◆11話 幕間:高野さん、小金井くんに棚ドンされる(中編)
中学一年生の冬。
「にゃあ? にゃにゃっにゃ、にゃんにゃ……」
猫に話しかけているところを、小金井くんに見られた。
断っておくが、何も私は常日頃から猫ににゃんにゃん話しかけるようなファンタスティック女子ではない。
その日はたまたま、学校帰りに猫を見つけて、おいでおいでをしたら近寄ってくれたので興に乗って、昨日コンビニで立ち読みした雑誌の『猫ちゃんと喋れちゃう!? 日常猫会話!』なる記事に載っていた猫語を思い出して、面白半分に実践していただけだ。ちなみにさきほどの「にゃあ? にゃにゃっにゃ、にゃんにゃん」は、「オゲンキデスカ? ワタシ、アナタ、撫デタイ」の意らしい。
で、猫に猫撫で声で猫語を話している場面を、通りがかった小金井くんに見られたわけである。
やや離れた所で、小金井くんが棒立ちでこちらを見ていることに気が付いた私は、やばい現場を目撃されてしまったという焦りで固まった。小金井くんも同様に固まっており、雷にでも打たれたかのような驚愕の表情で私を見つめている。
彼が驚くのも無理はない。ひとり道端にしゃがみ込み、にゃんにゃんと猫に話しかけるクラスメイト。まだ小学校低学年までなら微笑ましい光景だっただろうけれど、中学生がやっていたら、まあ、引くだろう。
良くて高レベルの猫好き、悪くて動物に本気で話しかけるやばい奴、と認定されたに違いない……。
結局、私がアクションを起こす前に、小金井くんが回れ右をして脱兎のごとく駆けだしてしまったので、本気で猫と喋っていたのではなくて遊びでやってたのですよ、と弁解する機会を失ったまま、翌日には部活で再会することになった。
小明ちゃんが入るからという、ゆるい理由で入部した園芸部だったけれど、口調は乱暴ながら指示は的確で指導は丁寧な小金井くんのもと、部員みんなで野菜の世話をするのは楽しかった。
なので、いつもは楽しい気持ちで臨む部活動なのだけれど、今回ばかりは気まずい。
あの場面を見られた翌日に、何食わぬ顔で部活をするのが気まずい。
「戸田はほうれん草、小宮は小松菜、高野は……」
ハッと目が合うと、それまでよどみなく指示を飛ばしていた小金井くんが急に言葉に詰まり。
「たっ、かのは……」
そして顔が赤くなって、声が裏返った。
「小宮と一緒に、小松菜の、準備……」
私は努めて平静を装って、「はい」と普段通りの返事をしたけれど、小金井くんの態度は明らかにおかしかった。
最初は、「にゃんにゃん目撃事件」により、変な奴だと思われたんだろうなあ、接しにくいんだろうなあ、と思って落ち込んでいたけれど、徐々に、彼の変化はそういう忌避の類ではないことに気が付いた。
なぜなら、こちらを見る眼差しに籠る熱が、正か負かで言えば、確実に正の感情だったからだ。劇的に貴重なものを見るような、強く憧れるような。
何と判ずべきかは困るけれど、とにかくそれは、熱烈な感情で溢れていた。
これはこれで困惑した。たぶんあの熱意は、好意的な種類のものだとは思うけれど、それでは、なぜ好意を抱かれたのかという話になる。
まさか「猫に話しかけている姿に惚れた」ということはないだろう。そんなキュンポイントが謎過ぎる人間がいるとは思えない。うん。恋に落ちた説はない。
じゃあ何だろう、と考えている間にも、小金井くんが日々、私に接する態度の端々に、思いやりと言うか、優しさをひしひしと感じる。運んでいた肥料袋を「重いから」と攫われたり、木陰で休憩していたら「暑いから」と冷たい麦茶を持ってきてくれたり。プロフェッショナルな慮りっぷりである。
小金井くんからの突然の熱意の源泉が分からず悶々としていたある日、小明ちゃんと小金井くんとのこんな会話を聞いてしまった。
それは掃除の時間、用具室からふたりの話し声が聞こえて来て、しかも「聖ちゃん」と私の名前が聞こえたので、気になって扉越しに盗み聞きした会話である。
「当たってるでしょ! 白状したまえ部長!」
「なん、そん、そんなわけないだろう馬鹿な妄想はやめるんだ小宮」
「だって聖ちゃんへの部長の態度見てたらバレバレなんだもん……」
「た……高野のような尊い存在に対してちょっと緊張するのはやむを得ないだろうが」
と、尊い?
