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電信ボーイズ・電話ガールズ  作者: 江戸熊五郎
冷泉君の場合(君の名は)
1/6

君の名は

都内某所にある學園の無線部のお話です。

「冷泉文夫君」

「はい!」


 令和三年四月。東京都文京區にある中高一貫の男女共學校、文教學園に晴れて合格となつた冷泉文夫こと「僕」は大きな體育館に同級生、その保護者達、竝びに學校の先生、先輩方と共に折りたたみ式の椅子の上に坐つて居た。校長先生が自ら入學證書を手渡す爲に、一人づつ名前がアイウエオ五十音順に呼ばれて行く。「れ」は、やや後ろの方だけに、待つ間に次第に緊張が解けていくのが自分でも感じられた。


 小學校の友達は、大半が近所の公立校に進學する一方で、中高一貫といふ以外特にこれといつた特徴のない學校に進學希望を傳へた五年生の終はり頃。兩親に告げた際に、とても意外な顏をされたのがつい昨日の事の樣だ。餘り大きな聲ではいへないが、高校受驗がないのが理由としても、以前から氣になる「物體」が校舎にあるのを發見してゐたからだ。無論「其れ」が何かは理解してゐた。きつとそこには同じ趣味を持つ先輩方がゐるに違ひない。六年間その人達と上手くやつていけるか否かは賭けだつたけれど、パスカルの言葉を信じてみた。「賭けるか賭けないかも、賭けねばならない」僕は賭けてみる事にした。假にダメでも取り返しが附かない樣な事ではない筈だ。いいですよね、それでも?パスカルさん?


 入學式は、證書の授與の後、校長の挨拶、先生方の紹介と續いた。その他幾つかあつたが、ともあれ入學式は當日の月曜の午前中前半で終了。その後は、各が自分の名を掲示板に貼り出されてゐるのを確認する。確かに、掲載されてゐる摸造紙が掲示板に貼り出してある。「冷泉‥と」自分の名前があるのを確認して、後は表示してある矢印に從つて教室に向かふ。僕は一年A組で、そのクラスは二階にあつた。更に黒板に貼り出してある席次を確認。僕は教室の窓側の後ろから二番目。まあまあ、落ち着いて過ごせさうな位置ではある。午後は早速擔任の先生と顏合はせ。先生の名前は佐藤祥子。見た目は二十代後半位の元氣さうな人だつた。後日、この先生とは擔任といふ以外にもご縁がある事になるとは、全く夢にも思つてゐなかつた。


 色々オリエンテーション的な事を中心に佐藤先生の話が續いた。

「それでは皆さん、まだ入學したばかりで色々と緊張もあるでせう。今日は早めに切り上げますので、自宅に戻つて明日からの學校生活に備へて下さい。いいですか?」

「は〜い」

「夜更かしなどせずに、朝は遲刻嚴禁ですからね。ではまた明日」

 初日はそんな感じであつといふ間だつた。校門からも見へる「あれ」もやや氣になつたが、ともあれ自宅と學校の往復も早く慣れて仕舞はないと。教科もなかなか手強さうだし。學校から最寄りの驛迄數分。その驛の隣の隣が自宅から最寄りの驛で、驛から歩いて數分のところに自宅がある。電車通學も惡くないかな。大人ばかりの中にポツンと制服の中學生はかなり目立つ氣もしたけれど、それもその裡に慣れるだらう。


 實際にICカード式の定期を「タッチ」して改札を入りホームに向かふ。電車に乘り込んだところで、何といふ事もない。線路際の建物や電線電柱がビュンビュンと後ろに飛んでいく樣を見ながら、一體僕は何を緊張してゐたのだらうと、自分で自分が可笑しくなり、電車の中でクツクツと笑つてしまつた。「次は見氷、見氷」電車は速度を落とし、自宅から最寄りの驛のプラットホームに滑り込んだ。輕やかな壓搾空氣の音と共に、ドアが開く。何時も見慣れた驛の風景だ。よし、此れなら大丈夫。きつと眞つ當な學生生活が送れるに違ひない。驛から自宅まで歩く間に、そんな根據のない自信が、何處からともなく湧いてきた。


