11 それが意味するもの
ピンポン、とインターホンを鳴らす。
自動応答なので、室内の音がジジジジと聞こえてくる。
「ちとせ、俺」
と呼びかけると、ちとせはわざとらしくため息をついてから、
「俺という名前の知り合いはいません」
と定番の返しをくれた。
「見えてるでしょ?」
「見えません!」
ムキになっているちとせの声を聞きながら、夏生はクククッと笑ってから、次の言葉を紡ぐ。
「ちとせのことが好きで好きでたまらない婚約者の夏生様がきましたよー。
ちとせ、好きだよー。愛してるよー」
大きな声でインターホンに向かって言っていたので、中で慌ててドアに駆け寄る音と、ガチャガチャと鍵を開ける音がして、ちとせが真っ赤な顔でこちらを睨んでいた。
「玄関先で変なこと喚くなっ!」
「変なことなんて喚いてないけど。
あ、これ実家からハムと野菜。夕飯に使えって」
「ありがとう...って、勝手にあがるなぁ!!」
ちとせがキャンキャン喚くが、子犬が鳴いてるようなものにしか思えない。
「お、今日おでんなんだ」
キッチンから漂ってくる匂いに、口元を緩めれば、
「夏生くんの分はありません!」
とちとせが叫んだ。
「え? あんな大鍋で一人分のつもり?」
台所に入って鍋を見れば、様々な具の中に、卵が4つ。
どう考えても、一人分には見えない。
「卵、二個ずつか」
「違います! 私が全部食べるんですぅ!」
高校生相手だというのに、ムキになるちとせは食べたくなるほど可愛い。自然と微笑みながらちとせを見れば、ちとせは顔を赤くして、目を反らす。
「この前から何なの、夏生くん?
す、すきだとか、愛してるとか、絶対何か悪いもの食べたでしょ?」
ちとせの声を聞きながら、まるで自宅の冷蔵庫同然にドアをあければ、牛乳がきちんとある。
ちとせ一人の時にはなかったものだ。
夏生が牛乳好きだとねだってから、ちとせの家に牛乳が常備されるようになった。
夏生はそんな些細なことに浮かれながら、コップを取り出し牛乳を注いで飲む。
「悪いものって、ちとせの飯しか食ってないし。それより、ご飯、食べていい?」
夕飯の準備は、既にご飯をよそって、おかずを並べるだけのようだ。いつものように食器を並べる準備を始めると、ちとせが諦めたようにため息を吐いた。
「私、夏生くんの恋人とか、奥さんなんて、絶対ならないからね」
「今はいいよ」
(その先は分からないけど)
自分でも、どうしてここまで入れ込んでしまったのか分からない。自覚したら、本当に、穴にストンと落ちたみたいに、好きになっていた。
「女の子といっぱいつきあってるくせに、何で私まで口説こうとするかなあ」
「もう、そういう面倒なのは、全部清算してるから、今はちとせだけだ」
「あんた、怖いよ! 16でその台詞、どうなのっ?!」
ご飯を食べながらも、さり気にちとせを口説くが、ちとせは全く相手にしてくれない。
それでも、ダダ漏れてくるものがあるので、夏生は漏れるままに、ちとせに言う。
「ちとせ、好きだ」
とうとう、ちとせがガンっとテーブルに額を打ちつけた。そして額の中心を赤くしながら、夏生を睨みつける。
「私は隼生さんしかいないの」
「隼生さんごと、ちとせのこともらってやるよ」
ちとせは困惑した顔をする。次に何を言うのか丸わかりだ。
「あんまり変なこと言うなら、もう...」
「先のことは先延ばしでいいよ。
ただ、俺がちとせを好きなだけだし。
ちとせはいつも通りにしててよ。
あのおっさんにだって、口説かれてるけど、普通に接してんだろ?」
「白土さんはっ......!」
