プロローグ(2)
「ここはどこですか? 俺、アパートでやけ酒飲んでたはずなんですが」
目覚めたら病院みたいな施設に放り込まれていた。
大病院のお高い個室ベッドみたいなとこに寝かされている。
知らない天井。リノリウムの床。
青年は困惑の表情を浮かべ、目の前の少女に話しかけた。
気分は最悪。体調も最悪。吐き気。頭痛。
記憶はない。テレビで学会の発表を目にしてからの記憶がない。
ついでに言えば希望もない。VRMMOは不可能。希望はない。
絶対の不幸。
唯一の慰めは、自分の目覚めを傍らで待っていたらしい少女が、やたら好みの外見をしていることだ。
空色のストレート、童顔、幼児体型。くりくりとした瞳。小動物の仕草。
2次元から飛び出してきたような少女だ。
こんな子と結婚できるのであれば、まあ、あと十年くらいは生きてやってもいい。
「あの、提案があるのですが」
衝動のままに、青年は身を起こした。
少女は驚きとともに青年の発言を迎える。
「は、はい……なんでしょうかっ?」
「結婚を。さもなくば死を」
少女は慈悲と哀れみのこもった瞳で、青年を射抜いた。
「まだ寝ていても大丈夫ですよぉ? お水とか要りますぅ?」
「キミが口移しで水を飲ませてくれれば、俺、いま自分が置かれてる状況とか一切気にしないし、キミの言いなりになるし、死ねと言われれば死ぬけど?」
返答に詰まる少女。
会心の提案に、満足する青年。
2人の間のズレた沈黙を両断したのは、病室への新たな闖入者だった。
「ナルミくん。彼がそう言ってるんだ、マウス・トゥ・マウス、口移ししてやりたまえ。願ったり叶ったり、ウィンウィン、エヴリワンがハッピーな提案じゃないか!」
「東野博士、おはようございますぅ!」
禿頭。白衣。長身だが骸骨とタメをはる痩せ型。
濁った色のまんまるメガネがトレードマーク。
違法地下研究者、東野博士が、ご機嫌な様子で病室のドアを開けた。
手には水のたたえられたコップ。
「ナルミくん! オープン・ユア・マウス! 口を開けたまえ!」
「ひゃ……ひゃい!?」
ガバッと少女――ナルミに覆いかぶさり、東野博士はコップの水を彼女の小さな口に容赦なくそそぎ込んだ。
ナルミは目を白黒させて困惑している。
「マーウス・トゥ・マウス! アン・ドゥ・トロア!」
やたらハイテンションなかけ声とともに、東野博士はコップを病室の窓から投げ捨てると、ナルミと青年の2人をぐいと抱き寄せた。
「のわっ!?」
「んんんん!?」
そしてグワシッと2人の後頭部をわしづかみにし、
「キス! ヒズ! リップス! ナ~ウ!」
強引に2人の唇と唇を叩き合わせた。
なんという筋力。
なんという力任せのキューピッド。
かくして青年とナルミのファーストキスは、はたされた。
ナルミは抵抗するすべもなく、空色の乱れ髪を押さえながら、目に涙を浮かべる。
ファーストキス、奪われた。
はじめてはVRMMO最強の男の子がいいって、決めてたのに。
……あれ、でもこの人、「プレイヤー」候補なんだっけ。
じゃあもしかしたら、理想の人だった可能性もある。
それはこれから判明すること。
今私がするべきは……
口移しで彼に水を飲ませて、「言いなり」になってもらうこと。
そうすれば手短に、文句一つ言わせず、《ケルゲテューナ大陸》へと案内することができるだろう。博士もそれをお望みだ。
「…………んゅ、ゅ、ふうぅんっ、あむぅ……!」
「!?!?!?!?!?!?」
青年の唇を舌でこじ開け、唾液とまじった水を彼の口腔内に流し込む。
青年は驚愕のあまり身をこわばらせたが、すぐ鼻息を荒げはじめた。
「んにゅぅ、ふぅむ、んんっ、んっ……」
「!!!!!!!!!!!!」
注水完了。
唇を離す。
