前夜
食べるという行為は生きるという行為と同義だ。
食べなければ生きられない。生きるためには食べねばならない。
一食も口にせず生きることはできるのだろうか。生まれてから死ぬまで、水すら飲まず、ただの一度も?
そんなことできようもない。
イキモノは常に何か食べ、飲み、消化、排出し、生きているのである。
シシアという少女が村にやってきたのは、ちょうど荒神祭の開かれる前夜のことだった。
荒神祭は”荒くれの森”に隣接する村にとっては重要なお祭りで、この地方ではそれなりに有名だからそれなりに人が集まる。
シシアは数多い旅人の一人であったが、それでも前夜にやって来るというのは珍しかったこともあり、そして何よりその容姿から周りの人目を引いた。
真っ先にシシアを見つけたのはナルタカだった。魔物に両親を殺され孤児となった彼は、村の大通りから外れた場所にある小さな宿屋で働いている。齢わずか10歳だが、その客引きの腕たるや大したものだ。シシアが村に来た時も、入り口で張っていたのである。
「ねえ、お姉さん」
ナルタカは人懐っこい笑顔で、無表情な少女へ声をかけた。
少女の年は15歳ほどに見えたが、顔の右半分を鋼鉄の仮面で覆っているため詳しいところはわからない。けれどその鮮やかな長い金髪は松明のあかりに照らされて嫌でも目立った。そして、きれいに澄んだ碧眼も。
「旅の人だよね? まさか野宿はしないでしょ。おいら、良い宿知ってるんだ」
「シシア・ゲラン」
少女はナルタカを一瞥した。
「お姉さんはやめて」
「おいらはナルタカ。じゃあ、シシア」
表情の割に優しい声と、名乗ってもらえたことにナルタカは気を良くしてひときわ人通りの多い大通りを指した。
「あの通りの先なんだけどさ、おいらの働いてる宿があるんだ。もう他の宿はどこもいっぱいで、入れてもボロ部屋だぜ。なんたって、明日が荒神祭の本番だからね。でも、うちの宿はまだ二部屋あいてんだ。ベッドに湯あみのできる広さもある。どうだい?」
「いくら」
「まけとくよ!」
ナルタカはとびっきりの笑顔を作った。
シシアは妙に目立っていた。その金髪のせいもある。魔物の徘徊するこの辺境で、古びたシャツに男物のずぼん、短剣ひとつという出で立ちのせいもある。一人旅の少女というせいもある。しかし何よりも目立つのは、常に顔半分を追っているその仮面のせいであった。
うまくマントで隠しているが、ナルタカはシシアが顔だけでなく右手も肩から手の先まで覆い尽くしているのに気づいていた。それも鋼鉄の鎧のようなもので。それを指摘しなかったのは、旅人に余計な口を出すべからずというこれまでの教訓からだ。
ナルタカはシシアにエールとパン、ソーセージ、チーズの夕食を出しながら、その教訓からはみ出ない範囲で尋ねてみた。
「シシアはどこから来たんだい?」
「あなたに言ってもわからないような、小さな町からよ」
ナルタカは少しむっとしたが、シシアが別にバカにしている風ではないので気を取り直した。
「一人で来たの? この辺は教会の守りも薄いから魔物がよく出るだろ」
「警護を頼むお金はないから。魔物のことは怖くないし」
「へえ」
表情を変えない少女の言葉は何故かしらナルタカをわくわくさせた。荒神祭に来ている旅人は、魔物狩りを目的とした賞金稼ぎなどとは違い、観光目的のお上品な人たちが多い。荒くれた土産話を聞きたいナルタカには、少しばかり退屈なのだ。
「シシアは魔物より強いのか?」
「そんなことない。でも弱くもない」
しかし、シシアはそんな少年の欲求をかなえてくれるほど話好きなわけではなさそうだった。もうほっといてというように虚空を見つめているので、ナルタカはそれ以上の詮索をやめて厨房へ戻った。
厨房では、明日の荒神祭に向けての仕込みが始まっていた。長老の家系が営む宿屋として、明日の祭りで祠に供える神饌を作っているのだ。
荒神は昔、ひとつの幼い命だった。
毎年、村では生まれたばかりの赤子を森の長たる魔物へ捧げていた。村を守るための行為だったと、当時の村人たちはみな言った。
