マイボール
午前7時、目を覚ます。
起床して、カーテンを開けると、眩しい光が差し込んできた。
服を着替え、次第に家の中を漁り始める。
そして、パンを見つけたかと思えば、それにかぶりつく。
左手にパン、右手には雑誌。
これが俺の日常。代わり映えのない日常。
あるのは、古びた家具と、散らかったゴミや雑誌、そして──
「キャン!」
この雌の子犬である。
「腹が減ったのか?」
子犬は物欲しそうな目で俺を見つめてきた。
「勝手に探してくれ」
俺がそう答えると、子犬は寂しそうに部屋の中を徘徊し始めた。
数日前、俺はこの子犬の飼い主となった。
だが、世話をするとは言っていない。もともと、そんなつもりはなかった。
雨の中、1人段ボールの中で佇んでいた子犬を放っておく気になれなかっただけだ。
1日だけと思い、アパートの部屋に連れ込んだ結果、こうなってしまった。
お人好しかもしれないが、だからと言って追い出すのも気が引ける。そんな生活が続いている。
子犬は何か見つけたのかと思えば、手ぶらでこちらへ向かってきた。
「どうした? 何もなかったのか?」
あいにく米も切らしていて、あるのは俺が今手に持っているパンくらいだった。
「夕方になれば買い物に行く。それまで我慢しろ」
すると、子犬は俺の態度に腹を立てたのか、唐突に吠え出した。しかも、部屋中に響きわたるほど大きな声で。雌犬は手がかからないとどっかのサイトで読んだはずなのだが。
まったく、近所に迷惑がかからないか心配である。ちゃんとしつけをするべきなのだろうかとも思ったが、昨日の夜も何もあげてなかったことに今気づいた。
しばらくして、案の定、アパートのインターホンが鳴った。さっそく苦情がきたかと思い、俺は子犬を無理やり押し入れにぶち込み、恐る恐るドアを開けた。
ところが、出てきたのは隣人ではなくアパートの大家だった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。朝っぱらから悪いねえ。元気?」
「ええ、まあそれなりには」
髪がはねていて、髭も剃っていないようなだらしないこのありさまを果たして元気と呼べるのかは疑問だが、とりあえずそう答えておくことにした。
「立花君さあ、悪いんだけど、これ回しておいてくれないかな」
と言って回覧板を渡された。
「ほら、お隣の谷口さん、今旅行中だから」
「ええ、それなら構いませんけど」
俺は回覧板を受け取ると同時に、騒音の被害報告にきたわけではないことがわかり安堵した。だが、そんな俺の安らかな心は一瞬にして砕け散るのであった。
「あと、キャンっていう鳴き声みたいなのが聞こえたんだけど」
その言葉を聞いて俺は思い出した。このアパートがペット禁止だということを。大家の唐突なセリフに俺は完全に動揺していた。
大家に相談したら、認めてくれるだろうか。いや、でもこの人は以前に、「犬はうちの女房と同じくらい可愛げがない」とか言っていたはずで、とても認めてくれるようには思えなかった。
良い案が浮かばず、ただ殺伐とした無言の時間が続いた。言い訳を考えよう、そう思った。
「……犬……飼ってる?」
「いいえ、勢いよく食べていたアメリカンドッグの棒が喉に刺さってしまって呼吸困難になっただけです」
「…………」
「…………」
ああ、穴があったら入りたい。
「……まあ、君もいい大人なんだし、不健康な生活してないで、たまにはちゃんとしたものを食べなさい。今度、女房を料理のおすそ分けに行かせるよ」
「わかりました。お気遣いありがとうございます」
俺は一礼して、大家を見送った。
こうなってしまった以上、仕方がない。俺は犬の餌を買いに行くことにした。腹が減ったと騒がされてもどうしようもないからな。
「今からスーパーに行ってくる。だから、この辺でじっとしていろ。変なことをしたり、吠えたりするなよ」
押し入れから出した子犬にそう言いつけると、子犬は素直に返事をした。
なんてわかりやすい奴なのだと思いながら、俺は身支度もせず、財布のみをポケットにいれて外に出た。そして、戸締りをしようと鍵を取り出したところ、足元に子犬がいた。
