デレック・スティルウェル(2)
森君と冷泉君の会話に傳公子先輩、藤原沙由里先輩が絡んでくる回です。
「お。いい所に気が付いたねえ。さすが森君だ」
「わあ、吃驚した」
いつの間にか、傳先輩が後ろから近づいてきていきなり声を掛けるものだから、心臓が喉から飛び出すかと思つた位である。
「なんなんですか、公子先輩。いきなり声を掛けないで下さいよ」
「悪い、悪い。驚かす積りはなかつたのよ。さて、是等リグは歴代の諸先輩方が部費や自腹で購入したものを寄付してくれた結果と其の集積なのよ。そしてご存知の通り、不具合があると、決して廃棄する事なく補修しては復活させて活用してきたの。最近はデジタル処理したものが流行してゐるのは分かつてゐるのだけれど、敢へて其方に移行しないのは、教育的配慮もあるのよ」
「教育的配慮?」
「さうよ。森君、因みに故障があつた時どんな手順を踏んでゐるか、思ひ出して見て」
傳先輩の質問に一つずつ思ひだしながら、指折りして挙げて見た。
「まずは、症状から自分の手に負へるかだうか、自分なりに判断しますね。例へば‥」
「例へば、どんな感じ?」と傳先輩。
「部にあるサービスマニュアルを見て、まあ大抵英語版のPDFが多いですが、其れを見て、自分のスキルや時間を計りに掛けて、いけさうなら自分で遣りますし、無理と思つたら、何時もの様に先輩に相談して許可を貰つた後に、何時もお願ひしてゐるセミプロさんに出しますね」
傳先輩はふふんとばかりに鼻をひくひくさせた。これは先輩がドヤしたひ時のお決まりのパターンだ。
「今、森君が判断する手順の中に秘密が隠されてゐるわ。まず第一に英語よ。英語のサービスマニュアルを読む、つまり英文読解ね。次に、サービスマニュアルの回路図を読むと云ふ事ね。まあ、ガチガチに内容を理解出来なかつたとしても、構成図や各回路の原理的な所が理解出来てゐなかつたら症状から何処をチェックすれば良いかも分からない訳よね。つまりこれは物理の勉強ね」
確かに先輩の云ふ事に一理ある。無線をやると、だうしても学校の授業よりも少し先取りした様な結果になつてしまふ事はある。別に自慢したくてさうなるのではなく、必要に迫られてさうなつてしまふのだ。確かに、今勉強してゐる中学の英語、理科の内容に比較すると「オタク」的な感じではある。
「傳先輩、其れを云つたら僕なんかだうなるんです?小学生の頃から家で親父から似た様な事を仕込まれてゐましたよ」
脇から冷泉君が参加してきた。
「まあ、冷泉君の所は英才教育が行はれてきたと云ふ事ね。お父さんに感謝なさい」
冷泉君はさう言はれるとやや呆れた様な表情をして見せた。
その時、部室の戸が開いて、藤原沙由里先輩が入つてきた。
「あら、三人で何か会議かしら」
沙由里先輩はさう云ふとカバンを机の上に置き、冷泉君が読み掛けにしてゐた専門誌を手に取つた。
「今月の別冊は、何々、FT8?ああ、最近矢鱈流行つてゐるとかいふ」
窓の外、部室から見へる外の景色は相変わらずどんよりした雲が垂れ込め、雨がシトシトと降つてゐる。
「ああ、沙由里。今ね、我が部の哲学に付いて語り合つてゐた処」
また公子先輩は、口から出任せを。
「哲学?プラトンとか、ソクラテス?」
「惜しいなあ。歴代の無線部の諸先輩よ」
沙由里先輩は分かつてゐてボケた問いをしてゐるのが良く分かつた。先輩思ひなのだ。
「諸先輩方の哲学。なかなか高尚なものがありさうだわ。今日は特別に四人で哲学に付いて語り合いませう」
出た。無線部お得意の雑談大会だ。時々かうして脱線しては、トークに熱中するのだけれど。まあ、良いか。何時も無益な話と云ふ事ばかりでは無いから。
公子先輩は、先程の話を繰り返して、沙由里先輩を話の輪の中に引き込んだ。
「まあ、確かにさうとも言へるけれど、基本、部費が決定的に不足してゐる、と云ふ点は指摘しても良いわよね?」
沙由里先輩は一番キツい点をさらりと言つて見せた。
「其れを言つてはお仕舞いね。寅さんじやないけれど」
寅さん?いや、さう云ふ映画があつたのは知つてはゐるけれど。
「確かに、世の中で部費が余つて仕方がないといつた部活動は少ないでせうね。公子先輩、失礼しました」
「いいのよ、沙由里は何時も丁寧ね。見習はないといけないわね。哲学と云ふよりは生活の知恵と言つた方が近いかしら。男子二人も確か電鍵を自作する事があつたわよね」
話が此方に振られてきた。
「ああ、さうですね。連盟支部のOMが少年向きに電鍵の工作会をやつたりしてゐますね。予算小さめで済むやうにとか。海の向かふでは二、三千円で電鍵が手に入るから其れを目指して、とかでした」
冷泉君が率先して模範解答をして見せた。次は僕の番、といふ事か。
「僕は、母のアイディー経由でオークションで探す事がありますよ。いい値段するのもありますが、結構熟れた値段で出てゐる事もあつて、小遣いの範囲内で母に落札して貰ふ事もあります。まあ、親に心配を掛けないと云ふ事もありますけれど」
僕は、ややマザコンを疑はれないかと心配したが、三人が三人とも額面通り、優等生な部活動を保護者に示してゐると解釈してくれたお陰で僕の体面は保つ事が出来た。
「森君もなかなかやるわね。簡単に出来る事ではないわよ、其処まで開示して趣味活動するのは。立派、立派」
公子先輩、何か後ろ暗い事でもしてゐるのですか?
