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電信ボーイズ・電話ガールズ  作者: 江戸熊五郎
傳先輩の場合(山は呼ぶ)
2/6

山は呼ぶ

私の名前は、傳公子。でんきみこ、である。なかなか素敵な名前でせう?現在私は高校二年生。花も恥ぢらう十七歳である。參つたか。東京都にあるこの男女共學の中高一貫の學校に通つて早いもので四年が經過した。成る程、思春期とは良く言つたもの。入學したての中學一年生の頃から、周圍では浮いた話をチラホラと耳にしてきた。所詮私も凡人、そんな話を聞けば多少は心が動搖する。戀とは。愛とは。そんな答へのない問ひを立てても、自らの心を苛むばかり。であるならば、學生の本分である學業に專念しやう。さう決心して、コツコツとやつてきたお陰で成績は自分で豫期したより上々の結果が續いてきた。大概學年の上位5パーセント程度のところに附けられたと云ふのは上出來だつたと思ふ。


とは言へ、全くの無趣味といふ譯でもなく、子供の頃から、山登りに憧れてきた。しかし、あの有名な「ゆるキャン」經由で山に憧れて登らうとするなぞ、日本の嚴しい山々を舐めてゐると指摘されても致し方あるまい。同時に愛讀してゐた「山と無線」といふ雜誌を通じて、斷念した山登りの代はりに、無線へと舵を切つたのは中學生の時だ。一年生で四アマを、二年生の時には三アマを取得するのにさしたる苦勞はなかつた。幸ひ先輩や指導者に恵まれ、學校での無線活動は樂しいものであつた。呼べばほぼ必ずと言つて良い応答がある女子の無線家。蝶よ、花よの扱ひを受けてゐたら、好きにならない方が不思議といふものだ。相手は父親ほど年の離れた男性が殆どだが、電信ならお互ひに年など分からないし、電話でも顏が見へるわけでもない。そんなこんなで、電話でホイホイ交信する事に慣れきつて仕舞つた。


學業と部活の無線。そんな日々に特に疑ひを持つこともなく、高二の春を迎へたはけだが。


「をい、傳。ちよつと話がある。放課後職員室に來てくれ」


そんな風に擔任の菅原文太先生に朝のホームルームの後に聲を掛けられたのは五月連休の少し前の事だつた。名前はかなり澁い。小柄で何時も話した後に、眼鏡の位置を直す癖のある先生だ。一方、昔柔道をやつてゐたとかでかなりがつしりした感じを覺へる。黒帶といふ噂も聞いた。


「はい、分かりました」


菅原先生は物理の教諭でもある。聞いた話ではあるけれど、先生の父親が大の無線好きで子供の頃から親しんでゐたとかだ。しかし、學生時分は別の實驗に夢中で、無線からは離れてゐたとかである。理大を出た後、其の儘この學校の高等部の教師になつた、といふのが極く手短な先生に關する説明になる。しかし離れてゐたとひふその割には今現在は無線部の顧問である。何處で何があつたのやら。いづれ聞くこととしてみやう。

放課後。

ともあれ、學生鞄に詰めるものを詰めて、直ぐに部活に入れる樣にしてから、教室を出て職員室に向かつた。

コンコン。ノックを二囘して、戸を開けて職員室に入る。


「失禮します」


深々と頭を下げてから、職員室を見渡す。ああ、少し席の配置を變へたのか。先に私を發見した菅原先生がおいでおいでをして手招きしてゐる。先生方の席の間をスルスルと拔けて、菅原先生の席に到着。「はい、先生、何のご用事でせうか」

すると先生は眞つ直ぐ私を見て、かう言つた。


「すまんがこの連休の移動運用、俺は一緒に行けない事になつた。何でも教育委員會の方で打ち合はせがあるとかで、休み明けに教頭と一緒に都廳に行くことになつたんだ。それで連休中少しばかり準備が必要でな」「それでだ」先生は續けた。「その代はりと言つては何だが、保健の洋子先生、佐藤洋子先生が同行して下さる事になつた。まあ、話といふのは其れだけだ。傳、お前が部活のリーダー役だから、色々大變だらうが俺が見れない分、宜しく頼むよ」