え、小金井くん、私のことそんな風に思っていたの?
およそ同級生に抱く感想ではないと思うのだけれど、なぜそんなことに……?
「にゃんにゃん目撃事件」をきっかけ彼の私に対する評価に変化があり、それが「尊敬」なのだとしたら、ますます分からない。
小明ちゃんと小金井くんの会話を聞いたことで、疑問がさらに募るばかりだったけれど、古典の授業で「動物と会話をする仙人」の話を習った際、ふと思った。
彼は私を「仙人」だと誤解して、尊敬しているのではないかと。
小金井くんは、私が猫と会話(実際には私が一方的ににゃんにゃん言っていただけ)する場面を目撃したことで、私を「動物と意思疎通が可能な、仙人的な能力を持つ人」、ひいては「仙人の域に達する程に心の清い、尊い精神を持った人間」だと思ってしまったのではないだろうかと。
仙人的な存在として崇められていると考えると、合点のいくことばかりだった。あの熱視線も、重い物を肩代わりしてくれる優しさも、熱中症を気遣う配慮も、それらは全て、私への「尊敬」に由来するものなのだ。
いやでも、いくらなんでも仙人の存在を信じている中学生がいるだろうかと思い直して、試しに、部活中にさりげなく、小金井くんに話しかけてみた。
「あの、部長」
「え!? な、なんだ高野」
「部長は、その……仙人って、本当にいると思う?」
「せ、せんにん……?」
「うん。古典の授業で出てきたみたいな……その、空を飛んだり、ね、猫とお喋りができちゃったり、神通力が満載の、そういう感じの人……」
私は重々しい雰囲気で何を訊いているのだろうかと恥ずかしくなってきた。もっと軽い雑談感を出したかったのだけれど、いざ彼の心情の変化の核心に触れると思うと緊張して、ついシリアスな雰囲気になってしまった。
小金井くんは私の真剣な面持ちをしばらく黙って見つめ、そして、とても真摯な表情で「いる」と断言した。
「仙人はいる。たぶん群馬の山奥とかに、いる」
それは、あまりに力強い断言だった。
これがもしサンタさんの存在に疑念を抱いた幼児に対する肯定の「いる」であれば、その幼児は向こう3年くらいサンタさんの存在を疑わないだろうと思わせるくらいに、相手に安心感を与えるような、力強い断言だった。
そっか……。
小金井くんは仙人の存在を信じているんだ……。
なぜかは分からないけれど群馬県にいると思っているんだ……。
猫と会話ができる神通力を持った仙人的な何かであると小金井くんに誤解されている説に確信を持ったことで、彼の謎の好意の源泉が分かって安心した。
それと同時に、私を仙人だと尊敬している彼の夢を壊さないようにしなければならないというタスクが生じた。
私は仙人になるための厳しい修行による忍耐があるわけでも、尊ばれるほどの人間性があるわけでもない。彼の評価は過大評価であり、それがとても心苦しい。
かといって、私は小金井くんが思っているような人物ではない、猫と話す特殊能力はない、と告げるつもりはなかった。
ずいぶん身勝手な話だけれど、彼に誤解を与えたままでいる心苦しさよりも、普通の人間だと分かって尊敬に値する人間ではないと失望される方が、ずっと辛かったからだ。
誰かに失望されることは、とても辛い。過去に、誰かに深く失望された経験があるわけではないのだけれど、ないからこそ、想像すると怖い。
そういうわけで、小金井くんは全く悪くないのだけれど、その尊敬の眼差しを重荷に感じる私は、彼に苦手意識を抱くようになった。
小金井くんのことが苦手と言っても、彼自身は大変いい人なのだということは分かっている。だから、中学のときも、小金井くんと他の人とで接し方を変えたことはない。私が小金井くんを苦手に感じていることなど、彼を含めて誰も気づいていないだろう。
高校が一緒になった今も、この先もずっと、彼の尊敬の念に対する心苦しさを隠して、誤解を放置し続ける罪悪感を隠して、今までと変わらない態度で、接するつもりだった。
今日、段ボール運びのお手伝いをするまでは、そのつもりだった。




