【アイリスNEO・ノベルアンソロジー収録】鈍感で無駄の嫌いな男と、その婚約者の話
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ざくざくと土を掘り起こしていたティアナは、目当てのものを見つけて鍬を傍らに置くと、今度は膝を突いて丁寧に手で土をかき分けていく。
やがて掘り起こしたのは、立派な蕪で。彼女はそれを抱えてにっこりと微笑んだ。
「見て見て!ロイド!すごく可愛い蕪!」
大振りの麦わら帽子に、首の後ろが日焼けしないように被せたタオルの重装備のティアナはお日様のような笑顔を浮かべた。
服装も厚手の長袖と柔らかい生地のスラックス、特注の柔らかい革で作ったブーツ。軍手は庭師が小柄な彼女の為に子供用のものを市場で買ってきてくれたもので、ティアナは端に自分でワンポイント刺繍を施した、お気に入りだ。
「蕪に可愛いという形容は相応しくないように思われますが」
執事のロイドは、彼女の後ろから影の様に付き従い、日傘を差し掛けている。彼は無表情のまま首を傾げた。
ちなみに、使用人のお仕着せだが汗一つ掻いていない。
「苦労して育てた結果なのだから、可愛く感じるのは正しいと思うわ」
真剣に考えて、ティアナは答えを出す。すると吟味するように目を細めたロイドは二度、頷いた。
「…………理解しました。では、可愛いという言葉は確かにティアナ様にとって正しい形容なのですね」
「うん!でも今は言葉の意味じゃなく、この蕪の可愛さに感動して欲しいんだけど……」
「私には可愛くありませんので、感動することは出来ません」
にべもなく断られて、ティアナはショック!という大きな文字を心象風景として背負った。
「……大丈夫、マーサに頼んで今日は蕪のスープにしてもらいましょ。ロイドだって蕪のスープは好物だから、食べたら感動してくれるわ……きっと……」
よしよしと慰めるように蕪を抱きしめて撫でる主の奇行に、ロイドはまた目を細める。
「ティアナ様、誤解があるようなので言っておきますが私は蕪のスープは特段好物というわけではありません」
「嘘!いつもたくさん食べてるじゃない!」
「それはティアナ様の研究対象が蕪で、この畑では蕪がたくさん採れるので蕪料理が多い所為です。一番好きなのは肉です」
「野菜も食べようね!」
「蕪から摂れる栄養にも限りがあります」
「うう……!」
ぐぅの音も出なくなり、ティアナは蕪をぎゅっと抱きしめる。正直ティアナもそろそろ蕪料理には飽きていたところだ。
料理人のマーサの蕪料理のレパートリーの豊富さには頭が下がるばかりだが、蕪は蕪。どう足掻いても蕪は肉には変身し得ない。
「……この蕪の収穫で、そろそろ次の研究対象に移った方が良さそうね……」
「次は食肉の研究になさいますか?」
ティアナには一抱えもある蕪を受け取り、小脇に抱えたロイドが日傘を主の方により差し掛けながら訊ねる。
「ロイド、ちょっと心が漏れ出すぎだと思うの。私の研究は領地に適した作物の品種改良であって、養豚や養鶏ではないのよ」
「牛の肉が一番好きです」
「……おかしいな、言葉が通じない……」
手拭いで流れる汗を拭きつつティアナは慄いた。
と、さほど広くはない畑の向こうから、料理人のマーサがこちらに向かって小走りでやってくるのが見えた。
マーサはティアナの祖母ほどの年で、健康な女性だが年配者を走らせるのは気が引ける。ティアナはロイドに目配せをして、自分も彼女の方に向かって駆けだした。
「マーサ!走らなくても大丈夫よ、どうしたの?」
お転婆で身軽なティアナはあっという間にマーサに合流し、息も乱していない。対して、話すのもままならない程息を乱したマーサは、主に支えられてなんとか息を整えた。
「ああ、ありがとうございます。お嬢様……あの、王都の本邸から早馬が。ラザフォード様がお嬢様へ至急お戻りなるように、と」
つっかえつっかえ言われた内容に、ティアナは首を傾げる。
「義兄様が?お珍しいこと」
首を傾げた彼女は、それでもマーサとロイドを連れて小さな屋敷の方に向かって歩き出した。
「とはいえ、あの義兄様が至急と仰るのならば、本当に至急のご用命なのでしょうね。義父様や義母様に何かあったのならばその内容を書いて知らせてくれるでしょうし……直接じゃないとお話ししにくいことかしら」
屋敷に戻ると、二人のメイドがすぐさま風呂の支度を整えてくれた。
汗をかいた体を清め、髪と肌のメンテナンスを特急で行ってもらった後は、乗馬服を身に着ける。
「では、慌ただしい出立になってしまってごめんなさい。私の留守の間、皆、こちらのことをお願いね」
料理人のマーサと、マーサの夫で庭師のトム。メイドのリリーとローズ、馭者のサム。この屋敷に勤めるのはこの五人だけだ。
「はい、お嬢様もお気をつけて」
「お嬢様、今度いらっしゃる時は王都のお化粧品を持ってきてくださいませ」
「夜には天候が悪くなりますので用心なさってください」
皆に口々に挨拶をされて、ティアナはそれぞれに言葉を返す。
屋敷を出ると、鹿毛と黒毛の馬をそれぞれロイドとサムが連れて待っていて、サムの手を借りてティアナは黒毛の馬に跨った。
この屋敷から、王都までは馬で3時間というところ。正直騎士でも兵士でもないティアナには強行軍だったが、義兄の召喚とあらば最速の手段で行くしかない。
「では、行ってきます!」
そう言うとロイドを促して、ティアナは手綱を引いて馬の腹を軽く蹴った。
王都には予定通りの時間に着いた。
天候が悪くなる前に指定された義兄の屋敷に着くと、再び旅装を解いて湯浴みに突入する。
ロイドもその間にまた執事見習いのお仕着せに着替えていて、ぴかぴかに磨かれたティアナは、この屋敷の主の執務室の前で彼と合流した。
ノックをして、許可をもらうと中に入る。
「ティアナ・ブラック。俺と結婚しろ」
ティアナが部屋に入るなり、苦々しい顔でこの屋敷の主であるラザフォードが開口一番そう言った。
彼女はぱっ、と顔を赤くし、けれどその後すぐに青褪める。何の冗談だ。
「無理です!!!」
緑玉の瞳を大きく見開いたティアナは、悲鳴を上げるがごとく即答する。
「随分な態度だな」
ギロリと朝焼け色の瞳でラザフォードに睨みつけられて、ティアナは身を竦ませる。
「申し訳ありません……義兄様が突然突飛なことを仰るのでつい本心がありのまま出てしまいました……」
無抵抗の意志を示すように両手を翳しながら、よろよろと後ずさったティアナは、扉に頭をぶつけて今度こそ悲鳴を上げる。