「お前、なぜそこにいる」
子犬は何も答えなかった。
俺が無視して歩き出すと、子犬は俺についてきた。
ついてきても何も良いことはないのにと思いながらも、たまには1人だけでない散歩も悪くないと思った。高校を卒業してから、俺はまともに人と並んで会話をした覚えがない。そのせいか、犬の言葉は分からないが、会話をしているような気分になれるのは嬉しかった。
と思ったのは最初の3分程のことで、子犬は分かれ道に出ると、スーパーとは逆方向の道へ進みたがっていて面倒だった。逆方向であることを伝えても、子犬は頑なに拒んだ。
「そっちに行っても腹が減るだけだぞ」
そう言い残して歩き出すと、子犬は仕方なさそうについてきた。
15分程でスーパーに着くと、俺は犬に入口で待っているように伝えた。本来ならばリードのようなものを付けておくべきなのだが、1人で出た買い物に犬がついてきていた事は想定外だった。
それとも、一度家に戻るべきだったのだろうか。
俺はスーパーの中に入り、一番安いドックフードを選んだ。あいにく、月末で貯金が残りわずかだった。高校を卒業してから2年、就職先が見つかるまでの間という約束で、両親から仕送りを受けている。
だが、うちはそこまで裕福ではないため、支援の額はほんのわずかで、その上一向に就職先が決まらない。
いつものように、大量のカップ麺を買い物かごに入れながら思った。いつからこんな生活に慣れてしまったのだろうか、と。
スーパーを出ると、子犬が誰かと一緒にいることに気付いた。
どうやら子犬は餌をもらっていたようで、嬉しそうに食べていた。
「よっ! 立花」
犬に餌を与えていたのは、高校時代の同級生だった。
「たまたまお前を見つけたから、声をかけようと思ってさ。全然連絡もよこさないから、心配したんだぜ。たまにはメールの1本くらい送ってくれよな」
昔から俺は、こいつの性格が苦手で、よりにもよってこんな時に人と出会いたくはなかった。
「何が言いたい?」
「昼間から犬とお散歩して楽しいかってことさ」
凍りついた空気の中で、男は喋り続けた。
「なあ、立花。いい加減お前もわかるだろう。このままじゃいけないって。こんなことしている場合かよ。高校のときの田中や松井だって皆お前のことを気にしているんだぜ。だからさあ……」
「お前には関係ないだろ」
そう言って、俺は子犬を連れてこの男から離れた。
「今、うちの会社、社員募集中なんだ。お前にその気があるなら、上司に紹介しておくよ。すごくラフな会社でさ。きっとお前にも合うよ」
遠くから叫ぶ声が聞こえたが、無視して去った。
俺は、成績は中の上くらいで、友達もそれなりにいて、休日はどこかで遊んでいるような、ごく普通の高校生活を送っていた。だが、ある日を境にして俺の心は壊れた。
かつて、俺には仲の良かった女子がいた。もともと体の弱い子であったが、よくキャッチボールをしていたのを覚えている。それが楽しみで、毎日放課後の校舎裏に通った。
だが、そのときの俺はまだ何も知らなかった。毎日キャッチボールをするたびに、彼女の症状が悪化していっていることを。
入院してから数週間で彼女は亡くなった。しばらくして、学校にも伝えられ、クラスでも話題となった。俺は会話に入ることもなくただ傍観していたが、翌日になると、そのような話題をする人は誰一人としていなかった。
何事もなかったかのように授業が始まり、放課後になると皆部活動に励んだり帰宅をする。彼女が1人欠けたところで、問題なく日常は過ぎていく。
俺はただ、そんな世界が怖かった。死とはこんなにも虚しいものであったのだと思った。何かを失わずして、何も得ることはできないのだろうか。その頃からだろうか。俺は、人とまともに関われなくなった。こうして、今もこういったしがらみが続いている。
今でも普通に話せるのは、両親と事情を知っている大家くらいだ。
俺はこの犬のことをどう思っているのだろうか。それはまだわからなかった。
俺は、袋からシュークリームを取り出して、ひと口サイズにちぎった。
「食べるか?」
子犬が返事をしたので、あげることにした。
「そういえば、お前の名前、まだ決めてなかったな。何がいい?」
