12 ため息、3つ
「また......」
8時過ぎに家についたちとせは、一階のポストではなく、自分の部屋の郵便受けに直接差し込まれた手紙にウンザリとする。
書いてあることは毎回同じだ。
『返せ』
「できるもんなら、してるっつうの!」
部屋に入ってすぐに、ぐしゃぐしゃと紙を丸めてゴミ箱に入れる。
気持ちが悪い。
何を返せというのだろうか。
そう思って、一番すぐに思い浮かべるのは、隼生から貰った力のことだ。
勿論、力のことは誰にも言ってないし、外で使ったこともない。
それでも、こうしてただ、『返せ』とだけ書かれると、不気味さだけが増す。
「まあ、何かしても何とかするけどさ」
そう一人ごちに呟いた一言が酷く嘘臭く思えた時だった。
ピンポンとインターホンが鳴る。
「はい」
モニタを確認すると、夏生がカメラを見ながら立っている。
「俺。ちとせ、残業お疲れさま」
どこか似ていて、そしてどこか遠い。
愛しい人の声と近い音色に、ちとせの胸がジクジクと痛む。
「晩御飯、食べてないなら、一緒にどう?」
ガサガサと音がする。その手にコンビニのものらしき袋が見えた。
それじゃ、栄養が偏るよ!と思ってしまうのは、きっと、夏生を弟のように感じているからだろう。そうに違いない。
ご飯は食べてきていない。
そこまで忙しくはなかったし、そこまで残業するほどの仕事量でもなかった。
それでも、残っていたのには当然理由がある。
「夏生くん、ごめん。食べて来ちゃった」
嘘臭いセリフだと我ながら思ったが、それで通すと、ドアの向こう側で、夏生が苦笑する。
「そっか。ゼリーとかいる?」
「大丈夫。お腹いっぱい」
「あんま無理すんなよ。落ち着いたら、メールくれよな」
優しく労ると、そのまま、夏生はドアに背を向けた。ちとせはピッとインターホンのモニタを切る。
残業だからと気を遣ってくれているのだろう夏生に、罪悪感で胸が一杯になる。
「ごめんね、夏生くん」
ちとせはポツリとそう呟いた。
そして、くるりと今帰ってきたばかりの部屋を見る。
電気だけは辛うじてつけた。
テレビもファンヒーターも点かない。
点けられない。
ちとせはふう、と小さくため息を漏らした。
☆☆☆
夏生がふう、とため息を漏らすと、創がニヤニヤしながら問いかけてくる。
「巨乳年上婚約者と喧嘩?」
昼休みぐらいおとなしくしてろと言いたかったが、創の口に戸は立てられない。
夏生は、ジロリと創を睨んでから、最後の一口のパンを口にほおりこむ。
そして、「飲み物買ってくる」と席を立つと、頼んでもないのに創も立って「俺も」と言ってくる。
「じゃあ、俺、カフェオレ」
立った創にそう言って座り直せば、創は驚いた顔の後、「ひでぇ! 一緒にいこうよー。なつおくぅん!」と気持ち悪い猫なで声で言った。
「いや、ひとりで行け。そして遠慮なく俺の分をお前の小銭で買ってこい」
「俺が奢るの?!」
「は? お前の財布を遣うのに、お前の許可がいるのか?」
「!!!!」
創が「どS!?」と半泣きになりながら、それでもジュースを買いに行く。間違いなく自分の金で夏生の分も買ってくるだろう。
(ぜってー、あいつがどMの間違いだろ)
今も真顔で創の財布を自分の扱いした瞬間、創がにやぁと口元を緩めたのを夏生は見逃さなかった。
取り敢えず、これ以上創を図に乗らせると怖すぎるので、買ってくるであろうカフェオレの代金を創の机にガムテープで張っておく。
ベタベタのガムテープはさぞかし嫌だろうが、きっと、創は少し喜ぶだろう。
「浅間君、凄いね」
ガムテープを張り終えた夏生にクラスメートの女子が話しかけてくる。
「そうか?」
「絶対、郡司君、喜ぶよ?」
クスクスと嬉しそうに笑う女子は、夏生に全く興味を示さない。普通に会話はしてくるが、それ以上はない。
それが当たり前なのに。
一部の女だけが、過剰に夏生に、反応する。
(浅間の血のせいだろうな)
まあ、それに便乗する自分も自分だが、それでももう少し、普通の女に好かれたいと思わずにはいられない。
「おーい、浅間、呼び出し」
ドア近の席の男子にそう呼びかけられた。
先程、女子と話したその背後で、一瞬、視界に入った女も、やはり過剰反応の一人に違いなかった。
夏生は面倒臭げに立ち上がると、ドアの方まで行き、そこで待つ、都賀るりあに問いかける。
「何か用?」
夏生でなくても、どんな男でも選べそうな綺麗な女は、それでも夏生を選ぶのだろうか。
るりあはにっこりと艶めいた笑みを浮かべてから、「少し、いい?」と聞いてきた。
「ここでいいんだけど。特にあんたと話したいことないし」
そう返せば、あからさまにるりあは傷ついた顔をする。自分で夏生の不名誉な噂をばらまいた癖に、全く、理解不能だ。
「わ、私はここよりももっと......」
「ここで言えない内容なら聞きたくないし。
それに人のこと、勝手に噂しといて、よく顔出せたね?」
カアッとるりあが恥ずかしさではなく、頬を赤らめた。
「夏生くん、今日、一緒に帰らない?」
それでも媚びを売るでもなく、誘いをかけてくるその厚顔さには、舌を巻く。
(何でかなあ)
どの女もみんなそう。
夏生に寄ってくる女は、皆、何かに惹きつけられているかのような目で夏生を見る。
最初は、それが自分の魅力なんだろうと、自惚れもしたが、もうそんな生活も長く続けばいい加減分かる。
女たちは無意識に浅間の血に惹かれているのだ。
そこに、『夏生』である意味なんて必要はない。
(ちとせなら嬉しいのに)
隼生に惹かれたちとせは、夏生にも惹かれてくれないだろうか。同じ浅間という理由一つで構わないのに。
そこまで考えて、ちとせは違うだろうな、と内心苦る。
確か、ちとせは、欲しいときに欲しい言葉をくれるのだと隼生を称した。それは浅間の血ではない。隼生の性格だ。
(俺の中身を好きになってくれるだろうか?)
