3 ちとせと隼生
結局、あの後は何となく有耶無耶にされた。
「ま、まあ...隼生が無理強いしたわけでないのなら」
と浅間父が引きつった笑顔で言った言葉が忘れられない。
それでもひとしきりもてなされて、夜の九時を過ぎる頃には大分、浅間家の面々とも打ち解けた。
「疲れたか?」
浅間の部屋は既に子供部屋に変わっており、客間に並べられた布団で明日の着替えを整理していたら、風呂から上がってきた浅間にそう言われた。
「色々めまぐるしかったです」
正直に答えると、
「悪かったな」
と頭を優しく撫でられた。
浅間からのスキンシップはかなり珍しい。
思わず「へへ」と頬を緩めてしまうと、浅間はふと思い出したかのようにまじめな顔になり、ちとせの前に座る。
「だけど、力を使う時は注意してほしい」
「あ、はい」
「今回はたまたま身内だから良かったけれど、外の人間に見られてどうなるかってのは、想像もつかない」
浅間の言葉に納得する。
確かに他人に見せてしまった時、どうなるかは分からない。
おそらく[超能力]と呼ばれるものに分類されるだろうが、どんなにその力が小さいと言っても、普通の人間が手を使わず物を動かすことは、出来ない。してはいけない。
「浅間さんは、この力、何に使ってたんですか?」
ふと疑問に思って問いかけると、浅間は何となく気恥ずかしそうにしてから、
「家の中でテレビのリモコンとったり、飯作るとき冷蔵庫から食材取り出したりだな」
と言った。殆ど大したことには使っていなかったようだ。
確かに、スーパーヒーローになるには弱すぎるし、何かを成し遂げるにも力が足りなすぎる。
それでも、30になってから、3年間は、浅間の力だったし、これからも浅間が望む限り、浅間の物だった筈だ。
(あ、マズい)
心が少し折れそうだ、と思った。
ちとせのわがままのせいで、この事態に陥った自覚があるから、それが心を引きずる。
でも、だけど。
この力のお陰で、浅間の嫁になれることも、どうしようもなく嬉しいのだ。
ちとせは荷物を押しのけると、正座して浅間にむき直す。
そして綺麗な動作で頭を深々と下げる。
「この力、浅間さんのために使います。
浅間さんのこと、必ず幸せにしますから」
(だから、私のこと、後悔しないでください)
最後の言葉は図々しくて言えなかった。
だって、全てちとせのせいだ。
浅間は何も言わないが、下手をすれば罵られてもおかしくないことで、それでも言わないでいてくれる浅間の優しさに漬け込んでいる自覚ぐらいはある。
(それでも、私はこの人が欲しい)
頭を下げていたちとせの後頭部に、ポンポンと温かい手が、撫でるように乗った。
浅間の線の細い堅い指の感触に、顔をあげると、浅間は珍しく少しはにかんだ笑みを浮かべて言う。
「嫁さんに貰うからには、大事にする」
(うぉう.....)
何でこのタイミングでいうか、とちとせは内心唸った。
(この人はどうしていつも私が欲しいときに、欲しい言葉をくれるんだか)
思わず嬉しくなって、身体を近付けて頭をコツンと浅間の肩に押し付ける。
浅間が僅かに身体を強ばらせた。
30過ぎてどこの生娘だ、と苦笑いしつつも、風呂上がりの浅間の石鹸の香りを堪能する。
「私、頑張りますから」
「え?」
「浅間さんが少しでも私のこと、好きになってくれるよう、一緒にいて幸せになってくれるよう、頑張りますから」
それは約束というよりは、誓いのようなもので、浅間は少し息を呑んだ後、何も言わずに頭を撫でてくれる。
(今度は言葉はなし、か)
欲しい言葉はくれるけど、偽りの言葉は決して言わない。
体は重ねたが、心まではまだ重ならない証拠で、その不器用にも見える正直さが、ちとせは大好きだ、と思った。
「あ、浅間さん」
「ん?」
顔をあげると、スレスレの距離。
ちとせはどさくさで抱きついて、ニッコリ笑うと言う。
「私のこと、ちとせって呼んでください。
私は浅間さんのこと、隼生さんって呼びたいです」
「そうか、名前の呼び方も変えた方がいいのか」
言われて初めて気づいたらしい。
本当に、女性とお付き合いした経験がないんだな、と思った。
「隼生さん」
「ん」
「呼んで?」
ちとせがそうねだると、浅間は少し戸惑いの色を浮かべてから、
「ちとせ?」
と問いかけてきた。
名前一つ、呼ばれただけで、背中を甘い痺れが走る。
返事をせずに唇を寄せると、躊躇うように、ちっ、と唇がかすった。
(隼生さん、大好き!)
そのままガバリとのしかかったら、浅間が焦ったようにちとせを制す。
「ちとせ、ここ、実家」
困ったような囁きに、本当、この人は草食系だな、と苦笑した。
草食動物が果たして肉を食べたのかは、二人だけしか知らないが、この日から、ちとせと隼生になったのは確かだ。