そんなこんなで四人でワイワイと雑談してゐる裡に、中学生の部活の終了の時刻が近付いてきてゐた。
「時間が経つのが早いですね」
僕はそんな事を呟きながら、改めて外の雨の様子を確かめた。まるで止む様子はない。
「ああ、もう終わりの時間ね。今日もなかなか有意義な雑談だつたわ。帰りは気を付けて帰つてね。外は暗くなつてきたし、雨も止まないし」
公子先輩は、窓の先遠くに視線を遣りながら、呟く様にそんな事を言つた。
「其れでは失礼します」
僕と冷泉君は揃つて挨拶してから、部室を後にした。
「梅雨とは云へ、鬱陶しいですね、この雨。僕は梅雨時から残暑に掛けてのこの季節が苦手なんですよねえ。湿度。参りますよね」
冷泉君は自分の手で首の辺りを扇ぎながらそんな事を云ふ。
「今時の女子高生がするみたいにUSB扇風機でも使ふかい?」
「あ、あれ!いやあ、流石にあれをする勇気はないですね。あれはJK専用ですよ」
街を行き交うクルマも人も、梅雨時の湿つた空気を背負つて忙しない。二人はそんな空気の中に溶け込みながら、駅に向かつて歩き続けた。
「其れじゃ、先輩、僕は此処で」
「ああ、反対側だつたね。お疲れさん」
僕は冷泉君に軽く別れの挨拶をすると、ふと思ひ付いて、駅にある喫茶店で休憩する事にした。少しネットで調べ事をしたかつたのだつた。
「いらつしゃいませ。ご注文は何になさいますか?」
自動ドアが開き、一歩中に入ると、何時もこの時間帯にゐる女性の店員さんから挨拶される。そして聞かれるままに答へる。
「えと、ブレンドとカボチャのタルトをお願ひします」
「畏まりました。お会計は六九一円になります」
通学用定期券になつてゐる交通系のカードで決済し、少し右に移動して、コーヒーが入るのを待つ。夕方で多少混んではゐるけれど、一人席はポツポツと空きがあるから、席取りに焦らなくとも良さそうだ。
トレイにコーヒーとソーサー、タルトの乗った皿を各々乗せ、慎重に一人席エリアに向かふ。道路に面した席を一つ確保し、学生鞄からパイナッブルコンピューターのタブレットを引き抜き、テーブルに置く。そして空いてゐーる隣席に軽くなった学生鞄を置いた。
「えと、図書館のサイトはと‥」
独り言を云ひながら、地元の区立図書館のサイトを開いた。幾つかキーワードを入れて、検索に掛かつた何冊かの図書からを予約リストに入れ、其の儘予約する事にした。今面白いと感じて読んでゐるのは無線関係では「幻のレーダー・ウルツブルグ」など。ロシア文学も好きで借りてゐるのはチェーホフ。難解で未だ手が出ないのはドストエフスキー。高校生位になつたら手を出してみたい。金融史等もポロポロと借りてゐる。自分で読書の趣味が少し変わつた中学生かも、と思ふ。
気が付くと、この作業だけで二十分以上掛かつてしまつた。さて、図書館関係の用事は済んだから次はオークションだ。
僕は未成年だから、本人名義で入札する事は出来ない。だから、親に代理でオークションの入札を頼む事がある。其れはつい先程部室で皆に説明した通りだ。
ウヲツチリストの中から、今特に気になつてゐるアイテムを再チェック。今日の夜が締め切りの案件だ。
僕が注目してゐるのは直電鍵。イギリス製の今迄見た事のない電鍵だつたけれど、姿形に一目惚れしてしまつた。その案件のページをスクロールして見てゐると。
「森先輩、例の直電鍵、メーカー名とかが分かりましたよ。親父が知つてゐました」
「あれ!冷泉じやないか?もう帰つたんじやなかつたの?」
いきなり冷泉に声を掛けられて驚いた。見ると制服ではなく、作務衣姿である。
「えへへ。例のオークション、今夜が締め切りですよね。気になつちやつて。以前藤原先輩に聞いたら、森先輩は帰り掛けにここの喫茶店に立ち寄る事が多いからつて。ビンゴでした」
冷泉はぺろつと舌を出して、そんな事を云ふ。
其れに今気になる事を。沙由里先輩が僕がここに立ち寄る事を知らない事はないけれど。いや、確かに一度ならず沙由里先輩と二人で一緒にお茶をした事はあつたけれど。
「ゲホ、ゲホ、沙由里‥藤原先輩に聞いたのか。仕様が無い奴だな。まあ、いいや、座りなよ」
僕は席に置いてあつた学生鞄を膝前の荷物置きに移動し、冷泉の為に席を作つた。
「お邪魔します」
「冷泉、君、注文はいいのか。何か頼まないといかんぜ」
「あ、もうクラブサンドセットを頼んだので。後から係りの人が持つてきてくれます。お腹、空きますよね、この時間帯。一度自宅迄戻つた後に此方に来たので。夕食まで我慢出来ませんから頼んでしまひました」
「お父さんに聞いてから、戻つてきたのかい?」
僕は冷泉の義理堅い、或いは熱心さに少し打たれるところがあつた。少し目がウルウルしてゐたかも知れない。
暫く喫茶店での回になります。