キャンと鳴くからキャン太郎にしようかと思ったが、こいつは雌だった。
「じゃあキャサリンはどうだ。高貴な感じがしていいぞ」
あまり嬉しそうな顔をしていなかったので、キャンと呼ぶことにした。
日付が変わり、午前7時、いつものように目を覚ます。
外を見ると、大粒の雨が絶え間なく続いていた。これは一日中やみそうもない。
俺は服を着替えた。そして、雨は流れた。
顔を洗った。雨の音が聞こえなかった。
餌の準備をした。外の音が激しくなった。
キャンに餌をあげると、嬉しそうに食べ始めた。俺はその光景を見つめながら、キャンと出会った日のことを思い出していた。
ある雨の日。俺は、就職面接の帰りで傘をさしながら公園の近くを通った。どうせ落ちたのだろうと思い、気を落としていたそのとき、小さな段ボールの中で、濡れた体のまま佇んでいる子犬がいた。
見捨てることもできたが、どうもそんな気にはなれなかった。
大丈夫かと声をかけても何も反応しなかった。相当体力が減っていたのだろう。
段ボールの中には濡れた紙が入っており、霞んだ文字で「メスです」とだけ書かれていた。
いやいや他に何か書くことあるでしょ普通と思いながら、俺はこの子犬を家に連れ帰った。
そうだ。俺は孤独だった。誰にも理解してもらえない恐怖が俺を苦しめている。でも、キャンと出会ったとき、こいつには俺と似たものを感じた。こいつなら俺を分かってくれるのではないかと思った。
ただ、そんな身勝手な理由で連れてきてしまった。
はたしてキャンは俺といて幸せなのだろうか。
翌日になると、雨はすっかりやみ、空は一面快晴に覆われた。
ベランダに出ると、心地の良いそよ風が吹いていた。
こんなにも清々しい気持ちになれる朝は久しぶりだった。
屋根から落ちてきた雨粒が、ベランダの鉄格子に当たって輝いて見えた。
空を見ていると、不思議な気分になる。空はこんなにも幻想的だっただろうか。
後ろを向くと、ボールを咥えたキャンがいた。
「おまえっ! どこからそのボールを」
どうやら押し入れの箱から取り出したらしい。キャンが咥えているボールは、俺が中学のときに使っていたボールだ。俺にとってボールは、俺と彼女を唯一結びつけたものだった。
彼女とキャッチボールをしていたボールも、今ではどこかにいってしまった。
どこかに捨ててしまったのかもしれない。
今までなら、そんなボールを思い出したくもなかった。でも、今なら、キャンの咥えているボールを手に取っても良い、そう思えた。
「なあキャン、そのボールで遊びに行かないか?」
そう言って俺はキャンを外に連れ出した。
昨日の憂鬱なことなど全部忘れ、ただ無心に青空の下を歩く。
昨日とは世界が変わって見えた。
キャンと一緒なら、もしかしたら俺は変われるのかもしれない。難しいことかもしれないが、少しずつ生きがいを見つけていけるのかもしれない。
公園までの道のりは、途中までスーパーと同じなのだが、キャンは前と同じように分かれ道で逆方向へ進みたがっていた。
「そっちに行っても何もないぞ。お前はボール遊びがしたかったんじゃないのか?」
俺がそう説得しても、キャンは一向に自分の意思を曲げようとしない。だがしかし、今日はちゃんとリードを付けてきた。こいつの思うようにはさせない。
一時は綱引きのようなことが続いたが、キャンはようやく諦めたようで、15分ほどで公園に着いた。こうして、1人と1匹のボール遊びが始まった。
「よし、キャン。今から俺がこのボールを投げる。だからそれをお前はキャッチするんだ。いいな?」
俺は近距離でボールを投げると、キャンは地面にバウンドしたボールを獲物であるかのように飛びついた。まあ最初はこんなものだろうと思い、ボールを投げ続けた。
10回目。ようやくキャンがタイミングをつかんできたが、なかなかキャッチは難しい。
30回目。3度目の正直に10を掛けたらうまくいくかと思ったが、キャッチまでの道のりは険しかった。
結局、50回目で俺が挫折した。
それでもキャンは嬉しそうにボールを俺のもとへ持ってくる。
こいつはただ俺と遊びたかっただけなんだな。
