6 今は無理でもいつか
「喧嘩、ですかね?」
「喧嘩、なんだろうね」
昼休み間近のトイレで、偶々サチと鉢合わせした。
用を足して二人並んで鏡の前で、話すことは今日の桃の様子だ。
温泉に行ったのは先々週の週末。先週末、桃がどこで何をしていたかなんて、ちとせは知らないし、知る必要もない。
だが、知らなくても何かあったことは簡単に推察できた。
何故なら桃が、恋人である大島に全く笑いかけないからだ。
「でも大島さんはいつも通りでしたよね?」
「というか、いきなり納期が短い仕事がきて、切羽詰まってるから、分からないんじゃない?」
今から昼ご飯だと言うのに、きちんとリップを塗り直すサチに感心しつつも、ちとせは
「じゃあ、桃さんが一方的に怒ってるんですか?!」
と確認してしまう。
「そ、あの桃が一方的に」
「あの桃さんが?!」
それは余程のことだ。
というのも、三人の中で間違いなく一番気が長く我慢強いのが、桃だからだ。ちとせに仕事を教えてくれるときも、桃は懇切丁寧に、じっくりと教えてくれた。
白土がウザい言葉をかけてきたときも、サチは冷笑で返し、ちとせは張り手で返すが、桃だけはやんわり笑うだけだ。
おそらく週末に何かあったのだろうが、桃がこれほど怒ることが想像つかないし、怒りが継続していることが、怖かった。
「大島さん、だ、大丈夫ですかね?」
体は小さいくせに大島は大雑把なところもある。桃の異変を見過ごす可能性も大だ。
「まあ、桃次第、かな?」
サチはリップをポーチにしまい込んで、トイレに常設されている化粧棚に仕舞い込むと、ちとせを見ながら釘をさす。
「桃が何も言わない内は、黙ってなさいよ」
「は、はいっ!」
「こういうことは二人で解決してかなくちゃいけないんだから」
きっぱりと大人の態度なサチに、ちとせは自分の目前で両手を組み合わせると、サチをキラキラした目で見上げる。
「流石です、姐さん!」
「一生ついてきますとか、言わないでよね」
言う前に言われてしまったが、ちとせは目をキラキラさせたまま、
「とりあえず、部屋まではついてきます!」
と設計部までの帰り道を、いそいそとサチの後をついて行った。
☆☆☆
結局、週末まで桃の態度はそのままだった。流石に大島も異常を感じたらしく、金曜日の定時後には急々と桃の後を追って帰っていった。
「早く、仲直りしてくれるといいんだけどなあ」
隼生の部屋で結婚情報誌を見ながら、ちとせはそうぼやいた。
そんなちとせを横目に隼生は生欠伸をしながら、
「なるようになるだろ」
と返した。
こちらはサチの様に、親心からの言葉ではない。
隼生は興味がないことにはとことんノータッチなのだ。例え、それが同じ職場の同僚のことであっても、だ。
「隼生さん、クールすぎ」
「別に誰と誰が付き合おうが、知ったこっちゃないし」
「他人に興味なし?」
「まあ、否定はしない」
(そうだよね! そういう人ですよね、あなたは!)
ちとせはパタンと雑誌を閉じると、足を延ばしていた隼生の太腿の上に、向かい合うようにチョコンと座る。
「隼生さん、お隣さんが誰かも知らないでしょ?」
「隣は分かる。佐川さん、だったかな。
俺が住んでからずっと隣、佐川さんだし」
「ええ! 名字も知ってるんですか!?」
どういう関係!?と隼生ににじりよれば、隼生は苦笑しながら、
「以前、隣の郵便がポストに入ってたことがあったんだよ」
と説明してくれた。どうやら封筒の糊付けがはみ出していたらしく、隼生宛ての手紙に一緒に張り付いていたらしい。
「そ、そういうのなら、別にいいですけど」
「邪推したのか?」
珍しく興味深げに問われたので、ちとせは口を尖らせながら、隼生の腹を人差し指で押す。
「しますよ? だってこっちは私のこと、好きになってもらいたくて、必死ですから」
身体だけの関係だなんて思ってほしくない。
ましてや力だけの関係でもないと言いたい。
「隼生さんから力、譲ってもらえたの、チャンスだと思ってるんです」
「チャンス?」
「この力があるから私、隼生さんのお嫁さんになれるんですよ? だけど、この力はただのキッカケにしたいんです」
偶々、ちとせだった。
そう思ってほしくないのだ。
(今は無理でもいつか...)
いつか、ちとせ自身を必要としてほしい。
「キッカケね。
お前、面白いこと言うな」
珍しく、隼生が顔を綻ばせた。
何が隼生の心に響いたのかは分からなかったが、隼生が嬉しそうな顔をするとそれだけで嬉しい。
ポンポンと頭を叩かれ、「大丈夫」と言われた。
「俺の嫁さんに勿体無い位だって思ってるから」
(ぐあっ!)
サラリとちとせを喜ばせると、更に隼生はちとせを天にも昇らせる気持ちにさせる。
ちゅ、と顔を近づけて、可愛らしいリップ音付きのキスをくれたのだ。
「!!!!!」
「可愛い」
(可愛いのは隼生さんです!!!)
心の中で絶叫しつつ、ちとせはガバリと隼生に飛びついた。勿論、定番通り、力を使って電気は消して。