13 二度惚れ
「今日は麻婆豆腐なんだ」
ちとせがそう言いながら、三人前の食事を用意する。夏生は既に食べていたが、食べていたと言いづらい雰囲気に、とりあえず黙っておく。
「私も一緒に用意したの。ね、西脇さん」
ニコニコとちとせに話しかけるるりあに、ちとせは若干困惑そうな顔だ。
(何だ、これ?)
察するに、るりあが無理矢理ちとせの部屋に押し掛けたのだと分かるが、夏生は同じマンションにちとせが住んでいることはるりあに言っていなかったので、ただ、ただ、不気味で仕方がない。
それは当然態度にも現れて、夏生は不機嫌を隠しもせずに、
「何がしたいわけ、お前?」
とるりあに言った。
るりあは首を傾げながら、「何って?」と聞いてくる。
「人の婚約者の家に勝手に上がり込んでどういうつもりだよ」
「夏生くん」
ちとせが咎めるように夏生の名を呼ぶ。
それがまた腹立たしく、チッと夏生は舌打ちした。
三人で囲む食卓なんて、ちっとも美味しくない。
追い出したい気持ちで一杯なのに、何故かちとせが追い出さないので、家主ではない夏生にはどうしようもない。
(胸糞悪い)
本当ならちとせと二人で食べたいと思っていたデザートは、家の冷蔵庫に置いてきた。
今は、目の前にいる、るりあが邪魔で仕方がない。
しかし、それを態度で示しても、るりあは動じない。
「西脇さんの家にご飯食べに来てるんでしょ? 今度は私が夏生くんの家に作りに来てあげるから」
「しなくていい。ちとせのご飯以外食べたくないし」
話の噛み合わなさに、いい加減、切れかけた時、ちとせが思いもかけないことを言う。
「夏生くん、彼女にそんなこと言ったら駄目だよ」
「は?」
ちとせの方を凝視してしまう。
ちとせは曖昧な微笑を浮かべながら、
「夏生くんの恋人、でしょ?」
と言った。
夏生は金属特有のガシャリとした音を立ててスプーンを置くと、るりあを睨む。
「何を言ったの、お前?」
るりあは微笑む。
「私が夏生くんの恋人だってことと、夏生くんと寝たことがありますって言ったよ?」
それのどこが悪いの?と言わんばかりの顔に、怒りは軽く沸点を超えた。
「誰が誰の恋人?
おまえ、頭わいてんの?
おまえと恋人なわけないだろう」
(まじ、無い。この女)
今まで別れると厄介な女が何人かいたが、るりあもそれと同じだった。
夏生と別れる時はあっさりしているくせに、暫くすると中毒患者のように夏生をまた求め始めるのだ。
そんな輩も、暫く無視すれば収まるのだが、るりあのこの奇天烈さが、現状、夏生ではなく、ちとせに向いたことが、堪らなく我慢ならなかった。
「お前、帰れ。お前と付き合う気ないし、こうしてちとせに関わられても迷惑だ」
きっぱりとそう断言すると、るりあが一瞬、顔を歪めた。
「夏生くん......」
縋るような声に、それを振り払うように言い放つ。
「俺、お前のこと、好きじゃないから、こういうことされるの、凄いうざったい」
断言した瞬間、バンっと強くテーブルを叩かれた。その衝撃に目を見張ると、ちとせがきつい目で夏生を見ていた。
「でも、寝たんでしょ?」
静かな声が、ちとせから発された。
隠しもしない怒りが、声に込められていて、夏生は僅かにたじろぐ。
「それは.......」
言い訳しようとした言葉に、ちとせが被せてくる。
「遊びとか、女の子を馬鹿にした態度、とらないように私、言ったよね?」
ちとせの言葉が耳に痛い。
「ちとせに言われてからは寝てない」
必死に弁明しようとしたが、
「そういう問題じゃない」
と切り捨てられた。
「さっすが、西脇さん」
嬉しそうに相槌を打つるりあを殴りたかった。女を殴ったことはなかったが、それくらい
苛々した。
しかし、そんな夏生の心を見透かしたみたいに、ちとせが言う。
「そんな態度じゃ、好きだって誰に言ったって、通じないよ」
「........」
それは暗に、夏生がちとせにした告白さえ無効にする、ということを示していた。
夏生がちとせを見つめると、ちとせは強い眼差しで夏生を見てくる。
夏生の返答次第では、もうこの部屋に入れてくれないといわんばかりの態度だ。
夏生はちとせを見た。
それからゆっくりと視線をるりあにも移す。
るりあは自分の作戦がうまくいったと思っているのだろう。満足げな顔でこちらを見ていた。
(まったく......)