「唯今!」

「おかへり!あら、隨分と早い歸りなのねえ」入學式の後、一足先に戻つてゐた母が、臺所から聲を掛ける。流しの水の音が止まる。

「文ちやん、惡いけど後でお使ひに行つてくれる?牛乳とか卵とか切らせちやつて」

「買ひ物に?母さん、店番なの?」

「さうなの。經理の締めもあるし、午後少し忙しいの。夕飯の時間には間に合ふから心配しないでね。次いでに何か好きなモノを買つてらつしやい」

「分かつた」


 僕の家は通りに面した部分を店舖にした兼用の住宅だ。昔ながらの電器店を營んでゐるのだが、此處最近ではパソコンや通信關係の仕事が多いらしい。一方で白物家電も修理や交換などあれこれ需要はある樣で、日々忙しく兩親は暮らしてゐる。

「あ、さうさう。お父さんが何か文ちやんにお話があるんですつて。着替へたら、お父さんのお部屋にお行きなさいな」

(へえ。父さんが僕に?珍しいな)

 父(いや、心の中では何時も親父と呼んでゐるから、親父としておかう)はやや寡默で殆ど口をきかない方だと思ふ。といつて陰險とかいふのではなく、單にやや頑固で偏屈なだけだと、僕は思つてゐる。さうでなければ、長年地元で商賣や人附き合ひなどが續けく譯もないだらう。


「分かつた」トントンと階段を上がつてドアを開け自室に入る。學生鞄を置き、制服はハンガーに。部屋着の「作務衣」に着替へる。幼稚園の頃、僕は近所の禪寺の坊さんがこの作務衣を着て、箒で門前を掃ひてゐる姿が格好良く見へたのだつた。小學校の頃は、甚平で我慢してゐたが、中學に上がつたところで、サイズの合ふ作務衣を母に頼んで買つて貰つたのだ。Tシャツにデニムのパンツも良いけれど。「さて、では親父の部屋に‥」

 親父の部屋は一階の奧の方にある。まあ、部屋といふか、「シャック」だけれど。階段を降り、ドアの前までトコトコと。


 トントン。ドアをノックする。中からは相も變はらずツートンの電信音が聞こへる。

「おお。文夫か。まあ、入れ」

「‥うん」

 何だらうか。親父が僕に直接話なんて珍しいな、と改めて思つた。

「今日はまだ四月上旬なのに珍しくイースポが出てな。舉句にダクトまで出て、結構上のバンドが賑やかだつたぞ。クラスターに掲載されると一齊に呼び出しがあるしな」


 親父は一般の人には全く理解できないだらう單語をポンポンと僕に投げ掛けてくる。しかし、それを理解できてしまふといふのは一體だういふ事だ!と思つても、時既に遲しである。何故なら僕は佛教とは別の方向で門前の小僧で、親父が操る新舊の無線機の類は操作できてしまふのだ。無論操作には資格・免許が必要だ。しかし何だかんだで小學校三年生で4アマ、四年生で三アマを取得してしまつた。親父は嬉々として「社團局」を開設してしまひ、母や妹を含めた家族局の一員として樣々な無線機を弄つたり、アンテナ自作の手傳ひやら、電信の手解きを受けて現在に至る、といふ譯だつた。眞空管のリグ(無線機)なんて、普通平成生まれなら歴史上の存在だらうが、今の僕には立派な「リアル」である。