ロイドはいつの間にか扉の脇で涼しい顔をして控えていた。
「何のフォローにもなっていないぞ」
溜息をついたラザフォードは椅子から立ち上がり、大股に部屋を横切るとティアナの腕を掴んだ。
「もう少し落ち着きを持て。大丈夫か?」
「まさか義兄様がお優しい……?」
「阿呆、この扉がいくらしたと思ってる」
「扉の心配でしたか……それでこそ義兄様です」
ティアナの言葉を無視して、ラザフォードは扉の無事を確認してから彼女の腕を離す。
「先程の話だが」
「はい……お戯れが過ぎるかと……」
「お前に拒否権はない」
「ご冗談ではなく……?」
「決定事項だ」
「……さすがにそれはいかがなものかと……」
揺るぎないラザフォードの言葉に、ティアナは青褪めていく。
元より、無駄の嫌いな義兄のことだ。冗談ではないとは思っていたが、さすがに様子がおかしい。何かおかしなものでも食べて、頭が混乱しているのではないだろうか。
ティアナの考えを察したラザフォードが片眉を上げる。
「俺は正気だぞ」
「酔っ払いは皆酔ってないと言うものです、義兄様……」
「つくづく失礼な女だな……」
彼は深い溜息をつくが、溜息をつきたいのはティアナの方だ。
ティアナ・ブラックは、しがない子爵家の一人っ子令嬢だ。
中肉・中背、顔立ちは平凡で、亜麻色の髪と緑の瞳もこの国ではよく見られる色合い。幼い頃に両親を流行り病で亡くし、伯爵である叔父に引き取られた。
その叔父夫婦には息子が一人いて、それがこのティアナの前にいる男である。便宜上、ティアナは彼を義兄と呼んでいる。
名門伯爵家の嫡男、ラザフォード・アンブローズ。
同じ王都に広大な敷地を誇るタウンハウスがあるのに、わざわざ一人暮らす為に屋敷を購入した裕福さ加減からしてもうティアナとは生まれが違う。
烏の濡れ羽色の艶のある髪に、光の入り具合で色みが複雑に変わる朝焼け色の瞳、シャープな輪郭に少し浅黒い肌は西国の血が流れている為なのか、滴る蜜のような魅力の、惹きつけられる整った容姿。
王太子殿下の側近として出仕している多忙な身でありながら、同じく多忙な父の領主としての仕事も手伝っているという、どこに出しても恥ずかしくない、立派なワーカーホリックだ。
一方ティアナの方は、伯爵家に引き取られた後は蝶よ花よと義父と義母に可愛がられ、優秀な家庭教師に淑女教育を受けて何不自由なく育った。
生家の子爵位は夫となる男性の為に彼女が保有している状態だが、義両親はティアナの好きにするといいと言ってくれていて、子爵領の管理は義父に任せっきりだ。
これでは己がただの堕落した豚になる、と考えたティアナは定期的に子爵領を訪れるようになり、肥沃とは言えない領地でも育つ作物の研究を始めた。
領地経営も、義父が子爵領に配属してくれた管理人から教えを受けて可能な限り勉強させてもらっているところだ。先程の蕪の品種改良の研究もその一環である。
いずれ結婚し、夫を支えていく為の準備のつもりだったのだが、皮肉なことに畑仕事に勤しみ、経営学に励むティアナは滅多に社交界に出ないこともあって変り者扱いされていて、結婚が遠のく結果となっている。
「そもそも……私の王都での住まいをこちらのお屋敷に移されたのも、近々輿入れなさる奥様のお相手をする為だったのでは……」
青褪めたままティアナがそっと尋ねると、ラザフォードは眉間の皺を深くし彼女を睨みつけた為、ヒッ!と息を飲む。顰めっ面をしていても様になるとは、美形は得だ。
「そう。俺には婚約者がいた」
「は、はい。アマーリエ・シュトレール侯爵令嬢ですよね……」
社交界の華と謳われ、春の女神の如しと讃えられた美貌、貴賤なく誰にでも分け隔てなく接する優しい性格、社会奉仕にも熱心で多くの孤児院に寄付をして聖女と呼ばれている、端っこ貴族のティアナですら音に聞く完璧な令嬢だ。
「一度教会でちらりとお見かけしたことがありますが、本当にお綺麗な方で…………ん?いた?」
婚約者が"いた"、とラザフォードは言った。
ティアナはハッとして青褪める。
「アマーリエ様の身に何かあったのですか……!?」
ご病気とか?と心配になって口元を慄かせる彼女に、ラザフォードは忌々し気に舌打ちをした。怖い。あとお行儀が悪い。
「いなくなった」
「誘拐……!」
「違う」
いよいよシリアスな顔になるティアナに、彼女の察しの悪さを叱るようにピシャリとした否定が返る。
「ええと……では、一体どういう……」
「自らの意志で、自らの足で侯爵家を出て行ったらしい。懇意にしていた騎士と共に。書置きには、その騎士のことを愛しているので俺との婚約はなかったことにして欲しかったが、父親に許されなかったので出奔する、と書かれていたようだ」
ラザフォードの低い声で語られる内容に、ようやく事態を把握したティアナはどんどん青褪めていく。
「に、義兄様……それって……」
「皆まで言うな」
「駆け落ち……!!義兄様、捨てられてしまったのですね……!」
ひぇぇ!と真っ青な顔で皆まで告げたティアナに、ラザフォードはこめかみを押さえた。
「口は災いの元と知れ、ティアナ・ブラック」
ぺちん!とティアナは両手で自分の口を覆った。
あまりの出来事だった為ハッキリ言ってしまったが、目の前の顰めっ面の男はそうは見えなくとも被害者なのだ。優しくしてあげなくてはいけない。
「……少し長くなる、茶を淹れてくれるか」
そう言われて、ティアナは慌ててお茶の用意を始めた。
こういう時は鎮静効果のある茶葉を淹れるのが一番だ。彼女としても単調な作業は心を落ち着かせてくれる。
ほどなくして彼女がティーカップを二つ、ローテーブルに置いた。
ラザフォードは一人掛けのソファに座り、ティアナに向かいの席を勧めた。恐る恐るティアナが座ると、彼はカップに口を付ける。ティアナもそれに倣い、しばし二人は静かにお茶を飲んだ。
「……義兄様、聞いてもよろしいですか」
「許可する」
「…………アマーリエ様が駆け落ちなさったのは、分かりました……その、それで何故私に、義兄様と結婚しろとお命じになるのですか?」
ティアナが訊ねると、また器用にラザフォードの片眉が上がった。
「教会と国には既に結婚することを申請している、つまり俺は早急に代わりの花嫁を用意しなくてはならなくなった」
「……花嫁は足りない部品ではありません。もっとよくお考えになって、お互い好意を持って結婚の誓いをするものではないのですか?」
ティアナがそう言うと、ラザフォードは鼻で笑った。
