15 無自覚の優しさ
「おはよーございます!」
ちとせが職場に入りそう挨拶した瞬間、先輩で姉御肌でもあるサチが、珍しいものでも見たかのように、片眉をあげた。
「ちとせ、何かすっきりした顔して、どうした?」
流石、普段から世話の焼ける後輩二人の面倒を見ているせいか、サチの眼力は鋭い。ちとせは、へへへ、と緩く笑ってから返す。
「何だか、久しぶりにゆっくり寝れたんです」
今朝、早朝ともいえる時刻に起きたちとせは、ベッドの横で、ちとせの手を握って伏せっている夏生を見つけた。
ちとせはベッドに寝かせて、自分は律儀に上着を着て、顔だけベッドの縁に乗せ夏生は寝ていた。
そのまま、襲われてもおかしくないだろうに、16歳の少年は意外に紳士だったらしい。
朝ご飯を食べさせて部屋から出したが、夏生はいつもの夏生だった。きっと今日の夜もちとせの部屋に夕飯を食べに来るのだろう。
それを昨日までの自分は拒否していたのに、不思議と今朝の自分は許してしまっているのだから、現金なものだ。
「ふぅん。そりゃ、良かったね」
何かを察したらしいが、聞かないでくれるサチの思い遣りが有り難い。
「何、あの高校生とつき合うことにしたの?」
それなのに、そこに無遠慮に入り込んでくるのは、相も変わらず、白土だった。
「は、高校生?」
珍しくサチがポカンと気のぬけた表情になったが、今はそれには構えない。ちとせは白土を睨みながら、
「付き合うわけありますかっ!」
と叫んだ。
「犯罪じゃないですか!」
「じゃあ、俺とつき合ってよ」
「じゃあの意味が分かりません!
そして無理です。
私、隼生さん、好きですから」
サラリと隼生の名前を口に出せば、白土は目を見開いてちとせをしっかりと見つめ、それから苦笑いをくしゃりと顔を歪めて浮かべる。
「ったく、とんびにかっさわれた。最悪」
「は?」
突然、白土がぐしゃぐしゃとちとせの髪をかき混ぜる。
「ぎゃっ! 何するんですかっ!
せっかくとかしてきたのに!」
「あーー、ムカつく!!」
「八つ当たりしないでくださいよ!」
白土の奇行の意味が分からず、ちとせはその手を払いのけて、かき混ぜられた髪の毛を手櫛で整える。
「ううう、花川、俺のこと慰めて」
「うざっ」
サチが面倒くさそうに白土を見たが、珍しくその手を伸ばして白土の突き出した頭をポンポンと叩いた。
「ウザいけどあんたなりには頑張ったんじゃないの?」
「......花川、惚れていい?」
「私の彼氏と比べるまでもないわ、消えろ!」
容赦なく白土はサチに追いやられ、苦笑を口元に残したまま、自分の席に戻っていく。
ちとせはそんな白土を見てから、
「全く、白土さんは相変わらずですね」
とぼやいた。
でもそれは決して嫌悪からくる言葉ではなかったし、胸にほんのり温かいものがこみ上げてくる。
考え方一つ、生き方一つ、変わっただけで、こんなにも世界は自分に優しかったのか。
そう感じずにはいられない。
「で、本当に高校生とつき合ってるの? そこんとこだけは、はっきりしてから席つきなさいな」
サチがニヤニヤと興味深々で聞いてきたので、ちとせは笑いながら、
「付き合ってませんよ」
と返した。
「ふぅん。ま、今度ちとせのマンションで宅飲みでもしますか」
「ええっ?!」
ちとせが声をあげたタイミングで、もう一人の先輩、桃が「おはよー」と会話に入ってくる。
「何? 楽しい話?」
「まあね。ちとせの若い燕の話」
「ええっ、なにそれ?!」
桃が声をあげて、目を丸くする。そんな桃を見ながら、ちとせは
「ちがいますよ!」
