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01:ジントニック

「ふざけないで」


その言葉と同時に頬に鋭い痛みがはしった。

掌を当てると、そこはジンジンと熱い熱を孕み、冷えきった僕の手に優しい熱を与える。

季節は12月も暮れ。

宙を舞う空気は冷たく、息を吐けば白く凍りついてしまいそうな儚げな吐息が一瞬顔を覗かせる。

その最中に、凍てつく夜の街中に僕と彼女は立っていた。


木々は暗闇に包まれその姿を潜め、白々しく光る街灯は自然界に不自然な出で立ちで佇んでいる。

等間隔に並ぶ街灯がなんだか滑稽に思えるのは、この風景が彼女とよく一緒に歩いたにせよ、特に思いいれもないからなのだろう。


彼女、美雪は鋭い、見ただけで相手を刺殺してしまいそうな視線を此方へ向けた。

彼女の目は日本人にしては色素が薄く、奥まで見通せそうな薄茶色をしている。

こんなシリアスな状況でも美しいと思ってしまう彼女の目は、やはり美しいのだろうと意味もなく思考を廻らせている僕は変わり者なのだろう。


「ねえ、聞いてるの、」


彼女は再び厳しい表情で僕に問うた。

僕はなんて返せばいい、別れたくないよ、かな。

でもそれでは嘘をつくことになってしまう。

かといって、ごめんね、も間違っている気がする。


「私と別れると言った、その理由を聞いてるの」


眉間には細かい皺がたくさん寄っていた。

頬は真っ赤に上気していて、チークなどいらない程だった。

件の綺麗な眼はうっすら涙が浮かんでいて、両手の拳は強く握り締められていて、白く変色してしまっている。


「好きな人が、できたんだ」


嘘でも誤魔化しでもない、これが理由。

最低だと、浮気だと言われても仕方がないだろう。

でもまだその人とは関係も持っていないし、浮気とは違う気もする。

実際違うのだけど。

そんな事を頭の隅で考えていると、再び頬に熱い痛みがはしった。


「…っ」


「最低ね。私よりいい女だっていうの、」


彼女はこんなに手の早い人だっただろうか。

いや、彼女は優しくて、料理もうまくて、甲斐甲斐しく僕の身の回りの世話をしてくれた。

周りから見れば、理想的な彼女、なのだろう。

でも、僕にはそれが負担であり苦痛であったのかもしれない。


朝起きれば必ず用意されていた朝食、そして手作りの弁当。

洋服からはいつも洗剤のいい香りがしていたし、部屋も埃ひとつなく掃除されていた。

学校が終われば彼女が校門の前で待っていて一緒に僕のアパートに帰る。

そして彼女の作った夕食を食べてベッドを共に、要はセックスして1日が終わり。

別に、同棲など望んでは居なかった。

しかし彼女が僕の特別に、いや、唯一になろうとしているのは容易に想像がついた。


街灯が、ちかちかと点滅を繰り返す。

暗闇と、人工的な光が交互に世界を染め替える様は今話している話題よりもずっと、ずっと面白く興味がわくものだった。


「うん」


思わず笑みがこぼれた。

想い人の事を想って出た笑みなのか、それとも彼女とは比べ物にならない想い人とを比較してしまい嘲るような笑みが出てしまったのか、彼女がどう解釈したかはわからなかった。