とろーっと、お互いの唾液が糸を引いた。
見つめ合う。
気まずい沈黙。
再びそれをぶち破ったのは、東野博士の有無をいわさぬ行動。
「グッジョブ! じゃあこれでキミはナルミくんの『言いなり』だね。スレイヴだね。男なのだから発言には責任を持ちたまえよ。口移ししてもらったのだから、キミはナルミくんの言うことになんでも従うこと。死ねと言われたら死ぬこと。ところでナルミくんはワシの助手でありワシの奴隷であるから、ワシの命令はナルミくんの命令に等しい。ワシが死ねと言ったらちゃんとダーイ?」
まくし立てながら、東野博士は壁の収納スペースからごっつい諸々の医療器具を取り出し、青年にとりつけていく。
栄養チューブやら酸素マスクやら、やたらメカメカしい目隠しやあれやこれや。
「ちょっ、えっ、ええっ? だ、だめですぅ!」
ナルミが手で目を隠しながら、慌てて青年に背を向けた。
というのも博士が容赦なく彼のズボンとパンツを脱がし、尿管に痛々しい管を取り付けなどしはじめたからだ。
博士は手をてきぱきと動かしながら、興味深そうに青年の顔をのぞき込む。
「キミ、どうした? ずいぶんおとなしいじゃないか。ワシが自分で言うのもなんだが、キミ、今、だいぶヤバイ状況にあると思うが」
青年は泌尿器をいじくりまわされながら、胸を張って誇らしく回答した。
「こんな可愛い女の子の口移しで水を飲ませてもらったんだ。満足だ。男に二言はない。状況がまったく理解できないけど、とりあえず好きにしてくれ。この世に未練もないし」
「なるほど。死ぬ覚悟ができているのだな。ナイスガイ!」
「うん、でもやっぱりいちおう、俺になにをとりつけやがっているのか、聞いていいかい、博士とやら。なぜそんなぶっとい管を、俺の体の穴という穴に差し込むんだ? てかここはどこなんだ? あんたたち、何者?」
博士はにやりと、陰惨な笑みを浮かべた。
「われわれは欺瞞に満ちた国際VR技術学会の敵、『VR技術解放委員会』」
「VR技術……解放委員会?」
「もはやキミに拒否権はない。キミがなんと言おうと、今からわれわれはキミを世界最大のVRMMO、《ケルゲテューナ大陸》にログインさせる。スパゲッティみたいなこのチューブ類は、キミの生命維持装置だ。この施設は関東某所の山奥にあり、あらゆる災害、はては核攻撃にさえ耐えることのできる頑丈さを誇るラボ」
博士は言葉を切り、おばけカボチャもかくやという巨大な黒いヘルメットを青年にかぶせた。はたから見れば、ヘルメットが大口を開けて青年の頭を飲み込んだ、といったようにも映る。
青年の視界はブラックアウトした。
博士の声のみが、どこか遠くのほうから聞こえてくる。
「詳しいことはログイン後、チャットで説明する。われわれに残された時間は少ない」
「えええっ。でもVR技術って実現不可能なんじゃなかったのか……?」
「今はなにも訊くな」
「はあ……」
「ところでキミの名は?」
「もこみち」
「Ah, me! 贅沢な名だ。ダメだ。VR界におけるキミの名をワシが決めてやろう。うむ……そうだな……解放者の意を込めて……」
「――カイ、なんてどうだ?」
「……平凡だ、でもいかにもハンドルネームっぽいところがポイント高い」
青年の眼前に、青白い文字が浮かび上がった。
――――KAI!!!!!!!!!!!!!
――――Welcome to our UNDERGROUND!!!!!!!!!!
――――Welcome to QUELGETUNA CONTINENT!!!!!!!!!!!!
次の瞬間、青年――カイは、
人類の求めて止まなかった新天地、
人の手が創造した新たなフロンティア、
電子の新宇宙、
至高の娯楽、
VRMMOの世界に降り立った。