魔物は頻繁に人を襲うが、食べるばかりではない。人を食べるために襲うのは年に数回、人に己の恐ろしさを植え付けるように襲い、食らう。神にもなりきれなかった魔物は人間からの畏怖を欲しているのだ。
だから、村人は魔物の欲望を満たすために赤子を犠牲にした。生まれたばかりの赤ん坊の肉も、村人たちの憎しみや畏れの念も、魔物にとっては甘美なごちそうだった。
だが十五年前、異変は起こった。
”反乱の血”の年である。
赤子を助けるために、そして魔物から解放されるために、教会からやってきた神官が赤子にある術を施した。
魔物は赤子を食らった。しかし食らいきれなかった。
神官の術は変容し、赤子と魔物を混合させた。赤子は魔物ととなり、魔物は赤子となった。両者は融合し、神のなりそこないである魔物は赤子というつなぎを得て荒神と化した。
毎年、赤子を捧げていた日になると荒神は目覚め、あらぶる。それを収めるために、荒神祭は必要となった祭りなのだ。
祭りの当日、空は晴れ渡り風も静かで、森はシンと鎮座している。
形式化した荒神祭はちょっとした村おこしのイベントと同化していた。
まだ幼いナルタカはそこに反発を覚えながらも、楽しみにしていたりする。人が多いのも、賑やかなのも、ちょっと仰々しいのも大歓迎なのだ。
ナルタカはシシアにくっついて祭りの始まる広場に来ていた。一人だし、村にはうとい旅人だし、祭りのこともよく知らないだろう。だから案内役を買って出たのである。
「この村の荒神さまはレンシャって呼ばれてる。そういう名前の赤子だったんだ。もちろん贄としての真の名なんて、おいらは知らないぜ」
「森には入れるの」
「途中までは行けるよ。”反乱の血”以来、魔物も荒神を恐れてすっかりいなくなっちまって。だからといって気軽に森に入れるってことはないけどな」
なんたって荒神様の森だからさ、とナルタカは広場から見える森に向かって手を合わせた。
広場の中央にはやぐらができていた。やぐらの四方には松明がたかれ、こうこうと炎が上がっている。やぐらの周りにそれぞれ、長老家の血筋のものたちが作った神饌が準備されようとしている。祭りの衣装に身を包んだ神官たちはおのおの好き勝手に立ち話しし、そこへ村人や旅人たちが握手を求めに行ったりして、厳粛な雰囲気とはいいがたい。
シシアはじっと森を見ていたが、ふと何かの気配を感じ取ったように反対側を見た。ナルタカもつられてそちらへ目をやると、これも旅人らしい一人の男が広場を横切ってくる。重そうな皮のマントに、黒い鋼の鎧、背中にはみたこともない大剣。思わずへぇ~と声をあげてしまうほど、屈強そうな出で立ちをした男だ。
「知り合いかい?」
「バレル」
シシアはつぶやき、歩いてくる男へ向き直った。
男はやぐらや供物、神官たちや村人をひと通り眺めつつ、二人の前に立った。
「間に合ったな」
「全部やったの」
「馬鹿を言え。五体はいたぞ、やれるわけないだろ」
五体って、魔物か! ナルタカは興奮して男をじろじろと眺めた。腕の太さなどナルタカの両腕をひとつにくくっても足らなそうだ。
「それにしてもひでぇな、魔物に囲まれたところを俺一人置いて逃げちまうなんて」
「逃げたんじゃない。ただでさえ遅れてたから、先を急いだだけ」
「よく言うぜ」
「お兄さん、シシアの連れかい?」
「そうだよ。バレル・リュシアンだ。よろしくな」
大きな手を握り返すと、ナルタカの手は小石のように包まれてしまう。年は二十歳をとうに超えているように見える。老けているだけのようでもあるので、たしかなところはわからない。なんとも年齢不詳な二人組だ、とナルタカは思った。それにしても、どういう組み合わせだろう。
「いつ始まるんだ?」
「やぐらの上に鏡があるだろ。あの鏡が反射してる光が森にかかったらさ」
今はまだ一軒の家の屋根にかかっている。つまりもう少し太陽が昇ったら、ということだ。
「荒神祭の見学は初めてかい?」
バレルは何故かしらいたずらでも思いついた子供のような顔をして、顎をなでさすりながらにやりと笑った。
「まあな、そんなようなものだ」
シシアはまぶしそうに鏡を見ていた。
続く