プロローグ(1)
「VRMMOは技術的に実現不可能である」
2017年。国際VR技術学会がジュネーヴで下した衝撃的結論。
ゲーマーの長年の夢、VRMMOが人間の手によって実現することは、ない。
*
「バカなことを言うな……バカなことを」
東京都葛飾区の某アパート。三畳一間。
青年はテレビに向かい、ブツブツと得体の知れない独り言をつぶやく。
「VRMMOがムリ? はあ? 学者はこれだからダメなんだ……」
ぷしゅっ、と軽快な音を発するのは、発泡酒の缶。
青年は本日10缶目の発泡酒をぐいぐいと一気飲みする。
「やけ酒だ。くそったれ。ゴミどもが……ゴミめが」
あっという間に飲み干してしまった。
青年は空き缶をいまいましげに見つめ、冬なのに開けっ放しの窓へと放り投げた。
2秒ののち、カコン、と缶がアスファルトに当たる快音が鳴り響く。
2階からのダイナミックなポイ捨てである。
刹那、自然がポイ捨てに抗議するかのように、突風を吹きつけてくる。
ひゅぅっ、と室内に吹きすさぶ、身を切るような寒風。
青年は突如号泣しはじめた。
みっともない嗚咽を繰り返しながら、誰に言うでもなくぼやく。
「俺はVRMMOに人生のすべてを賭けるつもりでいたんだ…………そうだ。そうだ。俺の人生はクソだった。ゴミだった。空き缶だった。2階からポイ捨てされるような人生だった。惰性で20年間を過ごしちまった。彼女もない。学力もない。腕力もない。友達もない。金もない。家賃は3ヶ月滞納。SNSで出会った女に騙されて12万の返すあてのない借金。……VRMMOだけが逆転の目だった」
青年の視線は、ゆっくりと粗末な小さい本棚にむけられる。
本棚にはたった1冊だけ、ぼろぼろになった文庫が横倒しに置かれていた。
それは数年前に流行した、VRMMOで人生を逆転させた少年の物語。
仮想の剣と仮想の魔法で、愛する少女と世界を救った、荒唐無稽の物語。
「俺は…………仮想ファンタジー世界ならなんとかなるはずだったんだ。こんな俺にも取り柄がひとつだけある。ひとつだけ。それはゲームが巧いってことだ。天才ってわけじゃない。ただ人生における累計プレイ時間は1万時間を軽く超えてる。1万時間の法則にのっとって考えれば、俺はゲームのプロとしてやっていける腕前なんだ。だからVRMMOさえ実現すれば……クソ! 俺だって、漆黒の剣士ヒロトくんみたいになれたんだ……」
うつむく。沈黙。
そして、
「アアアアアアアアアアアアアアアアン! アアアアアアアアン!」
常軌を逸した絶叫。
ほとんど狂気といってもいい。
衝動の導くままに未開封の酒をつかむと、青年はそれを窓の外へぽいぽい放り投げる。 彼はもうなにもかもがめちゃくちゃになればいいと考えていた。
警察に通報されればいい。逮捕されちまえばいい。すべてがひっくりかえればいい。
彼の人生は失敗続きだった。
勉強はダメ。スポーツはダメ。受験はダメ。就職もダメ。
それでも彼が今日まで生きてこられたのは、VRMMOで活躍する夢想を常に抱いていたからだった。思春期を迎えてからというもの、彼はVRMMOで人生を逆転に導いた物語に励まされ続けていた。
今日、その夢想は哀れにも崩れ去った。
「VRMMOは技術的に実現不可能である」
ほかでもない、VR技術の最先端を研究してきた世界中の学者たちが下した、権威ある結論である。
彼は自らにも結論を下した。
「俺の人生は終わった」と。
*
「いたっ。……いたいですぅっ!」
歩いていたら突然缶ビールが落ちてきた。頭に当たった。
……よく見るとこれ、缶ビールじゃなくて発泡酒だ。いや、それはどうでもいい。
痛い。ひどい。どうしてこんな目に。
夏の快晴を封じ込めたような空色の艶髪は、腰まで伸びるストレート。
小学生にも見紛うほどの童顔。幼稚園児にも等しいロリボイス。
赤ちゃん顔負けのもちもちぷるぷる肌。
小動物を思わせる華奢な体躯。貧相な胸部。
常に前傾気味の姿勢で、おどおどと周囲を気にかける気弱そうな様子。
だいたいそのような特徴をもつ少女は、これっぽっちも似合わないリクルートスーツのほこりをぱんぱんと払うと、今しがた頭にできたたんこぶを、そうっとさすった。
「いたいです……」
こんな苦痛を与えたもうたのは、いったいどのおん神かしら?