しかし彼女は一瞬目を見開き、そして唇を噛み締め僕を見上げて言った。


「へえ、よかったじゃない。あんたなんかくれてやるわよ、このろくでなし」


一歩的に言い捨てて場を去る彼女の背中は、やはりこの風景と同じで、とても滑稽だった。

最後にもう一発頬を打たれると思っていたのがはずれたことだけが幸いだ。


雪の降りそうな張り詰めた空の下、僕は帰ろうと足を踏み出した。

長時間同じ位置に立ちっぱなしだった足はすっかり固まってしまい、歩くたびに膝に違和感を覚えるのが妙に面白い。


―今日も行っていいかな。


自宅とは真反対の道をひたすら歩く。

葉の繁っていない、むき出しの枝が風に吹かれてわずかにゆれる。

風は冷たさを増して、どんどん速度を増して僕の横を通り過ぎていく。

僕はコートの襟をたてて、小走りで目的の場所を目指した。


やがてたどり着いたのは住宅街に佇む一棟のマンション。

すばやくエントランスを抜けて目的の部屋へ向かう。


件の部屋の前に人影を見つけた。

それは大好きな、大切なあの人のものに間違いない。


「如月さん、」


名前を呼ばれた人影は此方を振り返ると一瞬びっくりした顔をして、そして眼を細めやさしく微笑んだ。


「どうしたんだ、こんな時間に、」


「いえ、ちょっと近くに来たもんで寄ってみました。迷惑でしたか、」


「迷惑だなんて思ってないくせに。こんなところで話すのもなんだから、上がれよ」


「やった、じゃあおじゃまします」


冷えきった身体は相変わらず冷たい。

しかし、カサカサに乾ききった心は一気に潤いと、そして温もりを取り戻した。

顔が自然と微笑んでしまう。

それを敢えてとめようとも思わない。


「早くしろよ、もう閉めるぞ、」


ドアの向こうから如月の声が覗いた。


「すいません、今行きます」


ドアの隙間から身体を滑り込ませる。

タイマーでもセットしてあったのだろう。

部屋の中は暖かく、そこに大好きな人がいるのがとても嬉しく幸せだ。


ドアが閉まると、そこには僕と貴方しかいないのだから。


「おじゃまします」


一声掛けて靴を脱ぎ、フローリングの床へと歩を進める。

如月はすでにキッチンの方へ移動しているらしく、返事らしきものは聞こえてはこなかった。

フローリングを数歩歩きドアを開く。

眼前に広がるのはいつも通りの、アイボリーとモスグリーンで統一されたシンプルな部屋。


キッチンとダイニングが一緒になっているそこを横切り、シンクの前にたどり着くと、そこにはすでにエプロンを身につけ、冷凍庫から氷を取り出す如月の姿があった。


「いつもので、いいだろ、」


そう言うと如月は答えを待たずに、再び視線を手元に落とした。


「はい、ありがとうございます」


いつものように、キッチンダイニングから間続きになっているリビングへと移動し、備え付けてあるアイボリーのソファへ腰を下ろした。

それは表面を綿素材で覆われていて、座った瞬間に身体を優しく包み込んだ。

合皮のように硬質で、冷たい雰囲気など感じさせない。

そう考えると、自宅のソファも皮製でなく、こういった素材のものにすればよかったと思ってしまう。


「葉月、」


顔を上の方へ向けると、そこにはグラスを両手に持った如月の姿があった。

如月はチラッとソファの前のテーブルへと目配せすると、眉を下げて微笑を零した。


「テーブルの上、物どかしてくれないか、」


「あ、はい」


テーブルに改めて眼を向けると、そこはお菓子の箱や週刊誌、文庫本で溢れかえっていた。

こんなに一度に食べられるはずも、読めるはずもない。

正にエベレスト。

本をまとめ箱をどかしてスペースを空ける。

すると如月はそこへグラスを置き、葉月の横へと腰を下ろした。


カタン、硝子同士がぶつかり合う音は美しく、硬質で、透明で、乾いていて。

それが自分の想い人を連想させる。


「如月さん、何でこんなことになってるんですか、テーブル、」


俺は未だテーブルの大半を占領する侵略者へと人差し指を向けた。

如月は一瞬何のことか、という顔をしたが、意味を嚥下したと同時に苦笑し、侵略者達のなかから箱をひとつつまみ上げ此方に寄越してみせた。


「だって新商品だったんだ。気になるだろ、キットカットのティラミス味とモンブラン味なんて」


確かに手元の箱にはその通りの商品名が刻印されている。

しかし気にはなるが、特に食べたいという気は起きてはこなかった。


「そうですか、まあ貴方程の甘党なら仕方ないかもしれませんね」


「なんだよそれ、」


如月は超が付くほどの甘党だ。

コンビにでもスーパーでもパティスリーでも、新商品と聞くと必ず手を出す。

そう、必ず、だ。


「でもこれ…キムチ風味のチョコレートなんて、冒険しすぎじゃないですか、」


それは既に封が切られており、如月が口にしたのであろうことは容易に想像がついた。

そして、その時のリアクションさえも。


「ああ、それは確かにいただけなかったな」


如月が眉を顰める。

かなりいただけなかったらしい。


「それより、せっかく作ったんだから薄まる前に飲めよ、」


そう言って差し出されたのは、先程如月が手にしていたグラスの片方。

背の高いスリムなコリンズグラスには、氷と透明な中に気泡の舞う液体、そして眼にも美しい緑色が眼に映りこむ。


「はい、いただきます」


グラスを傾ける。

液体が口腔へと流れ込み、喉を駆け抜ける。

炭酸の刺激と僅かな苦味、そして突き抜けるような爽やかな香り。