「俺とアマーリエの間にも好意などなかった。あったのは義務と契約だけだ」
あの完璧な令嬢を婚約者に持ちながら随分と不遜な物言いだ。
向こうは義兄ではなく騎士のことを愛してしまったらしいが、普通はアマーリエのような美しい令嬢を前にすれば、骨抜きになってしかるべきでなかろうか。
万が一、骨抜きにならない輩がいたとしたら、その目は、
「……節穴……?」
「口に手を突っ込んでおけ、ティアナ」
「うっ、ハイ」
さすがに口に突っ込むわけにはいかず、ティアナは両手で口元を覆う。
素直な義妹の様子に満足して、ラザフォードは頷いた。
「それで……何故お前なのか、か」
「はい……」
ティアナが内心ドキリとしつつ、ぎゅっと拳を握って頷くと彼は遠くを見て言った。
「お前は、俺を裏切らない」
「……まぁ、怖くて無理ですね」
拍子抜けした気分でティアナが不承不承頷くと、ラザフォードはあっさりと返す。
「だからだ」
「えー……」
そんな恐怖政治みたいな理由だけで結婚は嫌だ。とティアナは顔を顰める。
結婚したいわけでもないし、相手がいるわけでもないが、年頃の乙女らしくそれなりに結婚には夢を抱いているのだ。
もっと、ロマンチックな理由がよかった。
「……それとも好いた相手でもいるのか?ロイドを子爵家に婿入りさせるとか」
ティアナの煩悶を全く解さない朴念仁たる義兄は、本人のいる前で堂々とそんなことを言ってくる。もし本当に恋仲だったらあまりにも気まずい。
言うまでもなく、当然従者と主の関係なのだが。
「ラザフォード様、私にも好みというものがありますので……」
ロイドがいけしゃあしゃあと頭垂れて言うので、ティアナは執事を睨みつけた。
「それでは、これと婚姻しようとしている俺がおかしいみたいになるだろう」
「蓼食う虫も好き好きと申しますし…………」
「ロイド、後で屋敷の裏に来なさい」
不遜な従者に呼び出しを掛けておいて、ティアナは義兄に向き合った。
「そうではなくて、私とて結婚、婚約にあれこれ理想があるのです!義兄様の都合ばかり飲むわけにはいきません!」
ティアナが両手で拳を握って言うと、ラザフォードは目を細める。
「……では、お前の要望を飲めば俺と婚姻することは問題ないんだな?」
「え?はい。…………私も義兄様もいずれ結婚しなくてはいけないのは、貴族の義務ですし」
きょとん、と瞳を瞬いて言われた言葉に、義兄は何度か頷いた。
「了解した。では、条件を述べるがいい。可能な限りすべて叶えよう、その代わりお前は今日から俺の婚約者だ」
堂々と宣言されて、ティアナはぽかん、としてしまった。
ケチでせっかちな義兄は、本当に無駄が嫌いだ。
その後、義両親に婚約の報告をするべく伯爵家本邸に向かったのだが、義両親は大喜びだった。
曰く、大切に育てて来たティアナを嫁に出すのは嫌だったが、子爵家を継ぐ為にティアナ自身が結婚を望んでいた為言い出せなかったのだと言う。
結果、ティアナが義娘から息子の嫁として伯爵家に居続けてくれることを大いに喜んでくれた次第だ。
「……義父様達って私のこと大好きですね、本当に」
「俺が隙がなく可愛げがないからな。お前ぐらい抜けてて愛嬌のある子供が愛おしいのだろう」
「……義兄様、ひょっとして今の褒めたつもりだったりします?逆効果ですからね」
ティアナがラザフォードを見上げて言うと、案の定彼は理解出来ない、という顔をしていた。それはこちらの表情である。
「それで?条件は決まったか」
さっきの今だというのに、本当にこの義兄はせっかちだ。
彼の都合を押し付けられるのだから、せっかくなのでティアナは自分の都合も相当押し付けることに決めた。
「ええと……まず子爵領の管理は結婚後も引き続き義兄様の方でお願いします」
「了解した」
「将来私達の間に男子が二人以上出来たら、どちらかに継がせてくださいね」
「それはお前の協力もいると思うが、こちらでも努力しよう」
「何故私の協力が必要なのです?手を抜いていませんか、義兄様」
ティアナに冷たい視線をやり、ラザフォードは今日も義妹の後ろに立つ執事を睨む。
「…………ロイド、これの教育はどうなっている」
執事は無表情のまま、嘆かわし気に首を横に振った。
「やっぱり蕪より牛を育てさせるべきでした」
「牛ではなく人間の生殖について教えておけ」
ラザフォードがうんざりとした様子で返すと、ようやく"協力"の意味に思い当たったティアナは顔を赤くした。
「に、義兄様!なんて破廉恥なことを!」
「子を為すことは貴族の妻の責務だろう。お前の方こそ男子が二人、などと言っておきながら、まさか蕪畑で子を収穫するつもりだったのか?」
コウノトリが運んでくる、と思っていないだけマシだろうか、とロイドは無表情なまま考える。
「……やっぱり結婚、考え直そうかしら」
「お前のことだから、臍を曲げてそんな埒もないことを言うだろうと、早急に父上達に婚約の件をお伝えしたのだ。止めるというのならば、自分で父上達に報告するんだな」
「くっ……!卑怯ですわ、義兄様」
ティアナは悔しそうに拳を握った。幼い頃ならばその場で文字通り地団駄を踏んだだろう。
あれ程喜んでくれた義両親に、やっぱり結婚止めます、などと言えるのはこの面の皮の厚い義兄か、鉄面皮のロイドぐらいだろう。
繊細なティアナにはとても言えない。
と、ピンときた顔でロイドが口を開く。
「何故か今、失礼なことを言われたような気がします」
「奇遇だな、俺もだ」
ラザフォードが応じ、それを見てティアナは、鋭い……!と内心で歯噛みした。
ぴしりと妹の額を指で弾いて、ラザフォードは仕事に戻る。
弾かれた額は赤くなっていて、ティアナは顔を顰めた。ロイドが冷やした布巾を渡してくれたので、それで冷やす。
「嫁入り前なのに……」
「責任は取ろう」
しれっ、と言いながら、義兄はペンを書類に走らせていく。インク壺が突然倒れたりしないだろうか。
じとりとした視線で彼を睨むティアナに、ラザフォードの視線もちらりと彼女の方を向く。
「……何故誰も彼もが俺との契約を軽んじるのか、非常に不愉快だ。一度了承したものを反故にすることは恥だとは思わんのか?」
「ちょっとした冗談です!拗ねてみせただけというか……」
ティアナが唇を尖らせると、ラザフォードはくっきりと眉を顰めた。
「俺は冗談は好かん。以後気をつけるように」
やがて、アマーリエが体調を崩し、転地療養することになった為に嫁いだ先で伯爵夫人の役目を果たすことは不可能だろうと判断され、両家の話し合いの末にラザフォードとの婚約が破棄されたと発表された。
