◆12話 幕間:高野さん、小金井くんに棚ドンされる(後編)
「資材室って初めて入ったよー」
「うん。俺も……」
小金井くんのお手伝いを申し出たとは言え、私にあの重い段ボール箱を持つことはできない。だから私の担当は、両手の塞がった彼の代わりにドアの開け閉めをするとか、電気を付けるとか、資材室内の移動を阻むパイプ椅子を退避させるとか、こまごましたミッションである。
「この棚、空いてるね。ちょっと高いけど大丈夫?」
いい感じの空きスペースを指すと、小金井くんはこっくりと頷き、硯入り段ボール箱を安置した。ミッション達成である。ふたり揃って安堵の溜め息を吐いた。
「悪い、手伝ってもらって。助かった」
「どういたしましてー」
と、小金井くんの頭に、ふわふわとした埃の塊が付いていた。長らく掃除をされていなさそうな棚だったから、硯入り段ボール箱を置いた時に舞い降りてきたのだろう。
何を隠そう私は身長が170cmあるので、高身長な小金井くんの頭にだって、背伸びをしなくても手が届く。
埃を払おうとして、何気なく小金井くんの髪に手を触れた瞬間、彼は「ひっ」と息の飲んで身を竦ませた。その驚きっぷりに、私の方も驚く。
「えっ。あ、ごめんね、決して目潰しをしようとしたわけじゃなくて……」
そうだった、彼は滅多に呼ばれない名前を呼ばれただけで心臓にダメージを受けるくらい、繊細な心の持ち主だった。人体の急所である頭部に手を伸ばされて、驚いてしまうのも無理はなかろう。
「驚かせてごめんね。埃が付いてたから、取ろうと思っただけで……」
不用意な行動でびっくりさせて申し訳なかったなあと反省し、そろそろと手を引っ込め、念のため距離も取ろうとすると、小金井くんはとても焦った顔をして、「違うんだ」と言った。
「待っ、ご、誤解しないでくれ。高野のこと嫌っている訳じゃないんだ。その、いつも高野にだけ変な態度で、ごめん。高野は悪くない。高野が可愛いのが悪いんだ。違った。可愛いのは悪くない。とにかく高野が可愛いから、どう接しても可愛いからどう接したらいいのか分からないだけで」
「……。……。えっ?」
か。かわ。
可愛い?
今、ものすごい勢いで、可愛いという単語が頻発した気がする。
え、あれ、何の話?
ぽかんとして小金井くんを見上げていると、彼はますます焦ったように、早口で続けた。
「高野は覚えてないと思うけど、中一の冬に、高野が猫に話しかけてるところを見たことがある」
混乱している間に、まさかの「にゃんにゃん目撃事件」の話が出てきて心臓が跳ねた。
お、覚えていますよ?
なんなら小金井くんの顔を見る度に思い出していますよ?
「一緒に園芸部してる時から、最初からずっと、高野のことだけ、特別、気にかかって。トマトの苗を扱うときも優しくて、虫を追い払う時だって優しくて、部員にも優しくて、高野の半分は優しさでできてるんだと思った」
堰を切ったように話す小金井くんに圧倒されて、「バファリン……?」としか返せない。いや今バファリンはどうでもいい。そこじゃない。
「それでも、まだ他の奴と同じように話すことはできたんだ。でも、高野が猫に話しかけてる姿を見たときから、それからだ」
小金井くんは。
「高野が猫に向かって、にゃあにゃあ言ってて、可愛いことしてるって思って。いつも他の誰よりも落ち着いてて、学校にヘビが出た時も冷静に歩み出て素手で掴んで避難させてたくらいで、なのに、ひとりの時はあんな風に、猫に話しかけて、可愛いと思って、好きだと思ったら、それからずっと」
あの時から一向に下がることのない、高い熱を持った眼差しを向けて。
「その日からずっと、正しい接し方が分からない」
彼は私を仙人だと誤解しているに違いないという私の誤解を解いたのだった。
私が猫に話しかけている姿に彼は惚れたということを示してみせたのだった。
「だから、高野のことが嫌いだから変な態度を取っているわけじゃないから、くれぐれも誤解しないでくれ」
「う、う、うん。誤解、してない、よ」
「そうか。よかった」
あの溢れるような情熱も、優しさも、労りも、話す時の緊張した様子も、仙人がいるかどうかを訊ねた私への断言も、全て、猫と話せる人間に対する尊敬などではなく。
好きな人が相手だったから。
ま。
待って。
え。小金井くん。
今まで完全に的外れな認識をしていた自分を恥じ、それ以上に、今まで小金井くんが私に向けていた感情が恋なのだと知って、激しい照れが生じ、一気に顔が赤くなった。
一方、当の小金井くんは、誤解してないよという私の返答に対し、安堵の表情を浮かべていた。その様子から思うに、「変な態度を取るのは嫌いだからではない」ということの説明を達成したことに満足し、中一の頃から続く恋心をうっかり暴露してしまっていることに、たぶん、気が付いていない。
なんて。なんてタチの悪い告白なんだ小金井くん。
好意を露見させておいて本人は隠し続けているつもりとか!