「だうしたのさ、用事つて」

「まあ、坐れ」

 親父はリグ竝ぶ棚の方を向ひてゐた椅子を百八十度廻轉させたかと思ふと立ち上がり、大きな伸びをした。

「ああ、やれやれ、ひと段落入れるかなあ。まあ、よく交信したよ、我ながら」

 さう云つたかと思ふと、肩を二、三囘叩いた後、テーブルの上のミネラル水のペットボトルのキャップを捻り、中の水を湯沸かし器に注いでスイッチを入れた。小さな茶棚から、湯呑みとお茶罐、それに急須を出し、器用な感じで急須に二人分のお茶葉を入れ、お湯が沸くの待つ形になつた。


「お前、あの學校にしたのは、あれの爲か」

「へ?」

 少しすると、ポットがグラグラと音を立て、お湯が沸き、カチンと音がしてスウィッチが落ちた。

「今日午前中、チラッとだけお前の學校を覗かせて貰つた。校舎と校舎の間に張られたあれも、校舎の上にあるあれも、立派な無線のアンテナだな、誰が見ても」

 いや、誰が見ても、といふ事はないと思ふよ。ただの電線に、ただの避雷針、位に思ふ人も少なくないと思ふよ。

「まあ、さうだね。その通りだよ」

 僕がさう答へる迄の間、親父は湯冷ましにお湯を入れ、適温になるのを待つてゐた。僕が答へると粗同時に湯冷ましから急須にお湯を入れた。待つことしばし、數十秒。親父は急須からお茶を二つの茶碗に交互に入れ始めた。

「これはな、最後の一雫迄注ぐのが大事なんださうだ。驛前のお茶屋の女將さんに教わつた事だがな」

 確かに親父の淹れた緑茶は子供の僕が呑んでも美味く感じる。

「いただきます」僕はさう云ふと親父の淹れたお茶を啜つた。

「ほれ、茶菓子。お前の好きな瓦煎餠」

 ふふん、親父、自分が好きな癖に。二人で音を立てて煎餠を食べ、お茶を都度都度啜つた。


「別にそれが惡いと言つてゐる譯じやあない。お前が自分で決めて、勉強して入學したんだ。何も問題は無い。其れより‥」

「‥其れより?」

 親父はお茶をグッと飮み干すと、もう一度お湯を沸かし始めた。

「いいお茶葉は二煎目でも味が落ちないな」

 親父が話をゆらゆらさせるのは、改まつた話をする時の癖である事は、從前承知だ。さて大丈夫かな?

「當然學校には無線のクラブか、部活があるだらう。さつきな、ネットで總務省のサイトで檢索すると確かに社團局の登録があつた。特段な活躍とかをしてゐる譯でもない樣だが、長年續いてゐる事は確かだな」

 其れは僕もネットで確かめてゐた。ただ、ホームページがあるでなし、メディアに取り上げられるでなし、SNSのアカウントも發見出來なかつた。表立つた活躍と云ふのは僕も見つけられなかつたのは事實だ。

「續いてゐる、と云ふ事、そして其れなりの設備を學校内に設置してゐると云ふ事は、學校側の理解と支援が無い限り出來る事でも無い。同時に‥」

「同時に?」


 親父は眞つ直ぐ僕の目を見ながらかう言つた。

「長い事絶えず學生が運用して、局を守つてきたと云ふ事さ。お前の入つた學校はさういふところだ」

 ‥確かに其れはさうだらうが、何か親父は其れが氣になるのだらうか。

「まあ、さうだよね。さうでないと續かないものね」

「お前も、當然その一員になる、さう云ふ事だな?」

 ああ、若しかして。親父は學校に俺が取られてしまふと思つてゐるのかな。いやいやだとしたら心配しすぎだと思ふよ。

「家の社團局、學校の社團局、後は出來れば自分の個人局。勿論學業も。其々竝び立つと思ふよ。まあ、平日の夕方は家にゐないかも知れないけれど。其れに親父も學校のクラブに大手を振つて挨拶にいけるんじやあない?」

