デレック・スティルウェル(1)
電信ボーイズの先輩格の森君のお話です。
放課後の鐘が鳴つた。
外はまだ日没迄時間がある。五月連休の後、梅雨時でもあり、空には雨雲が垂れ込めてはゐるが、夏至が近いだけにまだ暗くなる様子はない。雨による湿気と若者の汗の匂いで充満した教室を後にして、何時も様に部室のある棟に向かふ。日常の一部として、放課後集まつては電信での交信を繰り返す。これが将来の仕事と関係する何かになる、と云ふ訳ではないのだらうけれど、不思議とやめられないのは何故なのだらうか。
「森先輩、此れ、見て下さいよ」
今年無線部に入つた(と云ふか連れて来られた)中一の冷泉君が、僕、即ち交信の合間にヘッドホンを外してマイボトルの魔法瓶からラッパ飲みしてゐた、僕、即ち森瑠須に声を掛けてきた。先輩と云つても一つしか年も学年も違はない。彼とは友達の様なものだらうか。
「何、だうしたの?」
「この電鍵ですけど、先輩知つてますか?」
冷泉君がアマチュア無線の専門誌のあるページを指差して質問してきた。見ると、白黒の写真ではあるけれど、見覚へのある姿形をした、直電鍵だつた。
「ああ、其れかあ。かなり昔に生産が終わつたモデルだけれど、オークションに出品されると大人の人達が今でも結構高値を付けて落札してゐるらしいよ。君のお父さんなら良く知つてゐるんじやないかなあ」
日本国内で電鍵を製造販売してゐる所は幾つかあるけれど、其れはよく知られてゐるあるメーカーの真鍮製の電鍵だつた。
「さうですかあ。親父の電鍵のコレクションにあつたかなあ?今度聞いて見ます」
「其れがいいよ」
そんな会話をしてゐる裡に、広めの信号フィルターにしてをいた無線機の、外付けスピーカーからCQが聞こへてきた。
「えつと‥6エリアの局だな‥呼んでみるかな‥」
ヘッドフォンを被り直し、ジャックを改めて差し込んで、スマホのファンクションジェネレーターのアプリを起動。800 Hzの音を出す。無線機から聞こへる音が、800Hzより高い。少しずつ周波数を示す数字を上げて行く。お互いの音が作る唸りがなくなれば、ゼロインだ。そして、フィルターをナローにして、と‥
以上の動作を手際良くやらなければならない。最新の機械なら、機械任せらしい。
ツートト ト トツーツーツー ツーツート トツーツーツーツー ツーツートト トツートト ツー トツーツーツー ツーツート トツーツーツーツー ツーツートト トツートト ツー ツートトト ツートツー‥
(此方はJG1ZLT JG1ZLTどうぞ)
と打つと、直ぐ様返信があつた。
ツートトト ツートツー トトツー トツート トトトトト ツート ツート トトトトト ツート ツート ツートトト ツートツー
(了解。 貴局の了解度信号強度音調は599です。どうぞ)
ツートトト ツートツー トトツー トツート トトトトト ツート ツート ツー トトツー ツ ツ
(了解。貴局の了解度信号強度音調も599です。有り難うございました。ご機嫌よう)
ツー トトツー トトトツートツー ツ ツ
(有難う。さやうなら)
ツ ツ
(さやうなら)
‥
と云った調子でごく短めの交信を繰り返すパターンが多い感じではある。
今のパターンに加へて、天気の事、自己紹介として名前、使つてゐるリグやアンテナの紹介をしたりする、もう少し長いパターンもある。
知り合った局でまたベテラン同士だと、途中から和文モールスに切り替へて、欧文の略語だけではなく、国語で普通に会話してゐるのも良く耳にする所だ。
「森先輩、599BKだけだと物足りないんじやあ、ありませんか?」
隣で専門誌を読みながら、此方の交信の様子を伺つてゐた冷泉君がそんな事を云ふ。
紙のログ(無線交信の内容を記録するノート)に交信内容をペンで記しながら、僕は返事をする。
「冷泉は和文もお手のものだものな。僕はまだまださ。色々と経験値を積まないと、と云つた処かな。和文は聞き取りの練習中だしね」
そんな事を言ひながら、自宅からでは、時々2エリアの局長さんと、ちょこちょこ和文で話す事もある。とは云へ、かなりQRS(ゆっくりした交信速度)なので、冷泉君の前で披露するのは遠慮してゐる。彼の様に親御さんから手解きされた口ではないので、まあ、英才ではない、のんびりした方だと、自分でも思ふ。
「しかし、このリグも僕達よりずつと年上だもんな。ゼロインもマニュアルだし。無線部のリグの殆どがアナログ機と云ふのも、部の歴史を感じさせるよね」
僕は部室の棚に並んでゐるリグ(無線機)を眺めながらふとそんな事を口にした。
電鍵を巡つて、お話は続きます。