缶ビールを降らすなんて珍しい。雷撃なら分かるけれども。
あ、ビールじゃなくて発泡酒か。いや、それはいいんだった。
とにかく少女は缶の出自を探るべく、顔を空に向けた。
空は赤らみ、不吉な夕暮れを迎えようとしている。
その時だった。
「キエエエエエエエエエ! エエエエエエエエエ!」
「!?」
開け放たれたアパートの窓から追撃、さらなる発泡酒が降ってきた。
奇声とともに。
「きゃーっ! 当たったらいたいですぅ! いたいのもうヤですぅ!」
とっさに少女は身を伏せる。
がこん、がこんと背中にぶつかる缶。
痛みのために歪む童顔。
怒りに全身が震える。どうして私がこんな目に。
どうしてかって? 分かり切ったことだ。
――それもこれも、
「真の」VRMMO《ケルゲテューナ大陸》のプレイヤーを捜すなんていう、厄介なミッションを任せられてしまったからだ。
悪いのはこの仕事だ。
私は悪くない。バチのあたるような涜神行為をした覚えはない。
「東野博士っ、絶対に許さないですぅ!」
そもそも、だ。
こうして夕方の東京を練り歩いたところで、そんなに運良く「プレイヤー」が見つかるだろうか? ないない。ありえない。
《ケルゲテューナ大陸》の大地を踏めるのは、VRMMOへの心理的抵抗感がゼロであり、かつゲーマーとして必須の要素、瞬発力、判断力、集中力、ユーモア……等の才を満たした者のみだ。
まず「VRMMOへの心理的抵抗感がゼロ」というところを誰もクリアできない。
VRMMOはまだ誕生してすらいない技術だ。
「表の学会」では、「実現不可能」ということにしてさえいる。
ところで人間は未知のものに恐怖を抱く動物である。
ということは、必然的に、現代においては誰しもVRMMOに若干の不安を覚える。
それではいけないのだ。
一抹の怖気さえ、《ケルゲテューナ大陸》では時に致命的な弱点になる。
「東野博士が求める人材なんて、いませんよっ、どこにもっ!」
《ケルゲテューナ大陸》の「発見者」、東野博士が求めているのは、
未知のゲームであるVRMMOに人生を賭けていて、
未知のゲームであるVRMMOを全身全霊で愛していて、
未知のゲームであるVRMMOなしでは生きていられない、
未知のゲームであるVRMMOプレイの各種能力を兼ね備えた人間、つまり、
とんでもない妄想家にして、ゲーム廃人である。
「そんな人、いないないですぅ……」
ため息。
一拍置いて。
頭上から声がした。
「VRMMOがない世界なんて俺は! 俺は! 死ぬぞ! 死んでやるううう!」
「…………」
少女は缶の射出源である、窓の開いたアパートの一室を見上げる。
「VRMMO! 俺の人生! 俺の愛! 俺の才能を発揮する場! おお!」
「…………?」
少女はかわいらしく首をかしげた。
「VRMMOこそ俺の光り輝くステージだったはずなんだああああああああ!」
「…………このオーラ」
少女はぺったんこの胸に手を当てて、全身の感覚を研ぎ澄ます。
「ええっ。ま、間違いありません。驚き。東野博士の探していた人材は……ここに」
生気に満ちた瞳をるんるんと輝かせながら、少女はアパートの階段を駆け上がった。
缶直撃の痛みなど、忘れたかのように。
*
「お邪魔しますぅ。プレイヤーのスカウトに来ましたぁ」
ツンと香るアルコール。
少女は畳に倒れ込む青年を見つけた。
彼こそ、探していた貴重な人材。
青年は極度の泥酔のため、来訪者に臆することもなく話しかけた。
「……あなたは天使か?」
「天使です。はい。ある意味間違いないですよぉ!」
三畳一間の男の部屋に上がり込み、住人の酔っぱらい青年を見下ろす少女。
青年は畳に仰向けに寝そべって、蛍光灯に悪態をついていた。
「まぶしいんだよチクショウ。ここは天国か?」
「天国ですよぉ! だから天使の私についてくるのですぅ!」
少女は考えた。
酔っぱらいをまともに相手していたら、経験上きりがないことは分かり切っている。
だとしたらここは、いったん嘘をついてでも研究所に誘拐してしまおう、と。
「なあ天使の女の子」
「はいっ、なんですか?」
「パンツ見えてるよ。可愛いな。水玉ピンク。綿」
「!?」
少女はスカートを押さえ、飛び退さった。
勢い余って本棚にぶつかり、すっころんだ。
開脚しながら尻餅をつく。パンツはいよいよ丸見えになった。
「天使の女の子、誘ってんのか? デヘヘ」
「うぅ…………っ」
少女は考えた。
酔っぱらいをまともに相手していたら、経験上きりがないことはよく知っている。
だとしたらここは、「実力を行使してでも」研究所に誘拐してしまおう。
そうするしかない。そうしよう。神よお許しください。
「乙女の羞恥を……煽った罰ですううううぅ!」
ハイトーンの叫びとともに、少女は懐からスタンガンを取り出し、青年に押し当てた。
「あばッ!」
「……ごめんなさいっ」
平謝りしつつ、少女はどこかへ電話をかける。
えらく興奮した様子だ。
「……あ、もしもし? 東野博士? やりましたですぅ! ついに――」