その後、まもなくしてティアナが新たな婚約者となったこともひっそりと発表した。
ラザフォードにエスコートされながら、ティアナはとぼとぼとオペラ座を後にしていた。
「義兄様、先程はフォローしてくださってありがとうございました」
まだ終幕ではないので、客はほとんどホールにはおらず、たまに館員とすれ違う程度だ。
珍しく下の席でオペラを鑑賞していた二人だったが、むせ返るような複数の香水の香りの所為でティアナの具合が悪くなってしまったのだ。
その為、終幕を待たずに客席から退散してくることとなってしまい、ティアナは申し訳なく思っていた。
オペラは教養の一つだし、劇場に脚を運ぶことは、貴族にとって社交の一部だ。この多忙な義兄がわざわざボックス席ではなく下の席のチケットであってもここまで来たということは、話繋ぎをしたい相手がいたということなのだろう。
「構わん。俺はお前の婚約者になったが、まだ義兄でもある。妹の具合が悪いのに仕事を優先する畜生ではないつもりだ」
「仕事と世間体の為に妹を婚約者にしたくせに……」
「そこまで元気な口が叩けるのなら、もう一度会場に戻るか?」
「おうちに帰りたいです……」
しおしおとティアナがそう言うと。ラザフォードは彼女の肩を抱き寄せてほとんど抱えるようにして馬車停まりまで連れて行ってくれた。
面の皮が分厚いし、口と性格が悪いし、朴念仁だが、妹には優しい兄なのだ。
変わり者の子爵令嬢である義妹を婚約者にした、ということでラザフォードとティアナの婚約は社交界で恰好のゴシップの標的となった。
暖簾に腕押しとばかりにラザフォードはそれら全てを無視していたが、さすがに元々妹と愛し合っていたので前婚約者のアマーリエに婚約破棄されたのでは?という不躾な問いにだけは、
「それならば最初からティアナと婚約する筈だろう。考えるということをしないのか?お前は」
と冷たく言って切り捨てた。
その件以降は、皆ほとんどが形だけは同情的な態度に意見を翻したものだから、全く勝手なことである。
ティアナの生活には、特に変化はなかった。
元々子爵夫人になる為の教育は受けていたし、それが伯爵夫人になったところで教育の方向性は変わらない。
規模が大きくなり、準備の為に勉強する項目が増えた程度だ。
王都での生活が忙しくなり、領地で畑の研究を進めることが出来ないのは少し残念だったが、伯爵夫人になれば子爵夫人よりも援助出来る。自ら行うのではなく、専門家を雇って研究を続けてもらうなどの道もあるだろう。
先の経験を踏まえて、ラザフォードはティアナが具合が悪くなっていないかを頻繁に確認するようになり、彼女をとてもくすぐったい気持ちにさせた。
妹扱いなのだと思っていたが、だんだんと婚約者扱いなのだと分かってきた。
まだまだ扱いは雑な面もあったし、相変わらず小言や悪態を必ず挟んできたが。
それからまた、しばらくしたある日。
「……義兄様。来週のドレスの仮縫いなのですが、義兄様も同席なさいます?」
「何故俺がお前のドレスの仮縫いに付き合う必要がある」
ラザフォードの執務室で、勉強のおさらいという名の執務の手伝いをしていたティアナは、いちいち嫌味な言い方の義兄に顔を顰めた。
「……ただのドレスではなく、婚礼のドレスだからです。何故か、以前に立ち会うので日にちをお知らせするように、と言われてましたもので……」
「ああ。あれか。それならば同席しよう」
しれっと言われて、ティアナはますます渋面になる。
「不細工だぞ」
「婚約者に不細工とか言います!?普通!??」
ティアナが吼えると、彼は少し考えるように首を傾げる。
「……アマーリエには言ったことないな」
「そりゃアマーリエ様ほど完璧な美貌なら顔を顰めていてもお美しいでしょうね!」
「落ち着け。……そう、お前の方が優れている点もあるだろう……何か、ひとつぐらい」
何か絞り出せ、とラザフォードが戸口のロイドに向けて目配せをしたが、彼は無情にも首を横に振った。
「ロイドは裏庭の草むしりでもしてらっしゃい!」
「最近むしりすぎて裏庭つるつるなんですが……」
「反省しろって言ってるの!」
キィ!と激昂するティアナに、ラザフォードは感心する。
「お前の方がアマーリエよりも血圧が高いんじゃないか?」
「まさかと思いますが、それを優れた点として挙げているのならば、義兄様はほんっとうにイチからお勉強し直した方がよろしいかと!」
ティアナは地団駄を踏んで憤った。
なかなかの雄々しい憤り方に、ラザフォードは愉快な演目を見ている気持ちになる。
誰かを見ていて楽しい気持ちになる、ということはラザフォードにとって極めて稀なことだ。
けれど、その稀なケースの記憶を紐解いてみると、いつもこの変わり者の義妹がいた。
「……ふむ、これは思わぬ僥倖」
「……なんとなく、失礼なことを考えていませんか?」
「いいや?」
ラザフォードが鼻で笑うと、ティアナは難しい顔をしつつも察するところでもあったのか、矛を収めた。
「ところで、ティアナ」
「はい、義兄様」
呼びかけに彼女が顔を上げると、ラザフォードはそれだ、と呟いた。
「どれです?」
「そろそろ俺のことを兄と呼ぶのはやめろ。来月には結婚してお前は妻になるのだからな」
そう言われて、ティアナは目を見開く。
「……そう、でしたね。善処します」
「善処ではなく、必ず修正しろ。式場で兄と呼ばれては恰好がつかん」
ラザフォードの体面の為だけならば、わざと呼んでやろうか、などと不穏なことも考えたが、じろりと睨まれて慌てて頷いてみせた。
「か、必ず直します……!」
気合を入れて拳を握るティアナを満足げに見遣って、ラザフォードは追加の書類を彼女に持たせた。
そんな風に、時間が慌ただしく、騒がしく、けれど和やかに流れていく。
ティアナからすればあっという間に、ラザフォードからすれば元々予定したのでようやく、といった感覚で、二人の結婚式が近づいていた。
明けて翌週。婚姻のドレスの仮縫いの日である。
「では義兄様……ではなく、ラザフォード様。私は先に仕立て屋の方に向かいます」
「ああ、俺もこの書類を提出してからそちらに合流する」
仕立て屋の職人に屋敷の方に来てもらうことも多いのだが、今日はその場でいくつか修正を加えることもあるだろうから、と店の方に赴くことになっていた。
その方が職人が直接修正出来て、仕事が捗るからだ。