たった一度しか寝てない女。
浅間の血に惹かれた女。
そんな女なんて、もっといっぱいいる。
それでも、その女たちがどうしようもない、と夏生には思えても、ちとせには思えないのだろう。
(俺が好きなのは、ちとせなのに)
夏生はるりあをもう一度見る。そして、今度は睨むのではなく、真剣な表情でるりあに言う。
「都賀さん。申し訳ないけど、都賀さんと付き合うことは出来ない」
「何、それ? 馬鹿にしてるの?」
るりあの声が震える。
それでも夏生はしっかりとるりあを見て、告げる。
「もうちとせ以外の女を選ぶ気にはなれないし、こうして来られても、もう二度と都賀さんと寝ることもない」
「いや.......。私、諦められない」
静かに首を横に振られ、夏生は何でそこまで、と内心、思った。
しかし、その横でこちらを真剣な顔で見ているちとせを見ると、怒りは沸いてこなかった。
(俺のせいか)
『何しても、それは自分の意思で決めた自分の責任でしたことなのに、人のせいにするでしょ?』
そう、ちとせに言われたのはいつだったろうか。ちとせはそんな夏生が子供だと言った。
あの時はいまいち意味が分からなかったが、今は何となく分かる。
こんな風に昔の女に絡まれて、好きな女の前でみっともない状態になった原因は、るりあではない。
浅間の血でもない。
夏生自身の浅はかさ、だ。
ちとせの目は、そんな夏生の甘えを、今度は許してくれそうになかったし、夏生だって許してもらいたいとは思わなかった。
だって、ここでちとせに許されてしまったら、夏生はもうちとせを好きでいる権利さえ放棄することになる。
それだけは避けたかった。
夏生は息を深く吐き出すと、テーブルから僅かに離れ、姿勢を正す。足を折り、正座をし、それから額をゆっくりと絨毯に押し付けていった。
しん、と部屋の中が静まり返る。
「都賀さん、申し訳ありませんでした」
深々と頭を絨毯にこすりつけたまま、夏生はよく響く声でそう言った。
部屋にいた二人が息を飲んだのが分かった。
「俺の勝手な行動であなたに期待を持たせて、すいませんでした。
だけど、俺はあなたの恋人にはなれません。
すいません、あきらめてください」
それは嘘偽り無い本心だ。
そして、夏生のけじめでもあった。
「いや!」
間髪入れずにるりあが叫んだ。
「夏生くん、私、夏生くんがいいの!
西脇さんだって、夏生くんのこと好きじゃないって言ってたよ?
夏生くん、私にしなよ!」
ちとせが息を飲むのが気配で分かる。
それでも夏生は頭をあげなかった。
「ちとせが好きなんだ。
他の女は考えられない。
ごめん!」
「夏生くんのこと、好きじゃないのに?」
「それでも、ちとせが好きだ」
頭は絨毯にこすりつけたまま、夏生はそう言った。
好きな女の前で、昔遊んだ女に頭を下げる。
何て滑稽で、恥ずかしい。
(だけど、自業自得か)
人を軽んじれば、自分も誰かに軽んじられるのだろう。
でも、夏生がしてきたことで、ちとせに軽んじられるのだけは嫌だった。
自分の態度が悪かったのなら、いくらでも改める。
るりあを軽んじたことが悪いのなら、誠心誠意、謝る。
(だから、俺のこと、見限らないでほしい)
「西脇さん、言ってあげてよ。
あんたなんか、絶対、選ばないって」
るりあが強張った声でちとせにそうせがむ。せがむというより、命令に近い。
ちとせはどんな顔で夏生を見ているのだろう。
少しの間、その場に沈黙が宿る。
「西脇さん?」
苛立った声でるりあがちとせを呼んだとき、ちとせはるりあに向かって言う。
「この紙、都賀さんが書いたのかな?」
少しだけ顔をあげると、ちとせが一枚のくしゃくしゃになった紙を、るりあに突きつけていた。
そこには、『返せ』と殴り書きが書いてある。
「何のことですか?」
るりあが唇を尖らせて素知らぬ振りをするが、それは傍目から見ても白々しかった。
ちとせは一度息を吸うと、吐き出す勢いで言う。
「夏生くんを『返せ』って、こと、か」
納得したかのような声色で、ちとせはそう独り言のように呟くと、しっかりとるりあを見た。ちとせの、意志の強そうな瞳に、一瞬、夏生は見惚れる。
