17 喪失
五時過ぎのファミレスは、まだ若干人が薄い。これから家族連れや、会社帰りの人間が入ってくるのだろう。
その隅で夏生は学校帰りの制服のまま、夕飯を食べていた。
しかし、奮発してファミレスに来たはいいが、どれを見てもちとせのご飯ほど食欲がわかない。仕方がないので、適当なハンバーグディナーセットを頼んでお茶を濁したが、やはり濁す程度の味で、これならコンビニでも変わらなかったな、と思ってしまう。
(ちとせ、今日は女子会とか言ってたな)
会社の同僚女性二人が泊まりにくるのだという。夏生は社会人もそんなことをするのかと意外に思ったが、ちとせ自身も初めてらしく、
「この職場は特別かな」
と嬉しそうに笑っていた。
(会ってみたかったなぁ)
会社のちとせを知る職場の友人。
泊まりにくるほどなのだから、余程、気心しれた仲なのだろう。
そんな人の中にいるちとせがどんな感じなのか興味が湧いてくる。
(少しくらいならいいか?)
スナック菓子の差し入れなんかもっていけば、少しは仲間に入れてもらえるだろうかと考えて、即座にその考えは却下した。
いくらなんでもそんなに空気の読めない馬鹿ではない。
ファミレスの決して美味しいとは言えないハンバーグをかきこむと、夕飯時で混雑し始めたファミレスを夏生は後にした。
(腹にはたまったけど......)
何となく満たされない。
いつもの夕飯はもっと満たされて、充実しているのに、と思ってしまうから、嫌になる。
あれも、これも、好きだと自覚してしまうと、自分でも恥ずかしい位に、全てをちとせに結びつけてしまう。
(こんなの知られたら、まじ引かれるよな)
ただでさえ、まだ隼生への想いでいっぱいいっぱいのちとせに、10代の激情を無闇に向ければ間違いなくたたき落とされる。それだけならまだしも、また避けられたり、距離を置かれたりしたら、キツい。
好きだけど。
好きだから、我慢する。
年相応ではないな、と自分でも分かっているが、今はそんな自分の経験値に感謝せざる得ない。
「あー、ちとせの飯、食いたい」
明日は、ちとせの友人たちは何時までいるのだろう。
夕飯くらいは自分と食べてくれるだろうか?
そう思いつつ、前方を見て、夏生はギョッとした。
薄暗くなった空に黒煙がみえた。
モクモクとそれは際限なく空を黒に染めていく。
(火事?)
行き先は自分の帰り道だ。
野次馬ではなく、足がはやる。
三分も立たずについた場所は一軒の民家。
黒煙だけでなく、火柱も見え始めた家は、正に今、出火したばかりだったらしい。
家の前でオロオロと立ち尽くす老人に目がいく。
「大丈夫ですか? 消防署に連絡は?」
「あ、あ、........」
茫然自失といったところか。焦点の合わない目。
「すいません、消防署に電話してください! 119番です!」
夏生が近場で野次馬にきた人を見て、そう叫ぶ。言われた相手は戸惑いつつも携帯を取り出した。
そして老人をゆすり、
「この家にまだ人はいますか?」
と確認する。
老人はハッと我に返り、
「かえでがっ!」
と叫んだ。
(人がいるのか?!)
家を確認する。火柱は上がり始めているが、火の勢いはこれからといったところだ。
「どこにいるんですか?」
「一階.......一階奥に.......。かえでっ! かえで!!」
悲鳴のような声。老人が家の中に入ろうとするのを制して「この人をお願いします!」と、老人を近くの人に頼む。夏生はそれから家の前を見た。そこにあるのは、外水道だ。
「かえでぇぇ!!」
悲痛なを呼び声に、夏生は覚悟を決める。
こういう行為が一番悪いと分かっている。
消防がくるまで待たなければいけない。
二次災害。
色んな言葉が頭を駆け巡るのに、それを打ち消したのは、やはり老人の言葉だった。
「かえで! 俺を置いていくなっ!」
気がついたら、外にあった水道の蛇口をひねり、頭から水を被っていた。
学ランも満遍なく水で濡らし、開けっ放しの玄関に飛び込んだ。
「大変だ! 男の子が入っていったぞ!」
誰かのそんな声が聞こえたが、止められはしなかった。いや、する隙も与えずに夏生は入り込んでいた。
(もう嫌だ)
誰かが家族を亡くす姿を、自分の前で見たくなかった。
奇麗事だろう。
それこそ、こんなんで消防士なんて、絶対無理だって、自分でも分かってる。
それでも。
老人の声は、夏生を動かすのに十分だった。
「置いていくな」
死んだ人間は、死にたくて死んだわけじゃない。
そんなこと分かっている。
分かっているのに、どうして生きた人間たちは、【置いていかれる】と思ってしまうのだろう。
夏生だってそうだ。
父と姉が死んだとき、どうして自分を置いていったのか、と思った。
もっと、遊びたかった。
もっと、色んなことを話したかった。
もっと。もっと。もっと!
