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すべて、あなたがくれた  作者: 喜楽直人
第一章 クレア・リィーディアル
3/12

3。

本日投稿3話目です。読む順番にお気を付けください。

 


 朝早く起きて掃除をしてから歩いて学園に行き、歩いて帰ってきてから掃除をする日々。

 少しずつ髪からは艶がなくなり、頬はこけ、指先にはひび割れとささくれが目立つようになった。ひたむきな努力を勉学に向けていた時の瞳の輝きもすっかり失ってしまった私は、学園のクラスメイト達をも遠ざけるようになっていた。

 初めの頃は周囲も、唯一の血の繋がりのある兄が行方不明になったショックから来るものだろうと、少し遠くから見守っているつもりなだけだった。

 しかし、それにしては様子が可笑しすぎると噂になったころには、学園までの通学を徒歩で行っているとか、昼食は硬そうなパンを水で押し流すようにして食べていたとか、家での扱いが粗末になっていることが人の口に上るようになってきていた。

 というか、私にはそれを隠す努力をする為の気力が無かったのだ。

 心配してくれた教師たちから話し掛けられても何も答えられなかった。

 ただ俯いて時間をやり過ごし、タイミングを見計らっていたようにふと注意が散漫になった隙に逃げ出した。

 一度だけ、逃げ損ねて捕まった。

 その拍子に体力がなくなっていたせいもあるのだろうけれど転んで足首を捻ってしまってから誰も無理に私を捕まえようとしなくなった。

 その日の夕方も次の日の朝も、私が片足を引き摺って歩いて登下校していたからだ。


 唯一人、アベル・フィールド以外は。

「やあ、クレア嬢。おはよう」

 あれから毎朝、リーディアル侯爵邸の近くで待ち伏せされているのを遠回りしてまでやり過ごしてきたというのに。ついに今朝は逃げ切ることに失敗したらしい。

 今朝も反対側の路の角に黒い箱馬車が見えたからかなり遠回りになることを覚悟して家を出てきたというのに。こちら側で一人で立っているなんて卑怯だ。

 俯き、足早に通り過ぎようとしても、簡単に行く手を塞がれてしまう。

 それを数回繰り返した。けれど、疲れが溜まるばかりで全くすり抜けられそうになかった。

「…おはようございます、フィールド先輩」

 ぼそぼそと挨拶だけを交わしてその横を通り抜けようとした手を、ぐっと掴まれた。

「何をするんですか、止めてください」

 襤褸切れの様なものを着せられて下働きの様な事をさせられていても、私はリーディアル侯爵家の令嬢だ。

 どんなに裕福であろうとも、商人の息子に勝手に触られて黙っている訳にはいかない。令嬢と言い張れるのもあと少しの間だけだが。

「いいですよ、大声を出して戴いても構いません。私が今からいう事の証人になって戴くことにしましょうか」

 何を言っているのだろうか。訝し気にその自信満々の顔を見返すと視線を合わせて微笑まれる。

 馬鹿にされているような気がして、渾身の力を込めて手を振りほどこうとしたのに、却って強引に引き寄せられた。

 そうして。この不毛な会話は始まったのだった。


「好きです。結婚を前提に付き合ってください」

「無理です。お断りします」

 一刀両断お断りする。

 きちんと考えて出した結論ではない。頭が真っ白になりすぎて思わずお断りしていたのだ。

 でも、深く考えたところで出せる答えは同じ。

 貴族の一員として生まれたからには、勝手に婚姻の申し込みを受けたり断ったりすることなどありえないのだから。

「私は、他国ながら畏れ多くも王族の方と婚約を交わしております。婚約者のいる身です。今回は聞かなかったことにします。これからは、そう言った軽はずみな発言はお控えください」

 例え、実の父の画策により異母姉にすり替えようとされていたとしても、本来は私の婚約だ。父の策略が為されるその時まで、私はその誓いを私のものだと心得ている。心得ていようと思っている。

 取り付く島もない私の態度に、何故かフィールド先輩は顔の笑みを一層深めた。

「やっぱり、クレア嬢はいいね。うん、やはり私は君がいい」

 そういって、「さぁ、こっちだよ」手を掴んで走り出した。

「や、やめてください。手を…離してっ」

 ようやく手を振り払ったのは、見知らぬ馬車の前でだった。

 中にはあの前回、付添人シャペロンをしてくれた老女がいた。

「さあ乗って。私は別の馬車で行くから。安心してほしい」

 にこにこ顔のまま言われてしまって困惑が深まる。

 安心? どこが? 別の馬車って? 婚姻の申し込みは断ったのに?