 僕の話を聞くと、親父は飮んでゐたお茶をゴホゴホと咽せてしまつた。

「馬鹿、いい歳してのこのこ少年少女の居る學校へ顏を出せるか。第一、仕事でそんな暇があるか」

 親父はやれやれといつた顏附きでさう答へると、後ろの無線機のある棚を一つ指差してかう言つた。

「この列の無線機、どれか一つお前に呉れてやる。入學祝ひだ。有り難く思へよ」

 見ると三臺竝んだリグは、どれもオールモードの無線機だつた。最新式では無いとは言へ、こんなリグを專用で使へるなんて。いやいや、いい親父を持つたものだ。

「分かつた。有り難く頂戴するよ」僕は音が聞き易い事で定評のあるメーカーのものを選んだ。出力は50ワット。短波から6m迄行ける。御の字、御の字。

「マイクは附屬ので我慢しろ。さて、電鍵はだうしたものかな」

「ああ、其れなら」間髮入れずに答へた。「昔聯盟の自作會で制作したパドルがあるから。あれで十分いけるよ」

「さうか。欲がないんだな」

 親父は更にお湯を沸かして次のお茶を插れる準備を始めた。


「話は、一応これでお仕舞ひ?」

 親父は頷くともなく頷くと、何故かまるで其處に電鍵があるかの樣な雰圍氣で、人差し指と中指の指先でテーブルをトントンと二囘、叩いた。

「ああ、お仕舞ひだな。行つていいぞ」

「分かつた。リグ、ダンケです」


 親父はもういい行け、と云ふ感じで、しつしつと追ひ拂ふ手附きをした。ふつと笑ふと、僕は親父の部屋を後にした。

 パタン、と後ろ手で戸を締めると、一つ深呼吸をした。お袋と違つて親父とサシで話すのは肩が凝るなあ。肩をトントンと二、三囘叩く眞似をして、階段を昇つて自分の部屋に戻る。さて、お袋に頼まれてゐた買ひ物を濟ませないといけなかつたか。再度階段を降りて、臺所經由で財布と買ひ物用のトートバッグを拾ひ上げて、勝手口から外に出た。日沒夕方迄には未だ間があるとはいへ、直ぐに暗くなりさうな氣配が漂つてゐた。それに少し雲行きも怪しい。


「いけね。急げ急げ」


 自分に聲を掛けながら、やや早足で數百メートル先のスーパーに向かつた。


 店内は夕方の買ひ出しの混雜少し前、と云つた樣子で、さほど混んではゐなかつた。母がメモ用紙に書いた買ひ物リストを片手に、スーパーの買ひ物用のカゴをぶら下げて各賣り場を囘る。何だかんだと隨分買ひ足さないといけないんだなと思ひながらも、自分が4分の1以上食べてゐる現實をふと思ひだした。親父は別として、小學校四年生の妹と僕では食べる量が少しづつ開いてきてゐる氣もするし、此處は我慢我慢。ずしつと重くなつた籠が腕に食ひ込む。こんな事ならカートを使へば良かつた。出入り口附近迄戻るのも面倒なので、買ひ物を續ける。兔に角、ラストのコーヒー豆を籠に入れ、精算の列に竝ぶ。するとふと何處かで見た事のある制服を着た女子學生が二人、レジの奧、買ひ物を籠から詰め替へるエリアにゐのが視界に入つた。


「あれ?あれつて‥」

 さうだ、あれは僕が今朝行つてきたばかりの學校の高等部の女子用の制服だ。この邊りに住んでゐるのだらうか。

 僕はそんな事を思ひながら、重い籠をぶら下げながら、レジの順番を待つた。

(‥、あれ?手に持つてゐるのは、若しかして‥)

 若しかしなくても、あれはハンディ機だ。しかもアマチュア無線の。をいをい、待て待て。二人とも手にしてゐるぢやないか。一體だういふ事だ?