と手を振って否定するが、その声は楽しげに職場に響いた。
少し離れた場所でそれを聞いていた大島が、白土を見ながら、ポツリと尋ねる。
「今晩、飲みに行くか?」
白土は大島を見て、「結婚式の準備で忙しいんじゃないのぉ?」等と言ったが、直ぐに、
「泥酔したら、家まで運んでくれよぉ」
と珍しく弱音を吐いた。
「そんなに適わない相手か?」
誰が、とは大島は尋ねない。
白土は肩を竦めて、
「ちとせちゃんのあの顔見たら、何も言えないっしょ?」
と、また苦笑いを浮かべた。
大島が白土の視線の先を見れば、そこには満面の笑みを浮かべたちとせ。
ここ一年、そんな溌剌としたちとせを見なかった気がする。
「浅間さんの血筋って、本当、女口説く能力とか、惚れさす能力、備わってるんじゃねえの」
「は?」
白土は「何でもない」と首を降ると、
「喫煙室行くか」
と席を後にした。
その日は珍しく、朝から職場が女子社員の軽やかな話声で賑わっていた。
☆☆☆
「うわ、何、その締まりのない顔」
朝、顔をあわせるなり創にそう言われ、夏生は「うるせ」とだけ、ぼやいた。
「うわうわ! しかもいつもなら睨んでくるのに、それだけ? どんだけ、幸せなことあったわけ? もしかして、ヤった? ヤっちゃった? 巨乳に挟んでもらった?!」
創の背後で、女子たちがいつも以上に創を引いた目で見てる。
あぁ、もうこいつ、高校生活、ずっと彼女なしだな、と夏生は思いながら、創に返す。
「煮えろ! 今すぐ煮立たせて、使い物にならなくなれ!」
「こ、こわっ! そこはもげろとかじゃね?! まあ、もげろ言いたいのは俺の方だけど、煮えろって怖すぎだよ!!」
心底、創が怯えているが、その顔がニヤニヤしているのだから、始末に終えない。夏生はもうこれ以上、創を喜ばすのも疲れるので、「コーヒー買ってくる」と立ち上がる。
「朝からコーヒーって! や、やっぱり、昨日、夜通し?!!」
「.........」
「ちょっ! そこはもう一度、煮えろって言ってよ! 沈黙は肯定?! そうなの? そうなの? 夏生ぉぉぉ!」
朝から無駄にテンションの高い創を女子の冷え切った視線に晒したまま、夏生は自販機までコーヒーを買いに行く。
学校内の自販機は、売店の側にあるきりだ。
それを少し不便だと思いながら、コーヒーを買っていると、下駄箱の方から歩いてくる女に目がいく。
都賀るりあだった。
二年生の教室は売店横の階段を上がっていく。当然会う確率も高くはなるが、昨日の今日で会うとは、何とも皮肉めいていた。
るりあは夏生の姿を見つけると、一瞬、綺麗な顔を歪ませた。
夏生はコーヒーを飲みながら、ペコリと小さく頭を下げる。
その態度に、るりあがわずかに驚いたのが見てとれた。
るりあはツカツカとこちらに歩いてくると、夏生の横で足を止める。
そして、夏生を睨みつけた。
その目は少し赤く、あぁ、泣いたのか、とぼんやり思う。
自分が適当に扱ってきた女たちも、こんな風に泣いたのか、と初めて実感した。
「あんたって、最低」
「うん、昨日そう気付いた」
(酷いこと、してたんだな)
例え、浅間の血に惑わされていたとしても、それでも自分のことを純粋に好きだと思ってくれている人もいたのかもしれない。
こんな風に、夏生のいないところで、泣いた人もいたのかもしれない。
そんなこと、ちとせを好きになるまで、気付けなかった。
「色々、ごめん」
もう一度、頭を下げて謝ると、るりあはギュッと唇を噛みしめ、それから夏生を睨んで、言う。
「許せないけど、殴るから」
「それ、宣言すること?」