 聞きたいことも問い詰めたいことも沢山だ。というか疑問しかない。

 けれど、フィールド先輩は私を老女に引き渡すと、手を振ってきた道を戻っていってしまった。

 私は「さあさあ、ご一緒に学園に参りましょう。遅刻してしまいますよ?」

 早起きしてきたから遅刻することはないと思うけれど、このまま老女を無視して歩き出すのも躊躇われて、私は誘われるまま箱馬車に乗り込んだ。

 箱馬車の中でいきなり髪を梳られたのには吃驚したけれど、優しい手が髪を滑っていく気持ちよさに動けなくなった。

 老女も特になにをいうでもなく、ただ何度も何度も使い込まれた木製の櫛で私の茶色い面白味のない髪を梳っていた。

 そうして、丹念に梳られた髪はその輝きを取り戻し、シンプルながら丁寧に編み込みまで施されていた。

「さぁできましたよ。この方がお勉強にも身が入るでしょう?」

 女の子は髪型一つをとっても華やかでいいですね、とニコニコしている老女に小さな声でお礼を伝えた。

 その頃にはもう学園は目の前になっていた。そうだった。こういうことはこれ切りにして貰わなければ、と言葉を選んでいると、

「お帰りになる時は、学園の降車場でクレア様のお名前をお告げ下さい。お迎えに参りますね、明日からの朝は、今朝お乗せしたあの角でお待ちしておりますわ」

 老女から先手を取られてしまった。口元に刻まれた皺の数からは考えられないほどハッキリとした声でそう言われて焦る。

 けれど、それを素直に受ける訳にはいかない。「そんなことをして頂く理由はありません」言葉を選んでいる場合ではないと、少し強い言葉でお断りしたのだけれど、

「うふふ。おいで戴けるまでお待ちしてますね。老体にはかなり大変なのですけれど、クレア様の為ならわたくし頑張りますわ」

 そうふんわりとした笑顔で言われてしまい、私は今以上の強固な態度に出る事を躊躇ってしまった。

「大丈夫です。アベル坊ちゃまは来ませんよ。させませんから安心して下さいね」

 ぷっ。

「いない方が、”安心”で、”大丈夫”、なんですね?」

 雇い人であろうフィールド先輩に対して使うにはあまりにも辛辣なその物言いは、この上品な老女には似つかわしくない。

 けれどどこか愛情を感じるその物言いとのバランスが可笑しくて吹き出してしまった。

「そうして笑っていらした方がいいわ。何倍もお可愛らしく見えますよ。そろそろ学園に着きますね。いってらっしゃい。お勉強、頑張ってくださいましね」

 そんな風に気遣って貰うのは何年振りだろう。

 私は目の前に張った透明な水の膜を目の前の老女に気付かれないように俯いて、「いってきます」とちいさく呟くのが精いっぱいだった。

 そうして私が、馬車をお断りしきれていなかったことに気が付いたのは、ふわふわとした幸せな気持ちでその日の授業をすべて受け終えてからだった。

 結局。私は老女の申し出を受けた。

 弱くなっていた心で一度覚えた好感はそう簡単には消せなくて、悲しそうな顔をする老女に逆らえなかったのだ。

 そうして。老女に送り迎えされている分にはアベル・フィールド先輩が待ち伏せしていることがない、という事も大きかった。

 朝晩待ち伏せされるよりはずっとマシ、というよりも朝晩までも付き纏われるのは嫌だ、という点に尽きる。

 そう。あの朝の告白からずっと、彼はすれ違う度、顔を合わせる度に、私の前で跪いた。


「好きです。結婚がダメならせめて正式にお付き合いして下さい」

「正式なお付き合いがどう結婚を諦めているのか判りませんが、お断りします」

「好きです。やっぱり結婚して下さい」

「なにがやっぱりなのかサッパリ判りませんが、お断りします」


 繰り返される、まるで茶番の様な告白を断るのにも疲れてきた。

 周囲からもくすくす笑われる始末だ。

 あの日、いきなりフィールド先輩が侯爵邸に押し掛けてくるまで顔も知らなかったのに。

 それでも、この茶番のお陰で私の周りに人が戻ってきたのも本当だった。

「あの先輩、めげないね」

「嫌ね。クレア様には他国の王族という素晴らしい婚約者様がいるって知らないのかしら」

「ちゃんと教えて差し上げたのですよね? それでこれなんですの? まぁ、情熱的だこと」

「本当に。羨ましいですわ。わたくしも、たとえ平民であろうとあれだけ情熱的な崇拝者を持ってみたいものです」

 廊下でのすれ違いざまや教室の席で集まって掛けられる、フィールド先輩の告白に対する感想たち。

 ある者は面白がり、ある者は嘲り、ある者は羨ましがる。

 私はいつの間にか、前よりずっとスムーズに周囲から迎え入れられていた。

「うふふ。他国の王族に婚約者がいるクレア・リーディアル侯爵令嬢とお話してみたいと思っている者は多かったんですよ? でも、クレア様は成績優秀者として有名でしたし、私達の様なお喋り雀たちとは一線を画してらしたから」

「でも、あの先輩とのやり取りを見ていたら…一緒なのねって。恋をして、恋に悩んで。あぁわたくし達と同じなのねって思えたの」

 恋…私は恋に悩んでいるのだろうか。

 見たこともない、異母姉に奪われる寸前の、遠い国の王族の婚約者に?

