4話
車の通りもなく、波の音と、潮の匂いがする涼風だけが僕たちを包み込んでいた。
歩道がなくなり、ついにガードレールもなくなる場所に着いた。稀にここでも路上駐車をして海で何かをしている人たちを見かけることがある。
「ねえ、神社には何時くらいに着くの?」
レニーニャがいきなり僕に話しかけてくる。
「道を間違えたりしなければ、正午には着くよ。でも、自転車で行くのは僕も初めてだから、もっと時間がかかると思う」
地図アプリの計算によれば、徒歩4時間になっているので、間違えてはいない。
「そっか。すごい時間かかるんだね」
今さらになって当たり前なことを言う。もしかして、もう疲れたのだろうか。
だが、無理もない。ここは地球だ。レニーニャの生まれ育ったイニジードではない。
「もしかして、体調悪い? 無理しないで?」
「ん? 平気だよ。むしろエネルギーになるものがあるって分かっているから、落ち込む理由なんてないよ」
レニーニャはピンピンしている。元気なら良いのだが……。
その後、5分程ペダルを回し続けると、歩道がまた出てきた。はっきりとは覚えていないが、ここから先は歩道続きだったはずだ。
彼女はずっと僕の服を掴んでいる。彼女との唯一の繋がりが、今はこれだけだ。
「ねえ、この辺りって、田んぼしかないの?」
見渡す限りの田んぼだけが広がる風景を見て彼女は質問してくる。
「うん。しばらくは田んぼと木と海、たまに民家が見えるくらいだよ。もしかして不満?」
僕からも少し意地悪っぽく質問してみる。
「不満じゃないよ。こんな光景初めて見たんだもん。地球って本当に面白い星だと思うよ」
驚くことに、地球人の僕からするとこの光景は退屈で、つまらない風景にしか見えないがレニーニャは面白い光景として認識しているらしい。きっとレニーニャのいるイニジードは最先端技術で溢れていてこのような光景はないのだろうか。
「それって、レニーニャの星と比べて遅れているってこと?」
「そんなところだね。私の住んでいた地域ではこんな光景、絶対に見られない」
否定されなかったところを見ると、僕の考えは間違えていないのだろう。
さらにペダルを漕ぎ続けると、この辺にしては非常に珍しい信号が見えてくる。すぐ傍に自動販売機もあるが、祖母が凍らせたお茶があるので今は必要ない。
「ここから少し急な坂があるから、しっかりと掴まっていてね」
そう言うと、レニーニャは僕のシャツをさっきより力を込めて握ってきたのが分かった。
自転車は徐々に加速していく。僕とレニーニャと2人分が乗っているので自転車の速度もすぐに早くなる。
先程からペダルを漕ぎっ放しだったので、ペダルからそっと足を離すと少しだけ足が楽になる。風も気持ち良い。
「レニーニャ、大丈夫? 風、気持ち良い?」
後ろに座っている彼女に聞いてみても、反応がない。風で聞こえないのだろうか。坂道を下り終えても、自転車のスピードは中々落ちなかった。
朝日で影になっている前輪が、ものすごい速さで回転しているのが見える。どれほどのスピードで僕たちも進行しているのだろうか。
やがて、徐々にスピードも落ちてきたので、ペダルに思い切り力を込めて走り出す。
スピードも落ちついてきた頃、もう一度、レニーニャにどうだったのか質問してみた。
「どうだった? 早かった?」
彼女は僕のシャツを強く握っていたが、少し緩めて、僕に話し始めた。
「……早かった」
宇宙旅行している者からしても早く感じるとは、相当スピードが出ていたのだろうか。
「さっき坂道を下っているときに風が気持ち良いか聞いたの、聞こえた?」
「聞こえたけど、風が強かったから、目を閉じていたの。それに……別にレイゼイの運転に不服を感じているわけじゃないのだけど、ちょっと怖かった……かな?」
質問は聞こえていたらしい。だが、怖かったと直々に言われると、罪悪感を覚える。
「ごめん。次、またさっきみたいな急な坂道があったら、一度自転車を止めるよ」
「もう、大丈夫だから……」
彼女はそう言うが、やはり不安をあまり煽りたくない。
「それじゃあ、さっきみたいに宣告はするよ」
「そ、そうして……」
反応から察するに、やはり不安だったらしい。
その後も、田んぼで囲まれた道をひたすら漕いでいると、後ろにいる彼女が話しかけてくる。
「……先に言っておくよ。今から私のする質問はレイゼイを傷つけるかもしれない。だから、言いたくないなら言わないで」
妙に真剣な声色で言う。出会ってからふざけているところなど見てはいないが、初めて会ったときと声色が近い。
「レイゼイの家に帰りたくない理由を、もう少し詳しく教えてほしいんだ」
家に帰りたくない理由なんて聞いてどうするのだろうか。その前に、僕はレニーニャに家に帰りたくないと話しただろうか?