 頭からクエスチョンマークが幾つも出るとはこんな感じか。其の時不意に後ろから聲を掛けられた。


「レジ、空いたわよ。行かないの?」

 ハッとして我に歸ると、確かにレジの係の人も此方を注視してゐる。

「あ、スミマセン」

 あたふたしながら、重い籠を持ち上げるとレジの臺に置いた。

(明らかにあの人達は僕を見てゐる。いや、自惚れとかさう云ふ事ではなくて)

(誰が何と云つてもあの「女子高生」のあの二人は僕が目當てだ。一體全體何故‥)

 完全に氣が散つてしまひ、レジ擔當の人との會話も覺束なくなつてしまつた。

「精算は自動精算機でお願ひします」


「は、はい」

 レジ打ちの終はつた籠を持ち上げ、自動精算機の脇に置き、指定された金額を財布から取り出す。現金モードを選擇、お札を插入口に置くと、札はスパンスパンと音を立てて吸ひ込まれる。

「レシートとお釣りをお忘れなく」

 メッセージを聞きながら、後ろの方からの視線を感じつつ、釣りとレシートを財布に押し込み、肩から掛けてゐる財布を入れる爲の小さなトートバッグに戻す。

(落ち着いて。先づは買ひ物を完了させるんだ)自分で自分に心の中で聲を掛ける。買ひ物をバツグに詰める臺に移動して、籠から、用意した其れ用の別のトートバッグ二つに品を移し替へる。重いもの堅いものを下に、割れ易い、輕いものは上に。一つづつやればいつかは終はる。‥默々とした作業をし終ヘると、づつしりと重くなつた二つのバツグを兩肩に掛けて、店の外に向かつた。


 ふと氣が附くと、あの二人の姿は何處にもなかつた。

(あれ?僕の思ひ過ごしだつたのかな?)

 重みで少しフラフラしながらも家路を急いだ。あと百メートル程で自宅となる角を右に折れると。

 僕は呆氣に取られて立ち止まつてしまつた。先程の女子高生二人が其處にゐるではないか。

「やあ、今日は」

 二人はスタスタと僕の方に向かつてくる。

「荷物、重さうだね。手傳ふよ」

 と、言つたかと思ふと、僕の肩からバッグを取り上げ、各々兩手で重さうに持つてゐる。

「君、眞ん中に立つて。さう、其れでいいよ。三人で二つのバッグを運ばうか」

 何なんだ、コレは。僕の兩脇には女子高生のお姉さんが二人。何で一緒に荷物持ちをしてゐるんだ?

「さあ、君の家まで頑張るよ。君もだよ」


 有無を言はせない調子で二人はどんどんと進む。僕も負けてはゐられない。

「をを。其の調子、其の調子。中々其の作務衣も決まつてゐるね!」

 そんな輕口を聞きながら、ズンズン歩く間に、あつといふ間に店の前迄來た。

「此れ、食料品がメインでせう?臺所まで運ばないといけないんじやないですか?」と少し細身で華奢な感じの方の人がもう一方の少し小柄な人に話す。

「あ、確かにさうですけど」と、僕。

「では惡いけれど、中まで失禮するよ。いいね?」

 全く問答無用といつた樣子の會話ではあつたけれど、店の脇の自宅の玄關の前に、三人で器用に竝んで立つ形となつた。何だかよく分からないが、同じ學校の人達である以外の、不思議な安心感が彼女達、お姉さん達から傳はつてきたのも理由の一つだつたと思ふ。


「あの、此處まで一緒に運んで下さつて有り難う御坐います。ではお言葉に甘へてお願ひしていいですか」

 考へてみれば結構僕も大膽だつたかも知れない。見ず知らずの女子高生を二人、いきなり自宅に連れてくるなんて。母は、店の中から三人でワイワイ言ひながら家の中に入つて行くのを呆氣に取られて見てゐたさうだ。