ふと時計に目をやると、とっくに昼を過ぎていた。
その後も何度かボールを投げ続けたが、うまくいくことはなかった。
「まあいつかできる時がくるさ。今日はもう終わりにしよう」
そう言って俺たちは公園を去った。
帰る途中、貯金を下ろすためにコンビニへ寄った。
俺は犬を入口で待たせ、中に入った。
月の初めは、コンビニに寄り、貯金を下ろしてその日の夕飯を買って帰ることが俺のルーティーンとなっている。
今日の夕飯は何にしようか。そんなふうに思考を巡らせて冷凍食品やパンを選び取っていく。これがまた楽しいのである。
最後にデザートを買うか否かで10分近く迷った。買うと決めた後も、エクレアとシュークリームのどちらにするかを夢中になって考えていた。
そう、コンビニに入ってから会計を済ませるまでほんの15分ほどだった。
それなのに、コンビニを出た先にキャンの姿はなかった。
俺は焦った。リードを繋げ忘れていたのかもしれない。それとも、もし事件にでも巻き込まれてしまっていたら。
俺は店の店員たちに子犬を見ていないか尋ねたが、どれも当てにならなかった。
一旦アパートへ戻ろう。1人で先に帰ってしまっただけかもしれない。
俺は急いで走った。けれど、こんなにも悲しい予感がするのはなぜだろう。大切な誰かが急に居なくなってしまう予感が。それに、なぜもっと早く気づけなかったのだろう。
俺はコンビニの中でバカなことに夢中になっていた自分を悔いた。
アパートの前にも、キャンの姿はなかった。
俺はどうしたらいい。時計は午後3時を過ぎていた。
日が沈むまでには何としても探し出したいと思ったが、残されている手段はあまりない。
俺はもう一度、アパートから公園とコンビニまでの道のりを辿ることにした。
公園に向かう途中、分かれ道に出た。
キャンがいつも逆方向へ進みたがる場所だ。
今日も前回も、なぜその道に行きたがるのかはわからない。けれど、もしかしたらその方向にキャンがいるのかもしれないと思った。
この道は、周りに住宅街や森林が並んでいてその先には俺の高校がある。今となっては来る用のない道だが、高校生の時に通った覚えが多少なりともある。
俺は一生懸命に走り続けたが、特にめぼしいと思ったものはなく、人通りが少なく目撃情報を得られそうになかった。結局、キャンを見つけることができないまま高校に着いてしまった。
もう二度とここへ来ることはないと思っていた。どうせ来るなら、もっと立派でありたかった。今の俺は、大切な人に何もしてやれなかった昔の俺と何も変わらない。
俺は昔キャッチボールをしていた校舎裏の場所が残っているかどうか気になって入ることにした。変わらない風景。古びた校舎。置き捨てられたバット。
校舎裏を懐かしく思いながら散策していた俺は、次の瞬間、驚愕の事態に遭遇した。
校舎裏の隅に、子犬がいた。
俺はキャンの名前を呼ぶと、子犬は振り返ってこちらを見た。
間違いない。キャンだった。
キャンは地面の土を掘っていた。
無事でよかったと、はじめに思った。俺が心配性であっただけなのかもしれないな。
けれど、なぜキャンはこんなところにいるのだろうか。
当然、こんな場所に連れてきた覚えはない。
そして、なぜ土を掘っているのか。
疑問に思ったその瞬間、俺はある既視感を覚えた。
俺の脳裏にひとりの男が浮かぶ。
悲しさに耐えきれずに、思い出の場所にボールを埋める男。
みじめで滑稽な男。
そんな奴は、俺以外の誰でもなかった。
四年前のある日のこと。
「俺は立花灯。君の名前は?」
「あ……わたし……沢部美紗樹です」
みさきと出会ったのは、まだ春の暖かい季節のことだった。
出会いは至って普通だった。
1人で運んでいた重そうな体育器具の片付けを手伝ったことがきっかけだ。
これを機にみさきという子は色んなことを話してくれた。
小さい頃から病気がちで体が弱いこと、そのせいで体育の授業は休むことが多いこと、率先して器具の準備片付けを1人でしていることなど。
ショートカットの髪に、清潔感があって可愛らしい顔立ち。友達が何十人もいてもおかしくない程の風格がにじみ出ていた。けれど、話しているみさきの雰囲気はどことなく寂しそうだった。