「どうしてこんなこと聞くのかって思っていそうだけど、どうしても気になるんだ。私は今、イニジードに帰りたくてこうやってレイゼイに頼んでいるのに、レイゼイは家に帰りたくないと言ってここに残った。考えられないんだ。理解不能なんだ。不思議で仕方がないんだ。自分の生まれ育った場所へ戻りたくない理由が、私にはどうしても分からないんだ」
ここまで思われると、僕も話さざるを得ない。
出会ってから1日も経っていないのに、家庭の事情や私情を話すのも抵抗があったが僕は後ろにいる彼女に全てを話すことにした。
「……僕は、家に帰りたくないわけじゃないんだ。……家に、居場所がないんだ。家にいても知らない人が居間にいて落ち着かないし、学校へ行っても決まらない進路相談で、ただただ下を向いて生返事をして1日が終わる。何をやりたいのかも分からない、どうして生きているのかも分からない。いっそ、このまま僕なんていなくなっても良いんじゃないのかって思うときだってある。本当は家で思い切り休みたいし、進学先だって本当は行きたい場所がある。だけど、家で思い切り休むためには勇気がいる。進学先を親や先生に言うのも勇気がいる。進学先に限ってはお金もかかる。だから僕は、結局逃げることしかできないんだ。ここにいるって言うことは、つまり逃げているようなものなんだ」
出会って20時間しか経っていない子に、僕は赤裸々に本心を暴露した。
同じ人間ではなく宇宙人だから、何でも話せたのかもしれない。
「レイゼイの気持ち、分かったよ。その話の答え、教えてあげようか?」
藁にも縋る思いだったが、あくまで僕は冷静を装って彼女に答えを聞く。
「自分で言っていたの、気付いていないの? 勇気を出して、全部話せば良いだけじゃない。知らない人には出ていけって言えば良い、先生や親にも行きたい進学先を言えば良い。全部レイゼイが勇気を出して言えば解決することばかりじゃない。そんなに悩まなくたって良いことばかりで悩んで、家にすら帰りたくなくなるなんて、ニンゲンは本当に面白い生き物だね」
全てレニーニャの言う通りだ。僕が勇気を出せば良いだけの話だ。しかし、僕が勇気を出して全てを話したところで全てが解決するほど世界は優しくない。
「君の言う通りだよ。でも、僕が勇気を出して言ったところで何かが変わるわけじゃない。知らない人にそんなこと言っても、悪者になるのは僕だ」
「やってもないのに決めつけるの?」
彼女の言葉に何も言い返せない。
「一度、勇気を出して言ってみなよ。きっと分かってもらえるよ。異星人の私でも分かりあえているのだから、同じニンゲン同士なら、尚更分かりあえる」
少しだけ、言ってみようと思えたが、いざ本人を前にするときっと言えないだろう。
「どうしても言えないなら、もう諦めた方が良いよ。自分の望まない道を進んでいくだけだから」
レニーニャの声は風の音が大きくて、聞こえるか聞こえないくらいの声になっていたが、僕は、ちゃんと聞こえていた。
「一応、言ってみるだけ言ってみるよ。何言われるかは想像出来るけど、やってみないと、分からないもんね」
「そうそう。何でもやってみないと。ところで、レイゼイから私に聞きたいことはない?」
彼女に聞きたいことはたくさんある。
だが、聞きたいことが多すぎて何も思いつかない。
「今は何も思いつかないかな。ふっとした瞬間に思いつくかもしれないから、また言うよ」
そう言うと、レニーニャは肯定の返事をする。
この先もずっと田んぼ道だ。海も遠くに見えるだけで、先ほどのように波の音など一切聞こえない。もちろん、車の通りも今のところは全くない。
「疲れてない? お尻とか大丈夫?」
僕がそう尋ねると、レニーニャは大丈夫と言い、またしばらく無言が続く。
そう言えばレニーニャは、イニジードではどう言う地位だったんだろうか。僕のような一般的な庶民なのか、それとも、イニジードではお姫様のようなものだったのだろうか。
「ねえ、質問思い出したよ。言っても良い?」
海の方に体を向けて、見えるか見えないかも分からない海をジッと見ている彼女に質問する。
「レニーニャって、イニジードでは一体どういう地位だったの? お姫様とか?」