「うん、美味しいです。如月さんの作るジントニック」


「誰が作ったって同じだろ。あ、当てはチーズかなんかでいいか、」


そう言って如月は席を立ち再びキッチンへと向かった。

離れてゆく背中を見つめると自然と頬の筋肉が緩む。


―当てなんて必要ないんですよ、貴方さえ居れば。


「まだ言わない・・・、言えないけどね」


「何か言ったか、」


「いえ、なんでもないです」


ジントニックを再び口に含む。

やはり炭酸と苦味が心地よい。

今の気持ちを洗い流すには十分な刺激だった。


「葉月、夕食はもう取ったのか、」


横に座る如月はチーズの外装に指をかけながら尋ねた。

如月の指は美しい。

白くて、細くて、長く、爪の形さえ常人離れしているような、まるで白樺を見ているような気さえ起こる。


「いえ、出かけてそのまま来たので…。如月さんは、」


白樺にはさまれた乳黄色の塊が、ゆっくりと口へと運ばれる。

薄い唇は僅かに色付き、それを口腔へ放り込む際に紅い舌がちらりと覗いた。


「俺もまだ、さっきまで仕事だったし。今日は早上がりだったんだけどな」


如月は腰を上げると緩く身体を伸ばした。

そうすることでしなやかな身体のラインが、嫌と言うほど、際立った。

如月は葉月を見下ろしながら首を傾いで、何がいい、と訪ねた。


「何でも構いませんよ、作ってもらってるんだし」


葉月の返答に微笑を漏らし、如月は再びキッチンへと向かった。

テーブルの上に依然積まれたままの雑誌に箱に本。

葉月はその中から1冊雑誌を抜き取り、ひざに乗せてそれを開く。


音楽情報誌だった。

音楽は好きだ、しかし雑誌を買うほどには好きなアーティストもいなければ曲もない。

オリコンのランキングだけを眼で追うと、早々とそれを閉じ、再びテーブルの隅へと積み上げた。


包丁が軽快に動く音が聞こえた。


次に葉月が手に取ったのは、1冊の文庫本。

記載されている著者は今売れている、今が旬の作家だった。

しかし葉月は疑問を感じずには入られなかった。


−如月さん、この作者確か好きじゃなかったよな…


以前にも同じ作者の本を如月は読んでいた。

横から葉月がその作者が好きなのかと尋ねると、如月は眉尻を下げ首を横に振った。

職業柄、仕方がないらしい。


ぐつぐつと沸騰する音がする。

醤油と砂糖の甘辛い香りも。


ジントニックを一口、口に含む。

ジンとトニックウォーターの苦味、ライムの爽やかさ、炭酸の爽快感。

昔から、と言っても成人を迎えてからだが、葉月はこの飲み物が堪らなく好きだった。

嫌な事さえ薄める苦味、それを洗い流してしまうような喉越し。

如何なる時も、事在るごとにジントニックを流し込んだ。


丁度グラスの中の液体がなくなり、氷が乾いた音をたてた頃、まだ如月が席を外してから10分も経っていないだろう、キッチンから葉月を呼ぶ声があがった。


「葉月、悪いけど手伝ってくれないか、」


返事を返しソファから腰を上げる。

先ほどの本は再びエベレストの一角へと戻っていた。

キッチンへ行くと、そこにはトレーに乗せられた料理が湯気をたて葉月を待っていた。


「それ、運んどいてくれ。俺も直ぐ行くから」


カウンター越しに微笑まれる。

心臓が、どくりと音をたてて、激しく揺れた。


「わかりました」


高鳴る胸を押さえつけて、平常を装いトレーを掴んだ。

トレーを持ち上げてからそれをテーブルに並べ如月を待つ間、心臓は依然として音をたてていた。

聞こえてしまっているのでは、と心配になってしまう程に。


「飲み物はどうする、食事だからお茶でいいか、」


肩が跳ね上がった。

心臓はこれでもか、と言うほど激しく膨らみ、それを吐き出した。

横を見上げると、そこには如月が不思議そうな面持ちで立ち尽くしていた。


「なにそんなに驚いてるんだ、」


漆黒の眼が見つめる。


「いえ、なんでもありません。お茶、いただきます。食後にもう1杯ジントニをお願いします」


「はいはい。あんま飲み過ぎるなよ、」


「わかってますって」


二人の目の前には、とても10分程で拵えたとは思えないほどの料理が並んでいた。

親子丼、白和え、三つ葉の浮く吸い物、香の物。

香りを嗅ぎ、視界に食べ物を入れると、今までは反応のなかった腹の虫がざわつきだした。


「如月さん、頂いていいですか、」


早く、と強請る様な視線を向ける。

如月の料理の腕を知っているからこそ、余計に早く口に運びたいのだ。

如月は苦笑する。


「お前はガキか。早く食えよ、」


「はい、頂きます」


両手を合わせてから箸を取る。

丼を手に取ると、とろとろの卵が広がるご飯を箸に取り、口へと運んだ。


「美味しいです、如月さん。今日も相変わらず」


如月の方を振り返ると、彼は吸い物の碗に口を付けていた。

初めに汁物から取る辺りが如月らしい。

真面目で、律儀で。

碗から口を外した如月が葉月を振り返る。


「そうか、よかった」


少しはにかみながら微笑んだ。

そういう表情を見せるようになったのはつい最近のことだ。

だから、堪らなく嬉しいのと同時に、心臓が酷く大きな音をたてる。


ただそこにいてくれるだけで、一緒にいられるだけで幸せなはずなのに。


−俺は、それ以上を望んでいる。


罪悪感が葉月の胸に巣くい、広がっていく。

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