「……え、どうした、具合が悪いのか!?」
怒涛の勢いで恋を明かした自覚のない小金井くんは、直立不動で俯いている私を体調不良と勘違いし、慌てふためいて顔を覗き込んできた。
それはもう、至近距離で、目が合った。
「ひぇっ」
今度はこちらが過剰反応する番だった。
バックステップと表現していい勢いで後ずさった。
なお、第二資材室は棚が並んだ狭い部屋であり、バックステップを踏むには適さない環境である。当然、後ろの棚に思い切り背中をぶつけた。
しまったと思った時にはすでに遅く、衝突の反動で棚に積まれたものがドサドサと降って来たけれど、私に落下物は一つも当たらなかった。
なぜなら棚に背中をぶつけた瞬間、積載物の落下を察知した小金井くんがとっさに私の頭を抱えるようにして庇ったからである。
かくして、棚から降って来たもの――文鎮(重量物)、国語便覧(重量物)、六法全書(重量物)、ヒマラヤ岩塩の塊(重量物)、備長炭の束(重量物)は、全て小金井くんに当たり。
「っ、ぐ、いっ、だ、高野、大丈――」
最後にスチール製の羊の置物(重量物)が小金井くんの頭を直撃して、静かになった。
「……、え、小金井くん、えっ」
ふいに、私を抱き締める小金井くんの身体から力が抜け、全体重がかかってきた。最後のスチール羊の直撃で、気絶してしまったらしい。慌てて小金井くんの背中に腕を回し、なんとか共倒れしないように足を踏ん張って、彼を抱えたまま、ずるずるとへたり込んだ。
物が散乱した資材室に西日が射し込み、気絶している小金井くんと、彼を抱き締めた状態で尻もちをついている私を照らす。
私の顔はさきほどから真っ赤なままだった。
西日のせいではない。
棚ドンのせいである。
棚ドン。
棚にドンとぶつかった衝撃で落ちてきた物から抱っこで庇われるという事象を指す用語である。庇われるだけでもキュンなのに、あまつさえ抱き締められるという二重のキュン。壁ドンに匹敵する胸キュン事象。それが棚ドン。
と、先日、小明ちゃんが興奮気味に語っていた。
その時はよく分からなかったけれど、今、小明ちゃんの熱意を理解した。
これが棚ドンか。
これが棚ドンか!
「キュン死する……キュン死する……気をしっかり持て自分……」
正座の体勢を取り、ぐったりと動かない小金井くんをどうにかこうにか動かし、彼の頭を太ももの上に載せた。床に寝かせるよりは膝枕の方が幾分かはマシだろう。恐る恐る小金井くんの頭を触る。よかった。血は出ていない。ちゃんと息もしている。
さすがに気絶状態の男子高校生をお姫様抱っこで保健室に運べるような腕力と脚力はないので、彼が目覚めるまで、膝枕状態で待機することにした。
たんこぶができませんように、と念を込めて、小金井くんの頭をさする。
小金井くんは鈍器の直撃による気絶でありながら、とても幸せそうな寝顔だった。
私と話すたびに様子がおかしかった小金井くんの気持ちが、今やっと分かった。
小金井くんが目覚めたら、私はきっと、二度と今まで通りの接し方はできないだろう。
恋は、人から、平常心を根こそぎ奪うらしい。
それこそ仙人の境地にでも至らない限り到底収まりそうもない、爆速で鼓動する自分の心臓の音を聞きながら、小金井くんの目覚めを待った。