沢山したいことがあったはずなのに、その手はいつも宙をさ迷う。それが嫌で、誰かの手を掴もうと、時には女の肌に溺れたりした。
でも、何もかも違くて。
自分が求めていたのは、そんなものじゃなくて。
この【喪失】は、一生、誰の手によっても埋まらない。
そんな穴を、自分の見ている前で、誰かに出来るのは我慢ならなかった。
「すいません! 誰かいますか?!」
黒い煙の中、腰をかがめて家の奥まで進む。
煙の具合からいって、出火元は二階だろう。階段は酷かったが、家の奥はまだ火の手は回っていなかった。
「助けに来ました!」
襖を開けてそう叫んだが、奥の間には誰もいなかった。
「誰かいますか?!」
パチパチと火の粉が降りてくる。
これ以上は危険だと本能が叫ぶ。
夏生は学ランで口元を覆いつつ、当たりを見回す。
人気のない和室。
一番奥の部屋はここしかない。
(いないのか?)
もう一度、辺りを見回すと、仏壇が視線の先にあった。
遺影は、老人より若い姿の中年女性。
その写真から、老人の妻であろうことは簡単に察せられた。
夏生は、位牌を手に取る。
(確か「かえで」って言ってたよな)
位牌に刻まれた戒名をなぞると、そこには【楓】という文字が入っていた。
夏生の父の位牌には【節】の漢字が。
姉の位牌には【冬】の漢字が入っている。
戒名には、名前の漢字が入ることが多いのだ。
「ちっ」
どうやら、老人が呼んでいたのは死んだ人間のことだったらしい。
我ながら浅はかだったと思いつつ、その位牌だけでも持っていこうと考えて、ふと、手が止まる。
(位牌に「置いていくな」なんて言うか?)
既に死んだ人間に、話しかけることはままある。仏壇に手を合わせながら、その先の相手に想いを馳せることもあるだろう。
だが、それならば、「置いていくな」と言うだろうか。
もう一度、周囲を見回す。
火が物を焼く音がする。
一刻の猶予もなかった。
(それだけか? それだけか?)
ジワリ、と汗が額を伝った瞬間。
カリカリ、と何かをひっかく音がした。
視線の先には壺。
床の間に飾られた壺から音がする。
夏生がその壺をのぞき込むと、
「みにゃあ~!」
と猫が泣いて、必死に壺から出ようとしていた。
(猫がどうしてこんなところに?)
襖は逃げ出さないように閉めていたのかもしれない。
冷静に見れば、部屋には老人のものとは思えないキャットタワーが端に設置されていたし、仏壇にも線香を焚く為の香呂もない。
恐らくこの部屋が猫の部屋として使用していたのだろう。
妻の仏壇に、猫。
「お前がかえでか?」
問いかけると、「みにゃ~」と猫が鳴いた。
老人にとっては死んだ奥さんの代わりなのかもしれない。
本来なら逃げられたろうに、動転して壺の中に入ってしまったのだろう。
夏生が壺からすくいあげると、「ふにゃっ!」と猫は叫んで、部屋から勢いよく出て行く。
「あ、おいっ!」
止める間もないが人より小さな猫だ。
真っ直ぐに玄関へ向かっただろう。
夏生もその後を向かおうとした瞬間、バキバキと音を立てて廊下に木材が落ちてきた。
「!!!」
おそらく二階の床も焼け始めたのだろう。
黒煙が、赤い炎が、逃げ道を完全に塞ぐ。
木造の家は、思った以上に火の周りが早かったらしい。
(猫の心配してる場合じゃなかったな)
「出口!」
脱出口を他に探すが、不運にもその部屋に窓はない。
壁を蹴飛ばしてみたが、びくともしない。
夏生は壁を何度か叩くと、薄い場所にあたりをつけ、もう一度、壁に体当たりする。
しかし、壁はミシリと僅かに音を立てるだけだった。
モクモクと煙が視界を遮っていく。
息苦しくなってくる。
酸素が減ってきたのだ。
一酸化炭素中毒という言葉が頭によぎり、必死に頭を低くして脱出口を探す。
(くそっ! こんなところで死ねるかっ!!)
死ねない。
こんなところで、絶対、死ねない!
分かっていたはずなのに。
火の怖さも、独りで行動することの愚かさも、分かっていたはずなのに、それでも動かずにはいられなかった。
黒い煙が、熱が、火が、夏生を焦がしていく。
呼吸が浅くなる。
頭がクラクラしてくる。
喉が焼けるように痛い。
いや、焼けているのかもしれない。
それでも、夏生は壁を蹴る。
外に繋がっているだろう場所を。
(こんなところで死ねない!)
死ぬわけにはいかない。
自分が死ねば、母が悲しむ。
兄たちも悲しむ。
家族に、また家族を失う悲しみを与えたくなどない。
そして。
(ちとせっ!!)
自分が死んだら、ちとせはどうなる?
やっと、やっと、少しずつ前を見始めてきたのに。
ちとせにとって、夏生は隼生の代わりにはなれないが、夏生は夏生として、ちとせの心に少しはいると自惚れでなく思う。そんな自分が、彼女に新たな【穴】を作らせるなんて、考えたくもなかった。
(くそっ.......!)
パチパチ。
赤い炎が部屋を徐々に燃やしていく。
それよりも煙が、夏生の意識を混濁させていく。
(駄目だ、こんなところで死ねない!)
「こんなところで、死ねるかぁ!!!」
叫んだ瞬間、どおん、と直近で、大きな、大きな、
音、
が、
し
た。




