この手は誰の為に
「心理テスト、ですか?」
「そ、心理テスト」
お昼時。ようやく暖かくなり始めた3月初め。
ちとせは、結婚した為部署異動した桃と食堂でご飯を食べていた。同僚で先輩でもあるサチも当然一緒で、最近は桃が職場を離れたにも関わらず、専ら三人でのランチになっていた。それというのも、来月には桃の出産退職が決まっていたからだ。
結婚二年目にしてご懐妊。
桃の夫である大島は、「流石! 背は小さいけど……」と白土に何か言われかけたが、思いっきり後頭部を殴られていたので、ちとせはその先の言葉を知らない。
兎も角、今年の6月には桃は母になる。
そんな桃が昼時の話の種に提供してくれたのは、生まれてくる子供のことや、妊婦の不安なんてものではなく、恋愛心理テスト。
桃らしいと言えば桃らしい。
「好きな人と手をつないで歩くとき、自分はどちら側にいる?」
(好きな人ねぇ……)
真っ先に頭に過ぎったのは、浅間隼生。
故人だった。
(いつも隼生さんと歩くときは、隼生さんは右側だった気がする)
追いつきたくて、好きになって貰いたくて、いつもその左手に自分の右手を絡めていた。
でも、そんな記憶も悲しいことにもう曖昧だ。
「ちとせ、高校生はどっち側なのよ?」
サチがニヤニヤしながら聞いてくる。サチと桃の中では、ちとせの恋人は現役高校生の夏生になっているが、ちとせの中では違う。
意識していることを否定できないが、相手は高校生。
キスこそ最初の頃は不意打ちに許してしまったが、自分の中で夏生を意識するようになってからは、決してキスさえも許さなかった。
それは、将来のある夏生を8つも年上の自分に縛り付けたくないという意思表示でもあったし、一度許したらどうなるか怖かったからでもある。
「あれ? でももう卒業だっけ?」
桃の一言にちとせは顔をしかめてしまう。
そうなのだ、夏生は今日、高校を卒業した。何だかんだと言いながら、結局、高校生活の2年と少しをちとせの側で過ごしてしまったのだ。
高校生だから。
その戒めは、今日解かれる。
それと同時に、今週末には夏生は実家に帰ってしまう。
地元の公務員試験に合格し、春からは晴れて消防士となる為、地元に戻るのだ。
それは夏生の夢でもあったことだから、喜ばしいことだけど。
(私たちもここまでだろうな)
自称婚約者候補も、もうお仕舞いなんだろうとぼんやりと思っていたら、
「ちとせ~」
と、サチがちとせを呼んだ。
「で、どっち?」
答を急かされて、ぼんやりと普段並んだ時のことを思い出す。
「左、ですね」
隼生と逆側だと今気づいた。
それは故意では全くなかったが、確かにいつも夏生はちとせの左側だ。
そして様子を見ながら、そっと手を絡めてくる。いつもふりほどこうとするのだが、少年といえども男の力には適わず、手を繋ぐことだけは許していた。
「ふぅん、そうなんだ」
左、という答に桃はニマニマと口元を弛めると、答え合わせを始めた。
☆☆☆
「なんでいる!」
ちとせが叫んでしまったのは、漸く日も伸び始めた会社帰り。何度か夏生とかち合った通勤道路。
そして叫んだ相手は、卒業式で貰ったであろう花束を手にした夏生だった。
夏生は学ラン姿でニコニコとこちらを見ている。
「ん? ちとせと最後くらい一緒に帰ろうかと思って」
そう言われて、チクリ、と胸が痛んだ。
こうして夏生と会えるのも今日が最後。
そう感じてしまったことが胸に痛い。
(夏生君は私のじゃないのにな)
恋人でもない自称婚約者。
ちとせにとっての夏生の位置付けは曖昧だ。
中にある気持ちは分かっていても、それを夏生に突きつける勇気がちとせにはない。
(まだ夏生君は、子供だし)
これからいくらでも素敵な出会いを経験することが出来る。
浅間の男、隼生に縛られるちとせとは違うのだ。
「ちとせ、帰ろう」
やんわりと微笑まれそう言われ、断れない自分の弱さをちとせは否む。
そしていつも通り夏生はちとせの左側で、速度を合わせて歩いていく。
「今日の夕飯、何?」
「肉団子」
「お、マジで。肉、楽しみ」
嬉しそうな夏生の顔が何だか切ない。
この笑顔を見られるのも、あと少しだと思うと、寂しいという気持ちが、どうしても沸いてしまう。
「卒業式、午前中でしょ? 今まで何してたの?」
感傷を振り切ろうとそう問えば、夏生は笑いながら「駅前でカラオケ~」と言った。
「まだやってたけど、ちとせ帰ってくるから抜けてきた」
「皆と最後なのに」
(私なんか優先して)
暗に咎めると、夏生は、はにかんで笑う。
16歳の少年だった笑顔は、18歳にもなると精悍さが出てきた。
少年なことに変わりはないはずなのに、どこか一瞬、大人びたものを感じて、ちとせは思わず目を反らす。
