勤しむ小明ちゃんを見下ろして精神の栄養をもらってから、真っ白な紙にさらさらと、本日の課題を書き上げる。
小宮小明。これ以上に美しい言葉は、この世に存在しない。
一筆ごとに渾身の思いを込めながら、小宮小明という書を増産していると、顧問の先生がやってきた。
「なあ日下。なぜクラスメイトの女子のフルネームを山のように書いているんだ」
「先生が好きな言葉を書けと言うので、好きな言葉を書きました」
「い、いいのか日下。そこまで恋心ダダ漏れでいいのか。中学生男子ってもっと『恋とか興味ないです』ってポーズを取るもんじゃなかったのか」
「先生が好きな言葉を書けと言うので、好きな言葉を書きました」
「うん、いや、あのな日下、愛は伝わったけどな、書道の課題に個人名はちょっと……」
「……。これは個人名ではなく、四字熟語です。小さい宮に小さい明かりが灯っているさまがまことに可愛らしい、という情景を表す四字熟語です」
「うん、日下が真剣なのはひしひしと伝わるんだが、その、個人名以外を書こう? 書道の課題云々以前に、ひたすら好きな女の子のフルネームを書いているのはちょっと大分かなり鬼気迫る感じでアレだぞ?」
「先生が好きな言葉を書けと言ったのに……。分かりました。『味噌煮込みうどん』にします。ところで僕以外の部員はどこに?」
「一人は書道にふさわしい筋力をつけると言って川へ泳ぎに、もう一人は理想の硯を作ると言って山へ石の採掘に行った」
僕以外まともな人間のいない書道部だったけれど、おかげで心行くまで小明ちゃんを眺め、募る思いを「小宮小明」の字に表し、たまに顧問の先生が与える課題をこなし、それなりに楽しい部活動だった。
こうして一介の中学生らしく勉学と部活に勤しみつつ、小明ちゃんとは「クラスメイト」以上に親しく接するでもなく、こちらから話しかけることも特になく、つかず離れずの距離感で見守りスタンスを崩さずに過ごしていたある日。
小明ちゃんが、落とし物をする瞬間を目撃した。
僕は毎朝の登校時、交通事故・誘拐・痴漢といった各種災いから小明ちゃんを守るため、小明ちゃんがバスから降りて学校に着くまでの通学姿を見守っている。
その日もいつものように小明ちゃんの後方10メートルを歩き、ふわふわした長い髪を眺めながら歩いていたのだけれど、ふいに彼女の鞄から何かが落ちた。
気づかずに行ってしまう小明ちゃん。何を落としたのだろうかと拾ってみれば、それはタスマニアデビル柄のパスケースだった。三か月定期券入りである。
教室についてすぐ、小明ちゃんの席に向かった。中学校入学以来、彼女とはあまり話したことが無いので緊張したけれど、落とし物を渡すという大義名分に勇気を得て、自然な感じを意識して声を掛けた。
「今朝拾ったんだけど、小宮さんのだよね?」
この世の全ての苦しみを背負ったかのような沈痛な面持ちで机に視線を落としていた小明ちゃんがバッと勢いよく顔を上げ、僕が手にしたパスケースを見るや「あっ!」と声を上げた。
「私の三か月……っ!」
小明ちゃんは震える手でパスケースを受け取って、そして、涙のいっぱい溜まった瞳で僕を見上げた。それは泣き顔だったけれど、全身全霊の喜びが溢れているものだった。ああ、小明ちゃんは、嬉しい時にも涙を流せる人間なんだ。
「ありがどぉ……」
泣いて感謝を口にするその姿に、胸を打たれて。
分かり切っていたことを、さらに深く理解した。
小明ちゃんは僕の人生の光そのものであると。