隼生に比べれば、まだまだ人生経験の浅い自分の有利な点と言えば、ちとせの隼生に対する執着を厭わないことぐらいだろう。
それは大きな利点でもあるが、欠点でもある。
「帰り、迎えにいくね」
目の前ではるりあが勝手に話を進めていた。夏生はそれに対し、顔をしかめて、首を横に振る。
「来なくていい。婚約者のとこ行くし」
本当は今日もちとせは残業だと言っていた。大人の都合だし、それに対して辛抱強く我慢はしてみたが、そろそろ限界に近かった。
(ちとせに会いたい)
「この前まで、婚約者なんて蔑ろにしてたくせに」
ちとせに想いを馳せていると、目の前でるりあが低い声でそう言った。
「あ?」
(何なの、こいつ?)
いい加減、苛々してるりあを睨みつけた瞬間、るりあがにっこりと笑った。
ぞっと背筋が寒くなるような笑顔だった。
「帰り、迎えにいくから」
もうそれ以上は言わせない、とばかりに、るりあはそう言うと、くるりと踵を返し廊下を歩いていく。
その後ろ姿はどこか機嫌が良さそうで、夏生は、先程とは別の意味でため息を逃さざる得なかった。
放課後、チャイムと同時に夏生は席を立つ。
るりあが来るのなんて、冗談じゃないと思ったからだ。
「夏生、都賀さん、来るんだって?」
その場に居なかったはずの創がニヤニヤとそう聞いてくるので、夏生はうんざりした顔をしながら、
「来てもいないって言っとけ」
と言った。
「色男は大変だ」
「うるせー」
それだけ言うと、うんざりしたまま、家路へ急ぐ。幸い、るりあに捕まることもなく家に着くと、夕飯の買い出しにコンビニへ行く。
めぼしい物を買った後、デザートだけは2つ買った。今日ちとせが会社で食べていても、それ位なら食べられると思ったからだ。
(あげてもらえるといいんだけどな)
いつも遠慮なくズカズカと上がり込むが、仕事が関わってくると、社会人経験のない夏生には、何も言えなくなる。せめて足手まといになるのだけは避けたいので、夜も遊びに行かなかったが、休日も『疲れているから』といわれ、1週間以上それがつづいてしまうと、我慢できなくなる。
(どんだけ、俺、ちとせに入れ込んでるんだよ)
別に何かしたいわけじゃない。
いや、できるものならしたいけど、そういう短絡的なものでなく。
ただ、会いたい。
そのシンプルな形が、非常にこそばゆい。
自宅にもどって冷蔵庫の中に、二つのデザートを並べて、一人頬を緩め、夕食を食べ、ぼんやりテレビを見て、8時に、
(あと30分して8時半に会いに行くか)
と思った時だった。
ピンポン、と音が鳴る。
夏生の部屋もちとせと同じくモニタ付きのインターホンだ。
「はい」
と返事をしてモニタ確認すると、女が映っていた。
その顔に、夏生は眉をひそめる。
画面にはるりあが映っていた。
「夏生くん、きたよ」
「は? 帰れ」
(何しに来てんの、こいつ)
ゾッとしながらインターホンの回線を切ろうとした瞬間、
「夏生くん......」
聞き慣れた声がして、目を見張る。
るりあの後ろにもう一人、女がいたのだ。
困惑した顔の、るりあよりは年上の女。
「マジかよ」
急いで玄関にいき、ドアを開けると、るりあが満面の笑みでこちらを見ていた。
「迎えにきたよ、夏生くん。これから西脇さんのお部屋でご飯、食べましょう?」
るりあの背後で、何とも言えない顔のちとせが立っていた。