 三人でドタバタしながら、廊下の先、突き當たりの臺所まで運び込むと、テーブルの上に「ドン!」とばかりにバッグを置いた。其處で初めてある事に氣が附いた。


「二人とも以前空で會つてゐませんか?」

 2mか、430か定かではないけれど、この二人の聲に聞き覺へがある。「確か其の時も學校の局だつて話してゐませんでしたか?」

 僕がかういふと、二人は顏を見合はせてからニッコリと微笑んだ。

「あら、覺へてゐてくれて光榮ね。改めてアイボールでは始めまして。私は田公子。高校二年よ。そして此方は‥」

「藤原沙由里です。高校一年。宜しくね」

(成る程、分かつた。フォックスハンティング宜しく、僕の家を探り當ててゐたんだ。其れにしても‥)

「だうやつて、僕が新入生で、かつ、僕の家の位置が分かつたのですか?」

 初對面で同時にキッチンで立つた儘こんな會話をする三人。

「まあ、其れはお話するわ。其れより、お茶にしないこと?貴方も喉が渇いてゐるのではなくて?」と公子さん。

「其れは貴方のお父樣とお話すれば分かる事だと思ふの。良かつたら、私達を貴方のお父樣のところに紹介して下さらない?其れに君の名を知りたいわ」と沙由里さん。


(「君の名は」か。何かの映畫かドラマのタイトルみたいだな)

「あらあら、まあまあ、大變だ事。文ちやん、お買ひ物有り難う。冷藏庫には私が仕舞つて置くわ。あらあら、お二人とも、文ちやんの學校の先輩さん達ね。まあ、まあ、早速有り難うございます」

「母さん、店は大丈夫なの?」

「大丈夫よ。もう用事も濟んだし、シャッターも降ろして戸締りまでしてきたから。文ちやんがお客樣を連れて歸つてきたから、大急ぎで仕事を片附けてきたのよ」

 母は、事態を疑ふ事もなく、あるがままに受け入れてゐる樣子だつた。


「僕の名は冷泉文夫です。聞いての通り、家では文ちやんと呼ばれてゐます」

 半ばヤケクソの自己紹介だつた。其れを聞くと二人は再びニッコリと微笑んだ。

「母さん、二人にお茶、父さんのでいいかな?」

「さうね。後でお絞りとお煎餠持つていくから」

 僕は二人を連れて、また父の部屋に向かふ事となつた。

 先程のドタバタでスリッパ一つ先輩方に出せなかつて非禮を詫びてから、玄關先を拔けて父の部屋の前まで來た。

 トントン。ノックは何時も二囘だ。

「父さん、お客さんだけど。入つていいかな?入るよ?」

 ドアノブを囘すと、親父は作業机の上に無線機の筐體を開けて、信號發生器とオシロを使つて今將に調整をしてゐるところだつた。


「おお、文夫だうした。‥ん、お客さん?」

 親父は僕の後ろにゐる二人に漸く氣が附いた樣だつた。妹の千春が作業机に向かつて坐つてゐたが、全く動じる事なく、學校の宿題にかじり附いてゐる。


「文夫、お客さんて、お前の學校の先輩か。さうか、驚いたよ。さあさあ、散らかつてますが、其方の空いてゐるところにだうぞ」

 後ろの公子・沙由里兩先輩は部屋の中をくるくると見囘すと、非常に嬉しさうにしながら長椅子にぴよこんと腰を下ろした。親父の部屋に、女子高生が二人。前代未聞の珍事ではなからうか。

「あの、突然お邪魔して、大變申し譯ありませんでした。私達、文夫君の先輩になります。私は高二の傳公子(でんきみこ)、此方が‥」「一年生の藤原沙由里です」といふと深々と親父に向かつて頭を下げた。親父はやや面食らいながらも、僕と同じ感觸を持つた樣だつた。