片付けを終えると、みさきはお礼がしたいと言ってきた。
そんなつもりで手伝った訳ではないが、どうしてもと言うので、俺はみさきをキャッチボールに誘った。意外にもみさきは提案に好意的だった。
こうして2人の放課後は始まった。
出会ってから数日、俺は今日も中庭でみさきとキャッチボールをしている。
突然の提案で始まってしまったものだが、帰宅部の俺にとって、こんな風に体を動かすのは悪くなかった。
ただ、ひとつ言うとするならば、みさきは極端に運動神経が悪かった。まあ、昔から病気でスポーツが出来なかったというのだから無理もない。
「まずは姿勢からだな」
俺は、中学時代の野球部の経験をもとに、投球フォームや捕球を教えていった。
こんなことをしても、俺には何の得もない。意味のあることなのかもわからない。
だが、あの日以来、みさきが中庭に来ない日はなかった。みさきにとって、俺とのキャッチボールが楽しいと思ってくれているのならば、それでいいのではないだろうか。
季節は過ぎ、夏になった。
夏休みだというのに、俺たちは今日も中庭でキャッチボールをしている。
普通なら、夏休みと言えば、浴衣を着て花火大会に行ったり、海へ行って遊んだりするものなのだろうが、みさきはこれがいいと言うのだから仕方ない。それに、そもそも俺は女子を誘って遊びに行くなどという柄でもなかった。
だが、毎日キャッチボールを続けるうちに、みさきは着々と上手くなっている。それに加えて、自信もついたのか、笑顔が増えるようになった。
暑い夏が終わり、秋がやってきた。
木の葉が次第に色づくようになり、寒さが増してきた。
春からの練習で、みさきは見違えるほどスピードも飛距離も上がり、もう教えることもほぼなかった。思い返せば、あっという間の半年間だった。
冬になれば、雪が降ってさらに寒くなる。そうなれば、今のようにキャッチボールをすることも無くなるだろう。もう会うこともないかもしれない。
俺はみさきのことをどう思っているのだろうか。
単なる友達……なのだろうか。
でも、だとしたらこんな風にキャッチボールに付き合ったりはしなかっただろう。
だから、きっとそういうことなのだろうな。
今日もみさきは中庭へやってきた。
俺は体育倉庫から道具を取り出し、みさきにグローブとボールを渡した。
「ちょっと投げてくれないかな。久々に打ちたいんだ」
俺たちはグラウンドに出て、みさきにピッチャーをやってもらった。
モヤモヤした気分になった時に、俺は昔から素振りをよくしていた。体を動かすと元気になるし、この時期においては体が温まる。
何本か打ち終わった時に、みさきは俺に訊いてきた。
「ホームランも、打てたりする?」
「まあな。打てないことはない」
「じゃあ……勝負しない?」
「勝負? 野球のか?」
「うん。私がピッチャー。チャンスは3球。あそこのフェンスを越えられたらともる君の勝ち」
「……わかった。勝負を受けるよ。で、負けると何かあるのか?」
「もし、私が勝てたら……勝てたとしたら1つお願い聞いてくれないかな」
みさきの目は真剣だった。
きっと今までの成果を試したかったのだろう。ならば、俺も本気で行く。手加減は不要だろう。
俺は提案に了承し、ゲームが始まった。
俺はバットを強く握りしめて構えた。
立っていると、身体を包み込んでくる秋の風が肌寒かった。
「さあ来い!」
みさきは体全体を使って1球目のボールを投げてきた。
俺は向かってきたボールを見てとても驚いた。最初の頃とは比べものにならないほどのスピードで、ストライクゾーンにもしっかりと入っていた。
俺はボールに反応できなかった。
「ストライクだ。やるな」
今のは仕方がない。だが、これでタイミングは掴んだ。次は打つ。
続いて2球目が来た。
相変わらず速いストレートだった。だが、迷う必要はない。
俺はバットに力を込めてみさきのボールを打ち返した。
だが、バットはボールの若干下を擦り、打球は高く上がってしまった。
「やべえ。ピッチャーフライだ」
空高く上がったボールは、みさきの真上に落ちてきた。