そう言うと、彼女は笑いながら答えてくれた。
「そ、そんなわけないじゃない! お姫様って、レイゼイは面白い冗談を言うんだね。私はイニジードではただの一般庶民だよ。どこにでもいるただの庶民。もし、お姫様……じゃないけど、イニジードの、私のいた国のトップがいなくなったら、今頃大騒ぎだよ。私みたいなただの庶民がいなくなったところで、地方のローカルニュースに乗るかどうかも分からないよ。宇宙旅行をしてどこかの星に不時着することなんて、珍しいことじゃないからね」
やけに饒舌になる。この調子でもっとイニジードについて聞いてみようか。
「イニジードってさ、どんな星なの? 地球に似ているって言うのは分かっているけど」
「簡単に言えば、ほぼこの地球。レイゼイたちの言葉を使えば地球型惑星ってやつだね。文明はもちろんイニジードの方が進んでいるけどね。宇宙旅行も出来ない星なんて、滅多にないよ」
そう言った後、思い出したかのように彼女は言う。
「そうそう、地球ってどんな星なのか教えてよ。昨日結局教えてくれなかったじゃない」
墓穴だった。僕がイニジードのことを聞くつもりがレニーニャが地球のことを聞いている。地球はどんな星かと言われても。
「地球は陸があって、海があって、空気があるよ。海の面積は地球の7割、残り3割は陸だよ。その3割の中に、僕たちは暮らしているんだ」
中学生、いや、小学生で習うようなことを彼女に教えるしか方法はない。地理はそこまで僕は得意ではない。
だが、いきなり難しいことを言うべきではないだろう。
「宇宙から見た地球は青いよ! 私が見ていた分では、5割近くは見えていたかな」
「きっと、太平洋が見えていたんだ。地球一広い海だよ」
「どういうこと? 海は繋がっているんじゃないの?」
鋭いところを突いてくる。
「地球には、海の名称がたくさんあるんだ。レニーニャの船が不時着した海は日本海、反対側にあるのがさっき言った太平洋。他にも大西洋、インド洋とあるよ」
「一括りに海じゃなくて、それぞれに名前を付けちゃうなんて。やっぱりニンゲンは面白い生き物だね」
その後も、地球のことを話そうと思ったが、あまりにも地球のことを知らなさすぎたため、この話はやめにした。
「まず、地球のことを知りたいってことが大雑把すぎるんだよ。地球の何を知りたいのか具体的に言ってくれって、あの時も言わなかった?」
「何でも良いから知りたいの!」
大雑把すぎて、ため息しか出ない。
「何かあるだろ、例えば文化とか、言語とか」
しかし、そう言ったところで地球にはたくさんの文化や言語がある。説明するとしても、日本に住んでいる僕は、日本のことしか話せない。
「一応言っておくけど、僕は地球の中にある日本と言う国に住んでいるから、他国の文化も言語も分からないからね。だから、説明するとしても全て日本のことしか話せないから」
「構わないよ。もっと日本のこと、教えて」
日本史は得意教科だが、いざ海外の人、いや、この場合は地球外生命人に日本のことを教えてと言われても、パッと何も思いつかない。
「ねー、何でも良いよ。教えてよ日本のこと」
「島国……かな」
頭がこんがらがって、それくらいしか言えなかった。
これ以上この話が続くと、いかに僕が無知なのかを彼女にも、自分自身でも分かってしまうので話を逸らさなければ。
「そうだ、そろそろ少し休憩しよう。実は、この近くに良い海辺があるんだ」
先ほどまであんなに地球や日本の話に興味を持っていたレニーニャは、海辺と言う単語を聞いて、はしゃいでいた。
「どんな海辺なの? すごく楽しみ!」
人は誰もいないし、砂浜も綺麗だし、海水も透き通っていてすごく綺麗な海辺だ。
年に一度、来るか来ないかくらいの場所だから、僕自身も内心、はしゃいでいる。
「一度、この道路から外れて海の近くへ行かなくちゃいけないんだ。当たり前だけど」
目印である看板が見えてきたので、県道から誰もいない道へ自転車の方向を変える。
「ここから少し坂道になるから、しっかり捕まっていてね!」
そう言うと同時に、緩やかな坂道になる。
自転車のペダルから足を浮かし、宙ぶらりんにする。足が少し楽になる。
「さっきの坂よりマシでしょ?」