最終調整にはラザフォードの確認も必要なので、ある程度話が纏まってから彼は合流する流れになっていた。
ロイドと共にティアナが乗り込んだ馬車が、仕立て屋へと向かうのを見送った後、ラザフォードの方もいくつかの事業に関する書類を関係各所に提出する為に別の馬車で屋敷を出発していく。
仕立て屋に到着したティアナはさっそくサイズが変わっていないか念入りに採寸をされ、婚礼の衣装は勿論、その下に着る下着や他の布製の装飾品などの確認に追われる。
ドレスと共布で作られた靴も靴屋の方から届いていて、そちらも見事な逸品だった。
「はぁ……すごく素敵ねぇ。身に着けるのが私なのが申し訳ないぐらい」
「何を仰ってるんです。お嬢様の為のお品ですよ」
仕立て屋の女主人・ベルーナに言われてティアナは瞳を瞬く。
「あら、でも最初はアマーリエ様の為に作り始めたものでしょう?私とあの方では髪の色や背丈にあまり変わりがなかったから好都合だと、義兄……ラザフォード様が」
どう聞いてもあんまりな内容に、ベルーナは笑顔のまま凍り付く。
優秀だの美形だのといい評判ばかり聞くがラザフォードときたら、婚約者になったティアナに対して何でも馬鹿正直に話していいものではないだろうに。
確かにアマーリエを婚約者として教会と国に申告した結婚式の日取りは差し迫っていたので、仕立て屋としても前の婚約者の為に手掛けていたドレスをそのままティアナのサイズに直して進められたことは助かったが、普通の女性は別の女の為のドレスと聞いて怒らない筈がない。
当然、ベルーナと仕立て屋職人一同、ティアナには絶対に漏らさずここまで来たというのに、まさかラザフォード本人が彼女に伝えてしまっていたとは。
「……アンブローズ卿は、少し…………その……女性の繊細な機微を察することが……その……少し苦手な……」
「いえ、ハッキリ鈍感で失礼な男だと言っていいんですよ、マダム……」
ものすごく言いにくそうにしているベルーナに同情して、ティアナは深い溜息をついた。
あの義兄は、何においても無駄が嫌いなのだ。
賓客の為の個室で、ベルーナが一通り説明を終えると最終的な決定はラザフォードが来てからすることになり、一旦女主人と職人達が下がっていく。
代わりにソファに座るティアナの前には可愛らしいお菓子と香りの良いお茶がサーブされ、お待ちください、と店員ににこやかに言われた。
衣装選びというものは、細かく採寸したり、あれを着たりこれを着たり、動いてみたり座ってみたり、どちらの色がいいかしら、だなんてあまり変わらない色の生地を見比べたり、と際限なくやることがある。
勿論店側の方が大変だろうけれど、令嬢たる本人の方にとっても結構な大仕事だ。
この過程がこの上なく好きな友達もいるが、ティアナはあまり好きではないし、今回のドレスは婚礼衣装である為自分の好みだけで決めるわけにもいかず、より大変だった。
「あとは義兄……ラザフォード様に任せましょう。あの方がいいと言えば、万事OKの筈です」
ふぅ!と大きく溜息をついたティアナは、紅茶のカップに口をつける。
さすが一流店。茶葉も温度も完璧だ。美味しい。
「招待状は義兄……ラザフォード様の方で用意してくださるし、お花は屋敷の人に任せたし……お料理も私が口出すよりも料理人に任せておけば間違いないものね。メニューを後で教えてもらうのが楽しみ!」
ティアナは上機嫌で、皿に盛られた一口サイズの菓子を指で摘まむ。
「あと私がしなくちゃいけないことってあったかな……?」
聞くともなしに呟きつつ、彼女は菓子を口に入れる。と、ずっと背後に立っていたロイドがふいに口を開いた。
「太らないようにお菓子を我慢する、とかじゃないですか?」
「うぐ……!あ、歩いて帰るからいいの!」
もぐもぐと菓子を食べきってから、ティアナは反論を試みる。
ロイドはもはやコメントせず、白けた目でこちらを見てくる。ティアナは自分でも徒歩で帰宅することを許されないことは分かっていたので、屋敷に帰ったら屋敷内をぐるぐる歩き回ることを決めた。
あとロイドはもう一度裏庭に呼び出す。
謎の挑戦的な気持ちになり、このお菓子は全て美味しくいただく!と決めたティアナの耳に、ノックの音が届いた。
一方、店員に案内されて仕立て屋の個室に来たラザフォードは、中にいる人物を見て眉を顰めた。
「……これはなんの真似だ」
「そんな怖い顔をなさらないで、ラザフォード様」
にっこりと優雅に微笑むのは、かつての彼の婚約者・アマーリエ・シュトレールだった。
彼女が騎士と共に失踪して二ヶ月が経っていた。
来月の頭にはもうラザフォードの婚儀が取り行われるので、本当にアマーリエはギリギリで駆け落ちしたのだ。
「何故ここに……?」
店員はティアナのいる個室に、と案内してきた筈だ。
一流の店だと思っていたが、こんなことに加担する店員がいるのならば、今後の取引も考え直さなくてはならない。
「あの店員のことは叱らないであげて。わたくしはこの店の馴染みの客なので、少し便宜を図ってくれただけなの」
アマーリエの言葉に、ラザフォードはますます眉を顰める。
客のプライバシーを守れない店員を、当の張本人から叱らないであげて、などと言われて従う道理はない。
特に仕立て屋などはそのドレスの評判以上に、客の秘密を守れるかどうかが重要になってくる筈が、今まで守られ優先される側だったアマーリエには考え至らないようだ。
話の通じない相手に言っても仕方がない。この点は後ほどベルーナに抗議することを決めてラザフォードは改めてアマーリエを見た。
彼女は、二ケ月前に会った時よりも少し痩せていて、着ているドレスも少し質素なもののように感じたが、相変わらず非の打ちどころのない美貌に穏やかな笑顔を浮かべている。
けれど、駆け落ちして後のことを全て押し付けた元婚約者に会うのに、ちっとも悪びれた様子がないことにラザフォードは不気味さを感じた。
「……よく俺の前に顔を出せたな」
「怒っているのね、ラザフォード。わたくしがあなたを置いていったから……」
「話を取り違えるな、お前が責任を放棄し契約を反故にしたことに腹が立っているんだ」
事実、彼はアマーリエがラザフォードではない男を選んだことなど、どうでもいい。以前ティアナにも言ったが、元々互いの間に愛情などなかった。
貴族の結婚は契約であり、義務だ。
それでも愛した男と結ばれたいと言うのならば、好きにすればいい。だが、順番を間違えたのは許せることでない。きちんとラザフォードとの婚約を解消してからならば、何一つ彼の関知するところではなかったのに。