「君達の聲は以前交信した事がある聲だね。成る程、其れで君達は押し掛けて來た、といふ譯だ。中々積極的だね。つまりは、文夫の勸誘に來た譯だ。違ふかな?」

 親父のこの臺詞に二人は再びニッコリと微笑んだ。


「さすがお父樣。すつかりお見通しでゐらつしやる。其の通りです。以前お空でお話しさせていただいた際に、息子さんが私達の學校に入學する樣な事を仰つてをられたので、この界隈では有名なお父樣のご自宅迄押し掛けてしまひました」

 この界隈では有名?まあ長い事電氣關係や無線の趣味を家族で遣つて來たから、世間に知られてしまつてゐるのかも知れない。實害がなければいいんだけれどね。

「成る程な。まあ、そんなところだらうね」

「父さん。僕らにお茶を淹れてくれない?スーパーから重い荷物を三人で持つて來て、喉がカラカラなんだ」

 僕は親父の話をやや遮る樣な形でお茶のリクエストをした。

「ああ、さうだつたのか。今年の新茶にはまだ早いが、いい感じのお茶葉が手に入つたところだから、まあ、飮んで行きなさい」


 さう親父が話したところで、母がお絞りと茶菓子を持つて部屋に入つてきた。

「まあ、まあ、何時もはむさ苦しい部屋が、ぱあつと明るく華やかな感じで、流石にお姉さんねえ」と母。妹の千春はまだ小學校四年だから比べたら可哀想だよ。

「有難う御坐います」

 二人の先輩は再び叮嚀な挨拶をしてから、お手拭きを取り、お茶菓子を取り上げた。

 なんやかんや、先輩二人と親父は樂しげに會話を續けてゐる。まあ、無線好き同士話が盡きないといつた事はあるだらう。


 ポツ‥ポツ


 ふと外の音に氣が附き、振り向くと日除けの向かふ側の窓ガラスに水滴が。

「あら、遣らずの雨ね。お父さん、お客樣の足をお願ひしないといけないわね」

 母のその言葉を聞くと、二人は些か慌てた樣子でかう言つた。

「いいへ、とんでも無い事です。あの、若し宜しければ傘を貸していただけないでせうか。すつかり遲くまでお邪魔してしまつて。申し譯ありませんでした」

 外に出ると、街はすつかり夕闇に包まれてゐた。冷たい雨がそぼ降る中、先輩二人は傘を差して、見送りに出た母の方に向かつて改めて挨拶をした。

「今日は突然お邪魔してしまひ大變申し譯ありませんでした。迚も素敵なお父樣とお話させていただきまして、有難う御坐いました」公子先輩はそんなお世辭とも附かない事をすらつと口にしてしまふ。

「では、文夫君。今週の部活のオリエンテーションでは宜しくね。入部を待つてゐるわ」此は沙由理先輩。

「はい、分かりました。他の新入生も興味があるのがゐると好いですね」

 二人はにつこりした後、くるりと振り向ひたかと思ふと家路に向けて歩き始めた。朧になつた街の中に溶け込んでいつの間にか見えなくなつてしまつた。


「さ、文ちやん。中に入りませう。風邪を引くわよ」

「‥うん、分かつた」

 そんなこんなで、僕の入學式の日は終はろうとしてゐた。しかし、この時點では此から先どんな事が待ち構へてゐるか知る由もなかつた。

 夕飯を家族でとり、そそくさと風呂に入つたかと思ふと、思つたよりも疲れてゐたのか、階下の親父の部屋からは深夜まで燈りが點されてゐた事などつゆ知らず、布團に潛り込むやいなや、意識がすつと遠のいていつた。夢の中では、再びあの先輩達が登場してきた。内容は良く覺へてゐないけれど、僕に取つてはかなりインパクトのある存在であるには違ひなかつた。まあ、無線の世界も色んな人がゐるから、なんとかなるかな‥


「君の名は」


 翌朝目が覺めた時に、口を附いてそんな言葉が出た。此から先、どんな學生生活が待つてゐるのやら。 (次章に続く)

冷泉君は入學早々大變でしたね。お話は續きます。

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