‥成る程、さういつた事情か。まあ、大人の世界は色々ある。少年少女は少年少女で色々あるにせよ、だが。


「分かりました。佐藤洋子先生にはまた此方からもご挨拶に伺ひます。菅原先生からも宜しくお願ひします」

「ああ、分かつた」

「では、失禮致します」


また頭を下げてから、先生の席を離れる。職員室が大好き、といふ生徒は世の中に澤山はゐないと思ふ。私は何方かと言へば「苦手」な方だ。プロトコル、即ち儀禮を盡くしたらそそくさと撤收だ。

教室に戻り、鞄を拾ひ、部室のある建屋に移動を開始だ。

午後三時四十五分。大凡この時間になると體育會・文化系問はず部活が始める。三々五々部室なりに集合し、活動が始まる。私もその一人だ。


「公子!」部室の扉を開けようとノブに手を掛けたところで聲を掛けられた。同級生で同じクラスの山岡里美、通稱ミーサーだ。何時ものミディアムヘアを左右に振りながら驅け足で來たらしい。やや髮の毛が亂れてゐた。

「何?珍しいね、部活の時間に」

「うん、保健のサトーから傳言頼まれてさ。今度の山行き、大丈夫だから、だつて。さういへば分かるからつて」

「サトーが?ホントに?」私は思はずミーサーの兩手を握つてゐた。「ミーサー有り難う!傳言のお禮に今度學食で一皿奢つてあげる」

ミーサーが目を丸くしながら応へた。「いいつて公子。それより今度の物理の試驗の範圍、今度圖書室でヘルプ宜しく!」

今度は私が目を丸くする番だ。

「私の講師で良ければいつでもだうぞ」

ウインクしながらさう云つた。ミーサーはまた何時もの樣に人差し指で鼻の下を擦ると、ニヤリと笑ひながら親指を立て、クルリと振り向くと、手をヒラヒラとさせながら、元來た方に戻つて行つた。

「じやあねえ、私も部活〜ピロシキ〜」

「バイビー」


私はミーサーを見送ると、改めてドアノブに手を掛けて、内開きの扉を開けた。部員三人が揃つてゐるのを確かめると、かうハッキリと云つた。


「今度の移動、足が確保出來たよ!」


すると今までリグに向かつたり、ノートを取つたり各々の活動をしてゐた三人は、お互ひに顏を見合はせ、ガッツポーズ。うんうん、さうだよ、重い荷物を擔ひで電車で移動は結構嚴しいものがあるものね。移動運用で足が確保できて嬉しいのは私も一緒だよ。

ここで私の部活、無線部に附いて簡單に説明してみやう。簡單に言つてしまへば、アマチュア無線、堅苦しく言へば「金錢上の利益のためでなく、もつぱら個人的な無線技術の興味によつて行ふ自己訓練、通信及び技術的研究」と、法律で「定義」されてゐる「業務」だ。


部員は入りたての新入生の冷泉君を含む男子二人、女子二人の合計四名。何故か男子は中學生のみ、女子は高校生のみといふ構成。成り行きでさうなつたのだが、私達からみて男子二人はだう見ても「弟分」だ。これは體格的にも致し方ない。彼らもその點は心得たもので、素直に状況に順応して、私達が指示する雜用的な事をこなしながら、寧ろ無線活動を學校の部活で行へる、といふ事の方が大事と割り切つてゐる樣だ。


「部長」

「何かな、森君」


森君は中學二年生。一年生の時に友達と一緒に四アマの免許を取得して一年。今年の春には三アマを取得して、今はモールスが好きといふ、既に沼にハマりつつある‥いや、將來有望な存在だ。その森君が手を舉げて部長役である私に問ひ掛けてきた。


「公子先輩、足は確保出來た、つて保健の佐藤洋子先生のクルマですよね?一応前囘の移動の後に先生には説明してはゐますが、今囘大丈夫ですか?間違ひなく荷物増へますよね?」