「あなたに、わたくしの気持ちになんて分からないわ……」
「ああ、分からんな。……お前は自分の望みを叶える為に、出来ることを全てしたのか?両親を説得出来なかった時点で諦め、契約を破って逃げた。今までのうのうと貴族としての身分を甘受してきたにも関わらず」
ラザフォードは感情を乱すでもなく、声を荒げるでもなく淡々と言った。
「……やっぱり、わたくしがあなたを裏切ったことが許せないのね。ええ、謝って済むことでないとはわかっているけれど……ごめんなさい、わたくしは、カールを愛してしまったの……彼を想うことを止められず……」
アマーリエは悲しげに、そして申し訳なさそうに言う。
話にならない、とラザフォードはうんざりとする。感情に基づく言い訳など、アマーリエの両親にでも聞かせてやればいいのだ、彼には必要ない。
「侯爵家からは慰謝料を受け取っているし、もう話は済んでいる。俺はお前に用がない、失礼する」
馬鹿々々しくなって、ラザフォードが踵を返すと慌ててアマーリエは彼の腕を掴んだ。
「待って!わたくし……あなたを置き去りにしてしまったことを後悔しているの。それで、謝りにきたのよ……」
「俺に対して後悔も謝罪も必要ない。言っただろう、終わったことだ」
「そんな……どうしても、わたくしのことを許せないのね……それほどまでに、あなたのことを傷つけてしまったなんて……ごめんなさい……」
「…………言語中枢は無事か?話が通じない者に使う時間が惜しいんだが」
いよいよアマーリエを不気味に感じて、ラザフォードは腕を払う。
か弱い彼女が何をしたところでラザフォードに被害はなかろうが、この店には今ティアナがいる。ロイドが傍にいるので直接的な攻撃は防げるだろうが、先程のように店員が何か仕掛けていたら防げるとは限らない。
例えば飲み物に何か仕込むだとか。
「……でもどうか、わたくしの話を聞いて。わたくしは、あなたに貴族としての誠意を見せに、恥を忍んでここまで来たの」
「不要だ、これ以上話すつもりもない」
「……カールとの恋に目がくらんで、貴族の義務から逃げたことは認めるわ……だから、こうして戻ってきたの、あなたと結婚する為に」
ラザフォードは無言で片眉を上げた。
「それこそ不要だ。俺には婚約者がいる」
「変わり者のあなたの義妹ね。ラザフォードったら、いくらわたくしがいなくなって、誰でもよかったからって義妹で賄おうとするなんてよほど辛かったのね……でももう大丈夫。わたくしがちゃんと貴族の夫人としても役目を果たしますわ。もう何も心配しなくていいのよ」
アマーリエの微笑みは、まるでどろりと端から溶けていきそうなほど粘性があり、ラザフォードはさすがにゾッとした。
ノックの後にティアナのいる個室に入ってきたのは、背の高いがっしりとした体躯の青年だった。黒髪に鳶色の瞳のなかなかの美丈夫だが、とはいえティアナには見覚えがない。
ロイドが無言で主のすぐ傍に立ったが、闖入者は紳士的に扉を開け放ちそこに膝を突いた。突然の動きに、ティアナは驚いて目を丸くする。
「はじめまして、レディ。私は、騎士団第二小隊所属、カール・ローデンといいます」
「……ローデン卿。初対面の場をこのように選ばれるのは、感心出来ませんわ」
ティアナは意識的に顔を顰めた。
仕立て屋は女性が無防備になる場でもある。
その為、万全の警備や秘密保持が望まれ、初対面で約束もない男が女性を訪ねてくるなんて、そのまま捕まってもおかしくない場面だ。実際ロイドは静かに殺気を溜めていて、相変わらずの無表情ながらなんだかちょっぴり寒気がするぐらいだった。
「失礼は承知です。レディ、このタイミングしか見つけることが出来ず……ですが、きっとお許しいただけると思います、何故なら私は今、あなたに朗報を持ってきたのですから」
結構恩着せがましい言い方ではないかしら?
ティアナはぱちぱちと瞬きをした。
流れるように言われたので、ちょっと勘違いしそうになったけれど、このカール何某さんはいい事教えてあげるから無礼は見逃せ、と言っているのではないだろうか。
「ええと……でしたら、後ほど屋敷をお訪ねください。今はどうぞお引き取りを」
「!?タイミングは今しかないのですよ!?あなたは普段、子爵の屋敷にお住まいで……」
子爵、というのはラザフォードのことだろう。
彼は現在、父親の持つ爵位の子爵名を公式の場では名乗っている。
「あ……住んでるところもご存知でしたら、住所をお伝えする必要はありませんね……」
ティアナは内心冷や汗をかきながら精一杯何でもないことのように振る舞う。
どうしよう、ちょっと怖い人かもしれない。騎士って言ってたし、武力行使に出られたらロイドだけでは分が悪い。
彼女は視界の端でちらりと開いた扉を見るが、それはカールの後ろだ。窓から逃げる時間は稼げるだろうか?ロイドの尊い犠牲と引き換えに。
「子爵に聞かれては、元も子もないのです……」
悔し気に言われて、ティアナは首を傾げる。
「……ラザフォード様に聞かれて困るようなことが、私の利になるとは思えません」
再び腕を掴まれて、ラザフォードはアマーリエによって廊下に連れ出された。
本来ならば数名行き交っている筈の店員もおらず、まさか女主人までグルなのだろうか、と彼は訝しがる。
出来る限り早急に、この様子のおかしいアマーリエを然るべき者に押し付けたかったが、人の姿が見えないことには放置していくのも躊躇われた。
何故かすぐ隣の個室は扉が開け放されていて、僅かに話し声が聞こえた。中にはソファに座るティアナと、その後ろにぴったりと張り付くロイドが見えて、ラザフォードは外に漏れないように内心で安堵する。
が、彼女達の前に膝を突く見知らぬ男を認めて顔を顰めた。誰だ。
そんなラザフォードにまるで恋人のように寄り添いながらアマーリエは歌うように朗らかに言う。
「ラザフォード。あなたに相応しいのは、わたくししかいないわ。わたくし達って、とても釣り合いのとれた婚約者同士だと思うの。あなたもそう思うでしょう?」
「いや、もう婚約者ではないからな」
「……あなたの方から、お父様に説明してくれれば、また元の通りの関係に戻れるわ。わたくしも、あなたも、何も変わっていないのだから……ね?」
にこ、と微笑んで首を傾げられても、ラザフォードには頷きようもない。
"元通りの関係"に"戻る"、と言っているのだから、本当に気が狂って状況が分からなくなっているわけではないようだ。何か企みがあるのだろう。