 それとも…いや、駄目だ。それは考えるだけでも許される事ではない。

「何を言われているのか、判りませんわ」

 ぷいっ、と横を向いた私の頬に、嫋やかな白い指が突き刺さる。

「ふふ。お顔が真っ赤でしてよ? クレア様も、そういう表情ができましたのね」

 周りを取り囲むクラスメイトのご令嬢達にくすくすと笑われて居た堪れない。

 けれど、そこにあるのは、本当の本当には嫌な気持ちだけではなくて。

 けれど、そこにある気持ちがどういうものなのか、気が付きたくなかった。

 気が付きたくない、そう思っている時点でそれは既にそこにあるのだけれど。

 気が付きたくない私は、そこから目を背け続けた。


 そうして。どれだけ目を背けようとも、その日はやってきた。



「就職先が決まったんだ。遠い国だ。もうこの国には来ないと思う」

 それは卒業式の前日だった。

 私に許された自由は明日まで。そんな日に、校門でなど、そんなことを叫ばないで欲しい。

「今まで、しつこく付き纏ってごめん」

 学園の生徒たち皆が見ている前でそんなことを言われても。

「最後に、一回だけでいいんだ。握手を、してくれないか」

 私には、差し出されたその手を、取ることすらできない。

 できるだけ冷たい瞳で睨みつける。

 あぁ。今度こそ、ちゃんと嫌われることができるかしら。

「就職おめでとうございます。お仕事頑張ってくださいませ。さようなら」

 せめて、フィールド先輩の最後の記憶に残る私が美しく気高くあるように。

 私は精一杯美しく見えるようにカーテシーを贈る。

 そうして、目に溜まっていく涙が零れ落ちる前に足早にそこを離れた。

 好奇心で一杯にした顔で私の周囲を取り巻いていた生徒たちが、私がまっすぐ進む先を慌てて退く。

 ぽっかりとできた空間を、できるだけ姿勢を良くして、進む。


 きっと。

 これから先に辛いことがあった時、私は貴方の言葉を思い出す。

 これまでずっとそうだったように。

 異母姉に「脂ぎった商人の老人に嬲られる為に勉強に励むってどんな気持ち?」と嘲られた時も。

 義母に「いくら高く買って貰う条件が学園の卒業資格だとしても、それが貴女が掃除という仕事から手を抜く理由にはなりませんからね?」と詰られた時も。

 実の父に「ふん。お前の様な不器量な女でも血筋だけは真面まともだからな。誇れるところはそれだけだが平民にはありがたがられる。良かったな」そう、この身体に流れる血すら馬鹿にされた時も。

 あなたがくれた言葉が、凍り付いた私の心を温めてくれた。


『好きです。結婚して下さい』『好きです。結婚を前提にお付き合いして下さい』『好きです。結婚がダメならせめて正式にお付き合いして下さい』『好きです。やっぱり結婚して下さい』『好きです』『大好きです』


 馬車の中で、図書室で。議論を強請る甘えた顔が頭に浮かぶ。

 初めて会ったのは、侯爵邸に押し入ってきた時だった。

 最初から最後まで丁寧な態度なのに強引だった。

 心を受け取ることはできないのに、温かなそれだけを私は掠め取る。

 想いは返せない。返すことはできない。

 それでも、浅ましい私は貴方から戴いた言葉を捨てられないのです。

 あなたがくれた言葉は全部覚えてる。これまでも、これからも、ずっと。

 辛いことや悲しいことがある度に、ズルい私はきっと心の小箱からあなたの言葉を引き出してそこに燈る温かな想いで暖を取る。

 心を温める言葉も、貴方ひとを想う気持ちも、すべてあなたがくれた。

 そうしてまた立ち上がる力を得る。

 でも。それだけ。

 さようなら。初めて好きになった人。初めて私を好きになってくれた人。

 あなたの幸せを祈ることすら、心の中でしかできない。

『ありがとう』の言葉すら貴方へ伝えられなかった事が、苦しい。


 卒業式には出なかった。いや、出して貰えなかった。

 あまりに派手な昨日の告白が、どこからか父の耳に届いたのだ。

「卒業証書は式に出なくても受け取れる。もう行かなくていい」

 そうして私の学園生活は終わりを告げた。

 今日の午後には、先方が私を迎えに来るそうだ。



1時間ごとに続きが投下されます。

予約投稿完結済です。読む順番にお気を付けください。

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