森君が心配してゐるのは加入部員が一人増へたことによる荷物の増量だが、其處はそれ。

「まあ、森君。案ずるより産むが易しつて言ふでせう?遣つてみて嚴しい樣なら、一人當たりの荷物を減らすか、或いは‥」自分でもややおおざつぱな氣もしたので、ここは先輩が我慢するの圖でいくか。

「場合によつては、私達が電車で移動する手もあるし。そんなに心配しないで」

すると森君が大慌てして言つた。

「先輩を電車移動で僕らだけクルマで移動にする譯にはいかないですよ!なあ、冷泉?」

新入生の冷泉君に同意を求める森君。

「確かに、先輩方が高校生とは言へ、女子だけ二人の移動は良くないと思ひます。荷物を載せるのは、僕達も遣るとして、スペースが足りなければ、男子二人が電車で移動しますから」と冷泉君。


此を聞いた私は胸がキューンとなつてしまつた。沙由理もそんな樣子だ。


「馬鹿ねえ、そんな事出來るわけないでせう。皆で一緒に賑やかに目的地まで行くのよ。可愛い後輩達を置いてなんか行けないわ!」沙由理が間髮入れずにさう言つた。私も同感である。


「元々この無線部の活動は緩さが賣りなのよ。そんなガチガチの裝備である必要はないの。なんならハンディに増設バッテリーだけの運用だつて構はない位何だから。皆と一緒に活動するのが第一優先よ」と私。

此は本音である。此と言つて特徴のある部でなくとも、華々しいコンテストの戰績があがらなくとも、穩やかに趣味としての無線を細く長く樂しむ。此がこの部の第一の目的。


仲良しクラブで結構。兔に角緩くやりたひのだ。


「分かりました。出來るだけ荷物は減らして、リストを一から見直してみます。僕たちもVU中心の運用と割り切れば相當數減らせると思ひますので。冷泉君も初めての學外運用なので、ハードルを上げすぎない方がいいですよね」

森君、分かつてゐるじやない。

「さうさう、そんな感じで大丈夫だから。多分私達もハンディにほぼ直附けのループアンテナ、輕い三脚に豫備のバッテリー位にする積リ。そんな感じでいいよね、沙由理」

話を聞きつつ、無線の專門誌をパラパラめくりながら話に參加してゐた沙由理に話を振ると、こんな事を彼女は附け足した。

「無線の運用はまあ、程々で、現地で何をするかを良く下調べして置いてね。君達の興味のある事と私達のしたいことと、兩方とも遣るからね。確か、山の麓に温泉もあつたと思ふし、地元の美味しいものも外せないわ。その邊もチェック宜しくね」


「分かりました」


森君は頷くと自分の手元にあるノートにメモを取つてゐた。中學生の後輩ながら、なかなか頼もしひ。

私自身は、少なくとも移動に關しての運用スタイルはもう一本化してゐて、先に沙由理が言つた樣に、ハンディにほぼ直附けのアンテナ、其れに豫備のバッテリーとログ程度である。OM各位が追求してをられるアンテナによる飛びの比較とかはスコープ外。其れは實は固定でも似た感じで、學校公認で電波が出せる、もう其れだけでお腹一杯。感謝、感謝といつた感じなのだ。緩いと言へば緩いかもしれないし、昔の諸OMに比べたら一直線度が低いかも知れない。でも私達は其れでも良いとおもつてゐるし、背伸び或いは無理して續かなくなる方が問題かな、と思つてゐる。最近では著名な學校クラブの閉局の話も耳にする。そんな世の中だからこそ、續くことに軸足を置きたいのが本音なのだ。

話が一段落すると、森君と冷泉君がヘッドホンを被つて電信を再開し、交信に勵んでゐる間、私と沙由理は各飮み物を用意しながら、2mのFMとSSBの樣子の確認を始めた。日中の違法なダントラの交信がゐなくなつた後、平穩な状態になつたところで、CQを出し始めた局を拾つて行く。平日日中の違法の疑ひのある交信を幾ら總通に八十條報告したところで、何も變はりはしない。(はつきり言つて行政側の怠慢であるのだが)また彼らは私達學生にとつても實際氣持ちよく交信できる相手ではないから、結果的にスルーする事には變はりはない。冗談拔きで、たとへ大人の男性でも、あんなジェントルでない交信は頼まれても願ひ下げではなからうか。