「……父親である侯爵には会ったんだな?そこで何か言われたか……いや、要求を拒絶されたか」
探るように見下ろして言うと、彼女は一瞬顔を顰めた。けれど、すぐにまた夢見るような笑顔に戻る。
「お父様もきっと、わたくしが出て行ったことがショックでまだわたくしを受け入れられないようなの……お可哀相に。本当に、わたくしはたくさんの人を悲しませてしまったわ……だから、あなたの方から、わたくしと結婚することを伝えてもらえれば、またお父様も以前のように優しいお父様に戻ってくださると思うの」
どうやら、話が通じないのはわざと無視したり、意識的に曲解しているようだが、主張がおかしいのは素らしい。
だが、
「……何度も同じことを言わせるな。俺に、お前は不要だ」
ハッキリと言うと、アマーリエはさすがに表情を強張らせた。
「……そう。でもあなたがわたくしの代わりに召し上げた、義妹の方はどうかしら?あの子にわたくしの代わりが務まるかしら」
彼女は強張ったまま笑ってみせたが、ラザフォードにはひどく醜悪なものにしか見えなかった。
「傲慢なラザフォード。あの子だって、条件さえ整えばあなたのことを裏切るに違いないわ」
「……ラザフォード様に聞かれて困るようなことが、私の利になるとは思えません」
ティアナの返答に、カールは戸惑った。
彼は恋人であるアマーリエに言われるまま、義兄に結婚を強要されて困っているだろうティアナに、アマーリエが戻ってきたのでもう結婚する必要はないのだと教えてあげに来たというのに、意外に強情なティアナは端からカールの話を聞こうともしない。
ティアナの方からも、アマーリエとの結婚を祝福させ、身を引かせることでラザフォードとアマーリエの結婚の地盤固めをしたかったというのに。
「……実は、話というのは子爵……そのラザフォード様に関することなのです」
「……そう、ですか」
露骨に帰って欲しい、という態度を崩さないティアナに対して、カールはもう話を押し通してしまうことにする。話を聞けば、意見を変えるだろう。
アマーリエが知己を辿って調べさせたところによると、ティアナは本当に急に婚約者に指名されて、なす術もなくラザフォードと婚約したらしい。
そんなティアナをこの婚約から解放することは、騎士道にも適うとカールは彼女に本当に朗報を持ってきたつもりでいるのだ。
「あなたはアマーリエの代わりに急遽婚約者にされたのだと聞いています」
「……ええ……と、まぁそうですね」
事実だし、社交界ではもはや誰でも知っていることなので肯定したが、改めて言われるとひどい内容だ。私、割と可哀相なのでは?とティアナはちらりとロイドを見たが、彼の鉄面皮からは何も読み取れなかった。
「さぞかし、悩み、傷ついた日々だったでしょう……心中お察しいたします」
なんだか深刻そうなカールを前に、割と苦労もなくのんびりここまで来ました、とは言えずにティアナは曖昧に微笑んだ。ここでしっかりとラザフォードのように否定しないものだから、カールは勢いづく。
「しかし、その苦労の日々も終わりです!アマーリエが戻ってきたのですよ。そして、子爵と予定通り結婚して、あなたを伯爵夫人という愛のない結婚と重圧から解放してくれるのです!」
「え」
ティアナは告げられた内容に驚いた。
「アマーリエ様が!?え、駆け落ちなさったのですよね!?どうして戻ってきたんです?件の騎士に捨てられでもしましたか??」
歯に衣着せぬ物言いに、さすがのロイドも噴き出すのを我慢する為に腹筋に力がかかる。カールはなんとも言い難い顔をして、首を振った。
「いえ……その騎士は私です」
「……え、ではどの面下げてここにいらしたの?」
つい言ってしまったティアナの言葉に、ついにロイドはグゥ、と唸った。カールも少し青ざめている。
慌てて口を覆ったティアナは、目を白黒させて懸命に考え始めた。
アマーリエの駆け落ち相手の騎士であるこのカールが、アマーリエとまだ関係が切れていないにも関わらずこの場にいて、ラザフォードとアマーリエの結婚をわざわざティアナに知らせるメリットは何だ?
駄目だ、何も浮かばない。恋人が元婚約者と結婚することを、朗報とする意味とは。
「…………あ、というか、そもそもラザフォード様はアマーリエ様との結婚を了承してるんですか?」
彼がそうと判断したのならば、ティアナに否やはない。
そうなれば元の義妹の身に戻り、子爵領での研究に打ち込むだけだ。もっとも、さすがにこんな理由で婚約破棄された娘にいい縁談など来ないだろうから、ラザフォードにはきっちり責任を取って良縁を用意してもらわなくてはならないが。
出来ればお金持ちで若くて、容姿端麗で性格のいい男性を。あと女性の機微に敏感な人がいいな、誰かさんと違って。
アマーリエはラザフォードを戸口に近寄らせながら、カールの話が核心に近づいていることに内心ほくそ笑んだ。
二人は、ティアナの口からラザフォードの婚約者を止める旨を言わせたいのだ。それによってラザフォードがティアナを見限り、アマーリエと再度婚約を結ぶことを望んでいた。
ラザフォードは無駄が嫌いで、それ以上に自身を裏切る者が嫌いだ。
彼との婚約を破棄することをティアナに明言されたとしたら、彼はティアナに裏切られたと感じ、彼女との婚約を考え直すだろう。
条件が同じならば恐ろしく合理的な彼のことだ、"療養の為に婚約を破棄せざるを得なかった、完璧な侯爵令嬢"であるアマーリエと再度婚約を結ぶ筈だ。
「ええ、勿論です」
カールが嘘を言うと、ティアナはまた瞬きをした。
そこで戸口にラザフォードとアマーリエが立つが、扉が邪魔になっていて彼らの姿はティアナには見えていない。カールは扉の傍にいたことと予めアマーリエと示し合わせていた為、彼らが話す声の聞こえる範囲まで来たことを悟る。
ここで、ティアナが、ラザフォードと婚約を破棄することを明言すれば、後はアマーリエが話を纏める手筈になっている。カールはにやりと笑って先を促した。
「……それならば、レディ?」
「嘘ですね」
ひやりとしたティアナの声がハッキリと部屋に響き、外のラザフォードとアマーリエにも届く。
「はい……?」
カールが微笑んだまま固まる。それを見て、何故この流れで行けると思ったのだろう、とティアナは疑問に思った。結局何がしたいのかはちっともわからなかった。
事態は全く把握出来ていないが、彼がティアナに嘘をついたことは分かる。
だって、