「うん、そよ風が気持ち良いよ」
レニーニャの言う通り、風が気持ちいい。海も近いので少しヒンヤリしている。
5分もかからないうちに坂道をくだると、波の音が聞こえてきた。
防波堤の奥は、砂浜だ。道路の近くには、風で運ばれたであろう砂が散乱している。
「ほら、ここだよ」
自転車を止めて、彼女が後ろから降りたのを確認して、僕も約1時間半ぶりに地面の上に立つ。自転車に乗り続けていたので、足が少しだけフラフラする。
「すごい……海だ」
当然のことを言っている。
「ほら、あの島みたいところ見えるでしょ? あそこに小さな神社があるんだ。お祈りしていこう」
フラつく足を上手く動かし、僕たちは砂浜を通って島へ向かった。この神社は地域の国定公園特別地域に指定されているらしい。そして、海に囲まれている割には周りには木が生い茂っている。この木たちは、海水で育っているのだろうか。
鳥居の横を通るが、レニーニャが堂々と鳥居の中央を歩こうとしているので、僕が呼び止める。
「レニーニャ、鳥居の中央は神様の通り道なんだ。妨げちゃいけないから、僕たちは隅を歩くのが礼儀なんだ」
「そう、私はそう言う情報を聞きたかったの! もっとそう言う情報を教えて!」
レニーニャは鳥居の前で目を輝かせながら言ってくるが、僕はあまりそう言う情報は詳しくない。完全に受け売りの知識だ。
社の前で、僕たちは手を合わせた。
「手を合わせてお祈りするの?」
「お参りだから、挨拶くらいで良いと思うよ。お祈りは気多大社でしよう」
僕とレニーニャは手を合わせ、目を閉じながら心の中で挨拶をした。その後、神社の近くにある岩場が見える場所で昼食をとることにした。
リュックの中から出したのは銀色のアルミホイルで包まれている祖母が握ってくれたおにぎりだ。凍らせたお茶に冷やされていたおかげで腐臭はしない。
「銀色になっているけど、そのまま食べるの?」
「これを剥がせば良いよ」
僕がアルミホイルを剥がし、中からおにぎりが出てきて、レニーニャは手を拭きながら歓喜の声を上げている。
「すごい! おにぎりが銀色になっていたのかと思った! いたただきまーす!」
レニーニャは美味しいと言いながらおにぎりを頬張り、溶解したお茶を飲みながら地球に来て良かったと言っている。
僕もお茶を飲み、おにぎりを齧る。身体を思い切り動かした後なので、両方とも非常に美味しかった。もちろん、祖母の作るご飯は美味しい。運動後はそれ以上に美味しく感じることが出来た。空腹は最高のスパイスと聞いたことがあるが、まさにその通りだ。
おにぎりを食べ終わった後もしばらく僕たちは海から来る冷ややかな潮風を浴びていた。
「良い眺めだね」
「ああ。この辺は過疎化も進んでいて、人も来ないんだ。だから僕はここを穴場の海水浴場だと思っているよ。水も透き通っていて綺麗だからね」
僕の住んでいる地域にも海はあるが、決して綺麗とは言えない。良い言い方をすれば、エメラルドグリーンに輝く海だが、悪い言い方をすればただ緑色に濁っているだけの海だ。僕はそんな海にはあまり行かない。汚いと言うのもあるが、ガラの悪い連中がたくさんいる海には行く気がなく、行くだけ無駄としか思えなかった。だが、ここは別だ。実家から遠いので行かないだけで、ここに来るとなるべく足だけでも漬けて帰っている。
海の潮風を感じていると、そのようなことは少しの間忘れることが出来た。
「ところで、後ろは何なの?」
振り向くと、後ろには船が指で数える程度浮いていた。港だろうか。
だが、港にしては小さすぎる気もする。
「多分、港だよ。昨日見た港に比べるとかなり小さいけど、さっきも言ったように、この辺りは過疎化が進んでいるから、きっと自給自足なんだろうね」
レニーニャは生返事をする。しばらく会話がなかった。僕はひたすらに向こうに見えている陸地を見ていた。当たり前だが、何か見えるわけではない。
少し強い風が吹いたので、これを機会に僕は立ち上がった。
「日も昇ってきたから、そろそろ行こう」
「うん!」
僕たちは海に背を向けて自転車を置いた場所へと歩き出す。もう一度後ろを振り向くが、もちろん景色は何も変わっていなかった。
つづく