各人が各樣に交信を續けて、夕方六時迄が高校生の部活の定時である。因に中學生達は五時半には切り上げて下校する約束となつてゐる。


「先輩、お先に失禮します」と森君と冷泉君はリグの周りの後片附けもキチンと濟ませた上で、時間の五時半きつかりに、部室を後にする。特に指示や注意をしなくとも、自發的に遣つてくれるのは本當に有り難い。

「はい、二人とも歸り氣を附けてね」

丁度交信が終了した沙由理が二人に聲を掛ける。私は手だけヒラヒラさせて、二人を見送る。「さて、では此方も片附けるとしますか‥」沙由理が獨り言しながら、机の周りの後片附けを始めた。私も丁度同じタイミングで交信が終了。73を云ひ終へるとほぼ同時にリグの電源を落とし、後始末に入つた。

「公子先輩、今年の後輩達は出來すぎつて感じですけれど、まあ、いいですよね。私達は結構先輩方に甘へてた氣がしますけれど‥」

机の周りにクイックルを掛けながら、私も答へてみた。

「確かに、色々先輩方にはお世話になつたわよねえ。かなり無線關聯の手解きを受けたのは確かだし、なんやかんや學科の質問にもいやな顏一つせずに懇切叮嚀に教へてくれたわよね‥」

二人で思はづしんみりとしながら、嘗ての先輩方の姿を思ひ浮かべてゐた。窓の外はすつかり暗がりになつてゐた。ガラスに映る自分の顏をじつと見つめる、その向かう側には下弦の月がポッカリと浮かんでゐた。

火の元戸締まりを確認し、部室の電氣を落とし、鍵を掛け、保安室に二人で向かふ。警備員さんに挨拶をし、鍵を戻すと輕く會釋をして、校舎を出た。

まだ少しひんやりとするな、と思つた矢先、「クシュ」と可愛らしい嚔を一つ。沙由理が鼻を啜つてゐる。

「ううつ、まだ朝晩冷えますね」

こんな事もあらふかと、薄手のマフラーを學生鞄から取り出して、スッと手渡す。「風邪引くわよ」

「あ、有り難うございます」

驛までの距離はさして長くないが、なんとなくかうして二人で歩くのが、私は好きだ。沙由理がだう思つてゐるかは不明だが。


「卒業した先輩に同じ事して貰つたことがあるんですよ。結局その先輩にはマフラー返しそびれて仕舞つたけれど」

「‥ふふ。なら、沙由理が先輩として後輩に渡すチャンスを作らないとね」

「ああ、さうですね。でも、女子の後輩が入つてこないと難しいかなあ」

「さう?中學生男子に使つて貰つても惡くないんじやない?意外に喜ばれたりしてね」

私はペロッと舌を出すと、沙由理の方をチラリと視線を向けてみた。學生服の首囘りにマフラーを卷きながらも、その顏は何やら思案氣である。

驛に近づくに連れ、段々と人の數が増へてきた。

「では先輩、また明日」

改札から驛内に入ると、沙由理は私とは反對側の階段を降りてホームに向かつた。

私もホームに降りると、向かひ側に沙由理の姿が見へた。

まあ、こんな平和で平穩な日常が一番だ、と私は何時も思ふ。

反對側のホームに滑り込んできた電車の陰に彼女の姿が見へなくなつた。

今日の外での一日が終はつたな。何時もこの瞬間にそんな事を思ふ。マフラーがなくなつて少し空間の出來た學生鞄から讀み掛けの文庫本を取り出して、程なくやつてきた電車に乘り込んだ。夕刻の上り方向の電車は通勤客が少なく、さして混んでゐるわけでもない。自宅の最寄りまで二驛だけだが、私には貴重な讀書時間でもある。今の私の好みはチェーホフである。ドストエフスキー、トルストイは巨大過ぎるのでパスして神西清譯の櫻の園などをパラパラと讀むのが最近である。さて‥


「公子!」

(え?)

