波
彼が海岸に来るのは、海が好きだからではない。波音が好きだからではない。ただ無為に時間を徒労できるからだった。
1 1月。日曜日。白い曇り空の下、時化模様の海岸には他に誰もいなかった。タンブラーをカバンから取り出して、コンクリートの段に座り、置いた。だだっ広い砂浜に強風に叩かれた波が次々に打ち付けていた。彼はコートに首を縮こませ、ポケットに手を突っ込んで背を丸めた。打ち付ける波を力なく見続けた。タンブラーに口をつけた。ホットココアが舌を熱した。彼はあまり甘い味を好まない。けれど、この場所に来るときはココアにしていた。
タンブラーを置き直す時に、彼はちらと見た。十メートルほど距離を取って、一人の女性が海を見つめていた。白いコートに首を縮こませ、ポケットに手を突っ込んで背を丸めていた。長い黒髪が風にもてあそばれていても、彼女は気にすることもなくじっと力なく海を見ていた。彼は波を見直した。
タンブラーのココアがなくなった。いつもはしないことなのに、腕時計を見た。もう一時間は座っているようだった。彼は立ち上がった。彼女はまだ海を見ていた。
翌週。雨上がりの海岸。彼はホットココアの入ったタンブラーを置いて、座った。ふと横を見てみた。あの女性が座るところだった。目が合った。軽く頭を下げて、彼女は座った。彼も少し頭を下げて、波を見ることにした。彼女はやはり白いコートだった。時折、ペットボトルの紅茶をポケットから出して、口をつけていた。先週よりもひんやりとする日曜の午後、犬を散歩する人が一人、しばらくしてまた一人いたくらいだった。
タンブラーが空になった。立ち上がる時、ふと見ると、彼女も立ち上がるところだった。目があった。彼は軽く頭を下げた。彼女も少し頭を下げた。
翌週。晴天の海岸。彼はタンブラーを置いた。彼女はすでに座っていた。彼女の横にはタンブラーがあった。それを手にして、彼女は彼が今来たことに気づいて頭を下げた。彼も頭を下げた。前日雨が降ったせいで、晴れているのに波が白く立ち上がっていた。風も弱くはなかった。午前中に切ったばかりの髪だから、頭が冷える気がして、ニット帽でも持ってくれば良かったと、彼は思った。
もう軽くなったタンブラーを持つと、彼女が立ち上がっているのが見えた。彼女も彼をふと見たようで、頭を下げた。彼も頭を下げた。彼女が歩く姿を彼は初めて見た。
祝日だった。彼は二日連続で海岸へ来た。白い曇りの下、彼はタンブラーを置いた。寒かった。雪でも降りそうな。風が冷たかった。彼女が来たのは、少ししてからだった。長かった髪が肩にかかるくらいになっていた。首に巻物があった。彼にはそれがマフラーなのかストールなのか分からなかった。彼女は座ったなり、タンブラーに口をつけた。少しむせた。熱かったからか、思いのほか喉に入ったからか。彼は立ち上がろうとしたが、彼女はすぐにむせるのを止めた。彼の眼が心配げであったのを見て取ったのだろうか、彼女は視線を泳がせてから、居住まいを正して苦笑いをしながら頭を下げた。彼は手を軽く上げながら、頭を下げた。
ホットココアを飲み干してゆっくり立ち上がると、彼女も立ち上がったところだった。彼は深々とお辞儀をした。彼女も慌てたようにお辞儀をした。
休日の海岸。彼と彼女の間は十メートルほどから少しずつ近づいて行った。