「精々、また噂で苦しめばいい!」
そう言ったるりあの顔は、今までで一番好感が持てる顔だったが、それは言わないでおく。
るりあが手をあげる。
「さいってー!!!」
バシン、と大きな音を立てて打たれた頬は、音の割には痛くなかったが、周りから見れば間違いなく、夏生がろくでもない男に見えたことだろう。
事実、登校時間という人が多い廊下で、周囲の面々は突然起こった修羅場に、驚いた顔でこちらを見ている。
るりあはくるりと踵を返すと、振り返ることもなく階段を登っていった。
夏生は打たれた頬にぬるくなったコーヒーを押しつけながら、
「本当、俺って最低」
と自嘲した。
☆☆☆
ピンポン、とインターホンを押すと、「ちょっと待って」という声と共に、玄関に人が近づく音がして、ドアの鍵を開けてちとか顔を出す。
「おかえり」
昨日の今日で、何となく気恥ずかしくなりながら夏生がそう言うと、ちとせも恥ずかしいのか目を反らしながら、
「ただいま」
と返してくれた。
本来なら、招き入れるちとせが「おかえり」と言うべきだが、ちとせより夏生の方がマンションに帰ってきた時間は早いので、夏生は敢えて「おかえり」と使った。
「今日の夕飯何?」
招き入れられて、夏生は上着を部屋の隅のコート掛けに掛ける。
くんくんと鼻で部屋に微かに残る料理の匂いを確認し、
「煮物?」
と問えば、ちとせは「肉じゃがと納豆オムレツ」と返してくれた。
どちらも夏生が好きなメニューだ。
それにサラダと味噌汁がつけば、夏生には丁度よい量になる。
ちとせが食卓に夕飯を並べるのを手伝って二人でご飯を食べる。
ちとせはいつも通り変わらず夏生に接してくるし、夏生も無理強いはしない。
こうしてここに在ることを許されていることが嬉しくて、自然に頬を緩めると、
「納豆オムレツ本当に好きね」
と、ちとせに別のことで喜んでいると勘違いされた。
ちとせの納豆オムレツが好きなことは確かなので、敢えて反論はしないでおく。
夕食後、いつも通り、食後の御茶を飲んで、何の気なしに付けっぱなしにしたテレビを見た。そして九時前に夏生が立ち上がると、何も言ってないのにコート掛けに掛かっていた上着をちとせが取ってくれた。
(やべ、自惚れそう)
付き合ってもないし、婚約話だってこちらの一方的な約束事だ。二人の間に確実な何かはない筈なのに、ちとせが夏生に向けてくれる無自覚の優しさは、夏生に淡い期待を抱かせる。
自分が何かしらちとせの特別ではないのかと。
「夏生くん」
「ん?」
玄関まで来たとき、ちとせが夏生の名を呼んだ。
「昨日はありがとう」
ニッコリと微笑まれて、思わず抱きしめてキスしたくなったが、寸でのところで留めた。
(俺の自我、頑張った!)
「でも、私、隼生さんが好きだから、夏生くんとは結婚出来ない」
笑顔でさっくりとちとせは夏生の淡い期待を叩き落とす。
「うわ、ここでそれ言うんだ」
夏生はちとせの言葉に思わず笑ってしまう。
(もっと可愛いこと言えばいいのに)
ここまで気を許してるくせに。
それがどういう意味か分かってるのに、言わないし、歯止めをかける。
(まあ、まだ一年ちょっとだしな)
それでも、昨日よりずっとすっきりした顔は、ちとせの中で何かが吹っ切れたのだろう。
「でも、俺の夕飯は作ってくれる?」
(一生、ね)
後に続く言葉は言わずに問えば、ちとせは苦笑しながら、
「育ち盛りだしなぁ。それくらいならいいよ」
と返してくれた。
「ありがと、ちとせ」
夏生はそれ以上は何も言わずに、靴を履くとちとせの部屋を後にした。