扉に凭れた儘本を讀まうとしてゐた私は、誰かに聲を掛けられるとは全く豫想してゐなかつた結果、驚いて手にしてゐた文庫本を取り落としてしまつた。

「ゴメン!公子!驚かせちやつた?」聲を掛けた彼女は本を拾ふと、ポケットから取り出したハンカチで文庫本の周りに附いた埃を拭ふと私に差し出し、手渡してきた。

「里美かあ、急だつたから驚いちやつたよ」

里美は同級生の友達の一人。去年迄は中學入學以來づつとクラスも一緒だつたが、今年は隣のクラスになつてしまつた。とはいへ、家も近いこともあり、SNSなどでも時折近況報告を缺かさない間柄ではある。

「公子、部活?いつも熱心だよね」

「里美は?いつもは歸宅部なのに」

里美はペロリと舌を出すと、少し肩をすくめてかう云つた。

「今日は、あれよ、あれ。委員會活動つてやつよ。私、環境委員會でせう。環境つつたつて、植物達の面倒を見るのが仕事でせう。今日は夕方の輕い水遣り當番だつたの。春先でも水なしといふわけにはいかないさうよ。その後、保健室行つて‥」

(保健室?どこが工合でも‥?)さう思つたのが顏に出たのか、里美は續けた。

「私は健康そのものよ。なんとかは風邪引かないとは良く言つたものよ。それはともかく、保健の佐藤洋子先生のところに活動の報告をして、無事完了して今歸宅の最中といふわけよ」

佐藤洋子先生といへば、今度の移動運用に附き添ひで、といふのは建前で、クルマを出してくれる有難い大事な存在だ。

「でさ、洋子先生と公子のところの部活の話になつて」

「ほうほう?」なんだらうか。洋子先生は無線なんぞにさして興味がない樣子であつたのだけれど。

「公子達が何遣つてゐるのか珍紛漢紛だけれど、見てゐるのが面白いんだつて。特に女子なのにあんなにをぢさん達ばかりと話して何が面白いのか、その邊りも興味があるとか云つてゐたわ」

成る程、まあ、そんな感想を抱いたとしても不思議では無い。自分でも何が面白いのかはたと考へ込んでしまふ事もないではないのだから。


「後はね、いつも公子達がインスタントラーメンですませようとする、とかの事かな、‥洋子先生の專門‥なんていつたかな、あれ」

「分子榮養學?」

「それそれ、ブンシエイヨウガクを眞向から否定するやうな食事で濟まさうとするのがけしからんから、あれこれあなた達のミネラル蛋白補給を考へるのも仕事の裡とか言つてゐたわ」

確かに、運用の序でにカップ麺を啜つて食事を終はらせやうとすると、あからさまに激怒して、とうとう、あれこれサプリやら、自宅でお辨當を拵へて持つてきて下さる迄になつてしまつた。如何にもナチュラルで榮養滿點なお辨當をを出してくれるのが、何時もの事になつてしまつたのだが、運用中の食事に無頓着な無線班には有難くあるのは確かではある。

「別に否定する積もりはないけれど、餘りに私達が食事に無頓着つて事なのかな。その邊りも勉強しないと、附き合つて貰へなくのも困るしなあ‥」

「公子も無線もいいけど、その邊も強くなつて女子力あげたら、鬼に金棒じやない?成績もいいんだしさ」

「さうね、考へてみる。ううんと、女子力もいいけれど、部員の榮養状態にも氣をくばりながら活動した方が良いのは、確かに御もつともだと思ふの。お辨當の榮養バランスは大事よね。洋子先生に相談してもいいかも知れない」

そんな事をふたりで話す裡に電車は二人の最寄りの驛に滑り込んでゐた。

「をつと、危ない。危うく乘り過ごすところだつた」

二人でぽんとホームに降りると、後ろで扉がすぐに閉ぢる音がした。ウイーンとサイリスタチョッパの音を立てながら、電車は加速して去つていつた。

「里美、私も考へてみるよ。うまくいくかどうか分からないけれどね!」改札を出ると二人は暫くの間同じ道を辿つてそれぞれの家に向かつた。別れ際、里美にさう云ふと彼女はにつこりと笑つてかう言つた。