これならホームランどころの話じゃないな。でも、だとしたら、このボールを取ってくれ。そしてもっと自信をもって欲しい。
みさきはグロープを構えて、見事にボールをキャッチした。
俺の負け、か。強くなったんだな。
俺はバットを置いて、みさきのほうへ向かった。
だが、様子が少しおかしい。咳をしているのだろうか。
「どうした? 砂でも入ったのか?」
「ううん。なんでもない。大丈夫」
大事ではなかったようだ。
「強かったよ。完封だ」
「うん。ともる君のおかげで、私こんなに頑張れた。上手くなれた。本当に……ありがとう」
「俺もやっていて楽しかった。礼には及ばないさ」
これが練習の集大成となったわけだ。
ところで、お願いとは何の事なのだろうか。俺は気になって訊いてみた。
「実は私……明日から隣町の病院に入院しなきゃいけないの。だから、もうキャッチボールはできないかもしれない」
入院? そんなことは何も知らなかった。症状が良くないのだろうか。
唐突に不安がこみ上げてきた。
「じゃあお願いって?」
静粛な雰囲気が数秒間続き、みさきは勇気をふり絞ったようにして答えた。
「……私とキャッチボールをしたこと、忘れないでください」
どうしてそんな悲しいことを言うのか今の俺にはわからなかった。今の俺には何ができるのだろうか。
「わかった。約束する。その代わりに、ちゃんと元気になれ。そしてまたキャッチボールをしよう」
2人はお互いの目を合わせ、微笑んだ。
そして、美紗樹がここへ戻ってくることは二度となかった。
俺は、キャンの掘っている土を一緒に掘った。
かつて自分が埋めたボールを見つけるために。
しばらく掘っていると、何か白いものが見えた。
ボールだった。
泥が付いていて、草の色がついていて、けれども懐かしさのある思い出のボール。
そんなボールがここにあったのだ。
「嘘じゃ……なかった」
今まで、美紗樹との出会いも、キャッチボールも、死も全部嘘だと思って逃げてきた。そうすれば楽になれると思っていた。だって俺は弱いから。真実を知るのが怖い臆病者だから。
でも、ボールはここに残っていた。
このボールには沢山の思い出が詰まっている。その思い出に決して偽りはない。
思い出はあの頃と何も変わらない。練習や勝負をした思い出も。
ただ、美紗樹だけがもういない。そのことを実感した。
やっぱりお前はすごいよ。
もっと辛くて、きっと沢山の悩みを抱えていたに違いない。でも俺の前では一切そんな顔を見せずにいつも笑顔だった。
もっと俺を頼れよ……バカ
俺はどうだ? 自分が上手くいかない原因を人のせいにして、その上大切な思い出までも忘れようとしていた。
お前の方が最初から俺なんかよりもずっと強かった。
俺の方が何倍もバカだった。
「…………ありがとう、本当に」
しばらくして、俺たちは学校を出た。
帰る前に、俺はボールを出てきた場所に再び埋めておくことにした。
約束したから。もう俺は大丈夫だから。
ボールがそこに埋まっている限り、俺がいつか死んだとしてもそれは思い出としてずっと残り続ける。それってなんだか素敵なことだと思わないか?
真っ赤な夕日が俺とキャンを照らしていた。
午前7時、目を覚ます。
起床して、カーテンを開けると、眩しい光が差し込んできた。
服を着替え、漁って見つけたパンにかぶりつく。
左手にパン、右手にはマナー本。
これが俺の日常。だが今日は一味違う。
知り合いに連絡を取って会社の面接を受けさせてもらうことになっている。
支度を済ませ、玄関に出た。
今の俺なら、きっと大丈夫。
塞いでいた心が今では晴れ、新しい道へと進もうとしている。
ただ、1つだけ気になる事がある。キャンのことだ。
あいつは一体何者だったのだろう。
「キャン、お前まさか……」
キャンは答える訳でもなく、ただ笑っている、そんな風に見えた。
「そうか。 わかったよ」
俺は玄関を出て走り出した。
俺が今から進む道には沢山のことが待っている。
走っている最中に誰かが優しく呼びかけてくるような声がした。
「いってらっしゃい」と。
最後まで読んでくださったことに深く感謝申し上げます。貴重なお時間をありがとうございました。