「ちとせ」
「?」
呼ばれて顔を夏生に向けると、左手をそっと握られた。そしてその中に丸いコロンとした何かを渡される。
訝しげに手を開けば、そこにはボタンが一つ。学生服の金ボタンだ。
夏生の学ランを見れば、既に全てのボタンはない。
「他はあげてきたんだけど、第2ボタンは死守したから」
得意気に言われて、唖然としてしまう。
「第2ボタンて……」
その意味合いは、今と昔では変わってしまったのだろうか、と一瞬、考える。
だけど、夏生の顔から意味合いは変わってないのだとすぐ分かった。
「この学ラン、今時じゃないけど、こういう時は良かったかな、って思う」
照れ臭そうにそう言われて、ちとせは何も言えなくなってしまう。
(どうしよう)
どうしよう。どうしよう。
ボタンをギュッと握りしめて、
「仕方ないから夏生君の思い出に貰ってあげる」と笑えば、夏生は眉間に皺を寄せる。
「勝手に思い出にしないでくれる?」
「思い出にしちゃいなさいよ」
地元に帰る少年に、ちとせが何を言えるのか。
それなのに、夏生はちとせに言うのだ。
ちとせが欲しくてたまらない言葉を。
「それ、思い出じゃないから。
約束だから。間違えんなよ」
そう言って、ギュッとちとせの左手をボタン毎、器用に握ってくる。
(困ったなあ)
握られた手を振り切るのは辛くて、ちとせは繋いだまま、暗くなりはじめた道を歩く。
『右側の人がその二人の関係で主導権を持つんだって』
今日の昼休み、桃が言った言葉が思い出される。
隼生と付き合っていた時、ちとせはいつも右側の隼生を見上げていた。追いかけて、追いかけて、好きで、好きで。
だから、ちとせたちの恋愛の主導権は隼生にあったことは間違いない。
今は。
今は、ちとせの左側に夏生がいる。
仮に桃の心理テスト通りならば、主導権はちとせにあるはずだ。
事実、ちとせの嫌がることを決して夏生はしない。
大半のことは、ちとせのしたいようにさせてくれる。10代の子供とは思えない分別の良さは、きっと彼の生い立ちからくるもので、だからこそ、ちとせは一緒にいて苦しくないのだ。
(いっそ、さよならと言えたらどんなにいいだろう)
それでも言えないのは、もう、この手の温もりを知ってしまったから。
誰かと一緒にいることを、温かいと覚えてしまったからだ。
「半年は消防学校あるから来れないけど、消防士になったら、時間見てくるから」
夏生がそんなことをちとせに言ってくる。
言わなくていいのに。
約束なんてしてほしくないのに。
「ねえ、夏生君。どうしていつも私の左側なの?」
夏生の言葉を無視するかのようにかけられた問いかけに、夏生が僅かに戸惑う。
だが直ぐに、ちとせには思いも寄らない言葉を返してくる。
「ちとせに何かあっても、すぐに引き寄せられるから」
駅を過ぎて、ちょうど人気のない路地で、夏生の繋いでいた右手が、強引にちとせを引き寄せた。
利き手の力で引き寄せられて、簡単にちとせは夏生の胸の中に入ってしまう。
「ちょ───!」
暴れる前に放されて、ちとせは夏生を軽く睨んだ。
夏生はその視線に懲りる様子もなく、
「ね? なにかあっても直ぐに胸の中に入れられるでしょ?」
と言った。
(全く、この子は……)
得意気な顔で言われては、文句の一つも言えやしない。
ちとせは小さくため息を漏らしてから、握ったままのボタンを手の中で落とさないよう更に握り締める。
その手をまた夏生が大きな手で包んでくる。
優しく手をあけられて、ボタンを落とさないよう器用に二人の手を合わせる。しかも今度はしっかりと恋人繋ぎだ。
「ボタン、落とさないようにね」
だったら鞄にしまえばいいことなのに、それを言わない自分のずるさも、何も指摘しないで甘んじて待っていてくれる夏生の優しさも、全部ちとせは飲み込んで、こくり、と小さく頷いた。
ちとせがきっと別の意味で頷けば、夏生はちとせのもっと大切な人になるだろう。
そういう意味では主導権はちとせのものだ。
それは逆も然りなはずなのだが、この左側にいる人は、ちとせに全てを委ねながらも、その手を決して離してくれない。
主導権はあれど、拒否権はない。
(もし……。もしも……)
夏生が地元に帰って、それでもちとせを忘れないでいてくれたら……。
その先を今は考えたくなかった。
ただ、貰ったボタンを落とさぬよう、ゆっくりと歩いた。
右側はもう誰にも空ける気はない。
そして左側も、もう空けられないのだと、ちとせが思い知ったのは、それからまる半年は優に過ぎた晩秋頃で、今より大分精悍になった夏生に再会した時だ。
この話は、。゜(゜´Д`゜)゜。さんに捧げます。
。゜(゜´Д`゜)゜。さん、ありがとうございました。