「うん、公子なら大丈夫だよ。まあそれでもなんかあつたら、適當に聯絡を頂戴。待つてゐるから」

二人はヒラヒラと手を振つて「さよなら」をした。

考へる、といつても何を考へたものか、段々と分からなくなつてきたのが正直なところだつた。無線はまあいい、準備を含めて遣る事は大體決まつてゐる。問題は、お辨當やらなんやらだ。一層母に相談してみるか。

一人で女子高生がブツブツ言ひながら歩いてゐる姿は傍目に不思議であらふが、その時の私は全く意識してゐなかつた。


「ただ今」

玄關を開けて、中に入ると油壓が效いてパタンと扉が閉ぢた。上下二つの鍵を掛けると、靴を脱いで下駄箱に仕舞つた。臺所の方が明るいから母がゐるのは間違ひなささうだ。さう言へば、最近は母とじつくり話しをする機會がなかつたかも。

「おかあさん、ただ今」

「あら、お歸り。部活だつたの?お腹すいたんじやない?今夜は公ちやんの好きなポークジンジャーよ。手を洗つて、着替へていらつしやい」

「うん、分かつた。後で少しお母さんに話があるんだけれど、時間とれさう?」母はこの言葉が意外だつたのか、少し目を丸くした。しかし、直ぐに顏をほころばせてかう言つた。

「勿論よ。何の話かしらね」母の方にウインクを一つして、私は洗面所に向かひ、手を洗つた後、二階の自室で部屋着に着替へた。猫耳の附いたスエットである。そんな格好をしながら、再びリビングに顏を出した。話の前に、まづは腹拵へだ。

ほかほかと食卓に湯氣が上がる。ご飯茶碗に盛り附けた玄米、味噌汁、煮物にメインのポークジンジャーが既に食卓に竝んでゐた。

「公子、お箸を用意してくれる」

「うん、分かつた」

そそくさとお膳さんを用意して、序でに緑茶を煎れる。母は眠れなくなるから、と夜にお茶は飮まないが、私は緑茶を飮まないと逆に落ち着かない。さてと、何の話をしやうとして居たのだつけ。

食事の間は二人は默々と箸を進めた。別に神道の神職さんではあるまいに。でも靜かに食べるのが私達の慣はしになつてしまつた。何れもとても美味しかつた。最後に私は緑茶をぐつと飮み干すとご馳走樣をして、食器を流しの桶に滲ける。其れが終はると、二人で洗面所で口をすすぎ、ようやくの事、母と居間の卓袱臺で向き合つて坐つた。

「食後の一杯はカフェインレスのコーヒーにするんだ?」母がポットからマイセンのコーヒーカップにお湯を注ぐのを見ながら私は言つた。

「公子も飮む?煎れる?」

「うん、ううん、いいのよ。私は」

あらさうなの?といつた表情をしながら、母は

「また口を漱がないとね」と言ひながらも、滿足さうに一人でコーヒーを口にした。


「ねえ、お母さん、『山は呼ぶ』つて言つたら何を聯想する?」

母は、カップをソーサーにコトンと置くと私の顏をまじまじと見つめた。

「公ちやん、山は‥」

「あ、ごめん、山と言つても筑波山。ピクニックみたいなものなの。心配しないで。あのね、また無線部で移動運用に行くのだけれど、その時の食事といふか、お辨當なんだけれど。だうしたら榮養バランスの良いものになるかな、つてちよつと惱んでゐるの。何時もカップ麺とかですませやうとすると保健の先生、分子榮養學が專門なんだけれど、附き添ひのその先生の面子丸潰しみたいになつて。無線より其方が問題なんだ。だうしたら良いかな。お母さんなら何かアイデアがあるんじやないかと思つて」

「ふうむ‥」

思ひきつて尋ねてみたものの、母にとつてもやや意想外の相談だつたらしく、さつと答へが出る、といつた感じではなかつた。

「まあ、あれね。以前ネットの分子榮養學が專門の人の話を聞いてゐたら、傳統食はすごいつて繰り返し言つてゐたから、傳統的な食事を考へたらいいんじやないかしら。日本の傳統食をイメージして用意したらいいのよ。餘り肩に力を入れなくて濟むでせう、それなら」