「私は、ラザフォード様の言葉はラザフォード様から告げられなくては信じません。あの方は心底無駄の嫌いな人。他人の口を介して誤解を招くようなことはしません。特に、ここまで重要なことは絶対に」
それを聞いた瞬間、ラザフォードの唇が笑みの形に吊り上がる。自分の考えは正しかった、と彼はひどく満足した。
ティアナは、ラザフォードを裏切らない。これがどれほど貴重なことか、当のティアナは気づいていないだろうけれど。
「さすがです、お嬢様」
ロイドが僅かに笑って称賛する。うむ、とティアナが頷くと、そこに慌ただしく部屋に入ってくる者がいた。千客万来であり、この上もなく迷惑だ。
現れたのはアマーリエで、彼女は何故か見たこともないような恐ろしい形相をしていてティアナは驚く。
「アマーリエ様!……ラザフォード様も?」
続いて部屋に入ってきたラザフォードは、立ち上がったティアナの横に並んだ。ロイドは二人を守るように前に出る。
「ティ、ティアナ!あなただって、無理矢理結婚なんて嫌でしょう!?わたくしがラザフォードと結婚してあげるから、安心なさい!」
「…………罰ゲームみたいな扱いですね」
ちら、とティアナはラザフォードを見上げて言う。彼は意味が分からない、と首を傾げた。
「ティアナ!」
アマーリエが悲鳴のようにして叫ぶので、ティアナは悲しくなった。美しくて聡明で、誰にでも分け隔てなく公平に施しを与えていた女神のような令嬢。どうして彼女は今、鬼のような形相で自分に婚約破棄を迫ってきているのだろう。
「あの……そちらの騎士の方も、アマーリエ様も、何か勘違いしてらっしゃるようなのですが……」
ティアナは非常に言いにくく感じながらも、重い口を開く。
「私……ラザフォード様のことが好きなので、この婚約、嫌々受けたわけではない、です……」
しゅわ、と湯が沸騰するかのようにティアナの顔が赤くなり、腕組みをして隣に立っていたラザフォードがぽかん、と彼女を見遣る。
「………………それは、初耳だな」
「……はじめて言いましたから…………」
じろじろと見てくる視線に耐え切れず、ティアナは俯く。彼女の旋毛を眺めながら、ラザフォードは口の中で小さく呟いた。
「……これは、思わぬ僥倖」
と、そこに女主人のベルーナと、警官隊がどやどやと突入してきて、個室の中はてんやわんや。あっという間にアマーリエとカールは拘束された。
容疑は店の店員を抱き込んで本来あってはならない、部外者の侵入の手引きをさせたこと。勿論無断侵入。件の店員に足止めされていたベルーナが、自分達ではカールが暴れてはどうしようもない、と思いすぐさま警官隊を呼んでここまで駆け付けたようだ。
ティアナとラザフォードに怪我はなかったものの、彼らへの介入は十分に罪に問われる範疇であり、アマーリエとカール、件の店員は警察のお世話になることが決まった。
それまでアマーリエは療養の為領地に行っている、としていた父侯爵もこれにはカンカンで、カールとの駆け落ちした件に関しての箝口令を解き、娘を勘当したことを発表した。
カールの方はティアナに騎士隊所属と名乗っていたが、駆け落ちした時点でとっくに除籍処分になっている。
これにより、二人は罪を償った後も当然社交界に戻ることは出来ず、平民として暮らしていくことが決定した。
その後、仕立て屋からは丁重な謝罪と賠償を提案され、これ以上婚儀の準備の遅れを厭ったラザフォードの進言により店は罪に問われることはなかったが、評判はかなり下げてしまい、これから名誉挽回に励んでいくこととなる。
ちなみに、手引きした店員の方は当然店はクビ、そのまま警察の方で然るべき罪に問われた。
これらの騒動の一応の決着がつく頃には、もうティアナとラザフォードの婚儀は間近に迫っていた。
扉の前に並んで立ち、ううん、とティアナは唸った。
「今更ですけど、アマーリエ様は結局、何故義兄様と婚約し直したかったのですか?」
首を何度か双方向に傾げて、凝りを解してからラザフォードは答える。
「二ヶ月に及ぶ駆け落ち生活で、実家から持ち出した資金は底を突き、そもそも平民生活などしたこともない二人には金が必要になった」
「……ははぁ」
分かるような、分からんような。
「…………そこで、俺と婚約をし直して結婚し、侯爵家と我が伯爵家の資産を使い、あの騎士を愛人として囲い悠々自適に暮らしていこうと考えた、のだと」
「……子供の方がまだマシなことを考えそうな、杜撰な計画ですね……」
ティアナは冷や汗を掻く。遊ぶ金欲しさの犯行。杜撰すぎる。
「まったくだ、駆け落ちせず何事もなく結婚し俺の子を産んだ後ならば、別に男を囲うぐらい大目に見てやったものを」
「………………二割ぐらいは義兄様の所為でもあるような気がします」
「言いがかりだ」
しれっと言われた言葉に、ティアナは胡乱な眼差しを向けた。
こういう男なので、その杜撰な計画が上手くいくと思わせてしまったところもある筈だ。
ふと、ラザフォードの襟の位置がズレているのを見つけて、ティアナは手を伸ばす。彼が屈んできたのでちょいちょい、と正してやった。
「あれ?じゃあ私も愛人囲っていいんですか?」
「……二割は俺の所為らしいからな、その方針は捨てることにした」
「えー?なんかズルくないですか?」
ティアナが唇を尖らせると、ラザフォードはぺちりとその額を小突く。
その所為でたたらを踏むのを腰を抱いて支えてやって、彼女のドレスの裾を撫でて整えた。
「馬鹿者。お前は俺のことが好きなんだろう?その気持ちを後生大事に抱えて貫き通せ」
「え……そうですけど、今言います?そして、あなたが言います……?そんなんだから婚約者に逃げられるんですよ……」
どうしてこんな男のことを好きになんてなってしまったのだろう、とティアナはげんなりとした気持ちになる。後悔していないし、勿論言うまでもなく貫き通すつもりではあるけれど。
ティアナの言葉を聞いて、ラザフォードは僅かに笑った。
「構わん。その結果、惚れた女と結婚出来る」
「………………はいぃ?」
きょとん、と彼女が瞳を瞬き、ゆるゆると赤面していく中、目の前の扉が開かれる。
荘厳な音楽が流れだし、頭上からはパステルカラーの花びらが舞いながら降ってきた。大勢の参列者が一斉に立ち上がり、拍手で二人が迎え入れられる。
「ところで、結婚後に妻と恋愛をするというのは、非常に合理的だと思わんか?」
「もし、それが素晴らしいことだと思って言ってるなら……旦那様はもうちょっとロマンチックな物言いを勉強してきた方がいいですよ!」