「夏生くんは物じゃありません。
好きなら正々堂々、正面から来なさい。
夏生くんがこうして面と向かって都賀さんに言っているのに、あなたのその態度は卑怯です。この手紙といい、私を絡め取ろうとする態度といい、確かに夏生くんにも非がありますが、あなたにも非はあります」
凜とした声。
揺るがない考え方。
そんなちとせを、夏生は初めて見た気がした。
いつも隼生のことで悩み、苦しむちとせしか見てこなかった。
たけど、隼生のことが関わらないちとせはこんなにも真っ直ぐで強いのか、と初めて気づく。
(好きだ)
二度惚れとでも言うのだろうか。
馬鹿みたいに、そんなちとせに胸が高鳴る。
るりあは顔を真っ赤にさせて唇を噛みしめると、手を振り上げる。その手は躊躇いなくちとせに振り上げられ、ちとせがそれを自分の手で防ごうとする。
バチン。
がシャン。
音が二つ。
食器の置かれたテーブルに跨いで、顔をつきだしたのは、夏生だ。
そして、その頬にるりあの手が遠慮なく振り下ろされる。
「痛っ......」
しかもテーブルをまたいだから、腹の下に麻婆豆腐がべったりくっついている。
「殴るなら俺にしてくれ」
「.........」
るりあは真っ赤な目で夏生を睨むと、立ち上がり、「最低」と呟いた。
「最低、最低、最低!!」
そう言いながら、るりあは夏生が腹に潰してない麻婆豆腐の皿をとると、それを躊躇うことなく夏生の頭にかけた。
「もう冷めた。あんたなんか、その説教臭い年増が丁度いいんじゃないの?」
麻婆豆腐だらけの夏生を冷たい目で見下ろすと、るりあは鞄とコートを手に持って、何も言わずにちとせの部屋から出て行く。
バタンっ!!
とかなり乱暴に音を立てて、ドアが閉まる。
しばし呆然としていると、ちとせが「タオル」と小さく呟いて、洗面所に走っていった。
そしてタオルを何枚か持ってくると、夏生に渡す。
「麻婆豆腐臭い.......」
頭を拭きながらそうぼやくと、ちとせが苦笑いを浮かべて
「仕方ないよ」
と言った。
「凄い修羅場だったね」
「ごめん、ちとせ。
ちとせに言われたとおり、きちんと女の子に接していたらこんなことにならなかった」
情けなくて目を反らすと、ちとせがタオルの上からポンポン、と夏生の頭を叩いた。
言葉はなかったけれど、その仕草が嬉しくて、されるがままになっていると、ちとせが柔らかな声で言う。
「少しは成長したんじゃないの?」
今、修羅場を演じたばかりだというのに、ちとせのその一言で舞い上がる。
「だけど、また彼女と何かあっても、私はもう関わらないから、自分で何とかしなさいね」
きっぱりとそう釘を刺され、夏生は「分かった」と返事をした。
るりあの先程の様子から何かされる可能性は低い気がしたが、それでも真摯に対応していくしかないのだろう、と覚悟は決めた。
「そのままじゃ、あれだから、部屋戻って着替えてきたら?」
粗方麻婆豆腐を拭いた後、そうちとせが提案してきた。
「ここで風呂借りた.......」
「麻婆豆腐、もう一杯、いく?」
「着替えてきます」
渋々そう言いながら立ち上がる。
と、立ち上がった足元に零れた豆腐があって、ズルッと踵がすべる。
「わっ!」
「夏生くん!」
ちとせが手を伸ばしたが、届かない。
そのまま背後のラックに突進し、勢いよく小物が夏生の上に落ちてくる。
踏んだり蹴ったりとは正にこのことだ。
「痛ぇ......」
腰を抑えながら顔をあげて、
ふと、
違和感を覚えた。
(何だ?)
何とも言えない違和感。
何かがおかしいと思えてちとせを見た瞬間、違和感の正体に気づいた。
ちとせが、青ざめていたからだ。
この前もそうだった。
牛乳を零した時。
あの時も、こんな風に青ざめていた。
それは、多分、夏生が転んだからとか、牛乳が零れたからではない。
「ちとせ......」
名前を呼ぶと、ちとせは困惑した顔を必死で取り繕うとするが、それより先に夏生が問いかけていた。
「力、どうした?」
その言葉に、ちとせが顔色をなくした。