「傳統食つて事は、素材から手作りすればいいわけよね。勿論お惣菜を買つてくるとか、外食で濟ませるとかではなくて。成る程、それならそれなりに準備できさうね。有り難う、お母さん。メニューとか見繕つてみるね。傳統食か‥成る程ねえ‥」

私が一人で納得してゐると、母は何かしら面白みを感じたのか、クスクスと笑つてゐた。

「當日は昔のピクニックのお辨當みたいな、まあ、お重を用意したらいいのよ。それにお握りかしらね。お茶も煎れて持つて行くといいわ。焙じ茶邊りがセオリーね。電車でもクルマでもそんな感じなら持つて行くのに苦にならないだらうから。私も手傳つてあげるわ。煮物とかは前日の裡に仕込んでおけば、當日の朝はお重に詰めるだけよ。それでいいかしら?」

「勿論!助かるわ。私も頑張つてはみるけれど、まだちよつと自信がなかつたから」


そんなこんなで、當日の朝のお辨當問題は何とかやつて行けさうな雰圍氣になつた。あとは、無線關係の持ち物リストをチェックすれば大丈夫の筈。やれやれ、ここまででグッタリといつた感じだけれど、まあ、此も樂しみの一つなのだらう。その日の夜は、買ひ出しするものと持つて行くもののリストを洗ひ出して、やや序でに學校の豫習復習を濟ませた。そんなこんなで最後にお風呂に入つてパジャマ姿になると、もう夜の十時を囘つてゐた。慌てて、布團に潛り込み、少しだけナイトキャップに文庫本を取り出すと、文字を追ふ毎に眠くなつてきた。ライトを消して、本を置くと、何もかも忘れて、眠りの世界に落ちていく。明日の命があるか、ないかなんてだうでもいい。何時もそんな事を思ひながら‥


翌朝。

何時も通りに目が覺めた。速攻で花を摘み、顏を洗ひ、髮に櫛を通して、そそくさと着替へる。と言つても制服になるだけの話だ。女子高生とはその點樂なのは本當に有り難い。恥づかしながら、何處に出掛けるのも制服一本槍に近く、こつそり母校の制服を複數手に入れて使ひ囘してゐるのは、この私である。私服のオシャレをしてお出掛けも良いけれど、今一つしつくりこない。今度の運用も私は制服で出掛ける氣がする。しかし沙由理も中學生の後輩達も制服では來ない氣がする。今囘の運用は恐らく或程度は「山登り」になるわけでもあり、制服は少し難しいかも知れない。一體皆はどんな格好で筑波山を目指してゐるのだらう。學校に着くまで電車の車内で、簡單にネット檢索で「筑波山」「移動運用」で調べると。皆さんしつかり準備の上「登山」してゐた。ううむ、甘く見ては駄目なのね、當然か。以前讀んでゐた「山と無線」に登場する人達の場合は、眞面目にガチガチの高い山登り對応した上で、ハンディにモービルホイップといふスタイルだつた。幸か不幸か、當時氣觸れて買つてしまつた登山服や靴が眠つてゐるから、今日學校から歸つたら出してみるかな。そんな事を思ひながら歩く裡に、里美とも自然と合流し、各のクラスに向かひ、クラスの友人達に挨拶をしながら、また一日が始まつた。

窓の外には遠く、新宿のビル群の向かうに富士山が見へた。富士の高嶺に雪は降り積む。まだ夏山にはなりきつてゐない富士山が雪の帽子を被つてゐるのを確かめてから、1限目の古文の時間の教科書ノートを鞄から取り出した。


「和文、まだ覺へ切つてゐないのよね‥」


ふと口を附いて出た獨り言。隣の席の男子が目を丸くしてゐる。

「これよ、これ」

と机の上を指先でトントンと叩いてみせた。すると、成る程、と納得した樣子。さう、私は何處に行つても學校内では「無線部の傳公子」なのだ。別に其れは其れで構はない。假面とは言はないけれど、あれこれ詮索されるよりは氣樂といふもの。ともあれ、私の大好きな源氏物語の解説も聞ける目先の今日の古文の授業に集中する事にしやう。‥(次の章に続く)

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