痛いところを突かれたらしく、ちとせはおでんの大根をつつきながら、ぐうっと変な声を出した。
(マジでかわいいな)
夏生と白土、どちらも断って無視すればいいだけなのに、変なところで平等であろうとする。
素直というか、馬鹿というか。
そのくせ、根っこの部分では揺らがないのだから、嫌になる。
(どんだけの男だったんたよ。隼生さんて)
「ちとせは隼生さんのどこに凄く惹かれたの?」
興味が湧いて問いかければ、ちとせはまた戸惑った顔で夏生を見た。夏生の真意をはかりかねているのだろう。
自分が好きだと言いながら、他の男のどこに惚れているのか聞く夏生の真意を。
夏生はニッコリと満面の笑みをちとせに返す。
(わざわざ理由なんて教えない)
白土という男が、ちとせに隼生を忘れようと促せば促すほど、ちとせは隼生を忘れないだろう。
だけど、夏生は知っているのだ。
生きている人間が死んだ人間にはどう足掻いたって適わないように、死んだ人間もまた生きている人間には適わないのだ。
忘れたくなくても、どうしても覚えていたくても、記憶は色褪せていく。過去のものになっていく。
それを知っているから、夏生は無理にちとせに隼生を忘れさせようとしないだけだ。
忘れたくなくたって、隼生がどんな風に感じ、想い、笑ったかなんて、この優秀な人の脳は、忘れさせていく。
そして、自分の中に刻まれたものだけが残っていく。
そんなこと話したって、きっと今のちとせには分からないだろうから、夏生は言わない。そんな自分を卑怯だとは思わないし、優しいとも思わないが。
「隼生さんはね、凄く欲しいときに欲しい言葉をくれるの」
ちとせがポツリと言った。
皿の中のおでんの卵をほじくりながら。
「私がカラッカラの時、水をくれるみたいに、凄く私が欲しかった言葉をくれるの。
別に格好いい言葉とかじゃないよ。
当たり前の、ささいな言葉。
ああいうタイミングの良さって理屈じゃないと思う」
(いい顔しちゃって)
ちとせの隼生を好きな部分は、きっと感覚的なものなのだろうと思った。理屈じゃない。
本能みたいなものだろうか。
「いいんじゃない」
「え?」
ちとせが顔をあげる。夏生はそんなちとせに微笑み掛けながら、返す。
「理屈じゃないところが、ちとせらしい」
本当にそう思った。
ちとせは一瞬、ぽかん、と夏生を見てから、サアッと顔を赤らめた。そして、
「ぎ、牛乳、持ってくる!」
と叫んで、台所に走っていく。
「ほんと、可愛いな、おい」
誰に言うとでもなくそう呟くと、台所で、
「ぎゃっ!」
と可愛くない悲鳴が聞こえた。
「ちとせ?」
立ち上がり台所へ向かうと、ちとせが青ざめた顔で床を見ていた。
床一面には、零れた白い牛乳。
「なんだよ、動揺した?」
苦笑しつつ、ちとせを見て、夏生は息を飲む。
ちとせは真っ青な顔で床を凝視していた。
身動き一つせずに。
「ちとせ?」
ちとせはハッと顔をあげると、
「ごめん、こぼした!」
といつもの笑顔を浮かべていた。
「ぶ。牛乳こぼしたぐらいで死にそうな顔、するなよ」
「だ、だって、床、臭くなるじゃん!」
「すぐに拭けば大丈夫だろ?」
ちとせが床用の雑巾を持ってきて拭きはじめる。夏生は空になってしまった牛乳を流しに起きながら、
「その雑巾、捨てるようだな」
なんて、のんびりぼやいた。
床を拭くちとせがどんな顔だったかなんて知りもせずに。
零れた牛乳。
それが意味すること。
そんなこと、夏生には分からなかった。
夏生だから、分からなかった。
翌日、ちとせから『暫く残業が続くので、夕飯を作れません』というメールが届いても、分からなかった。
★★★
どうして、その少年に惹かれたのか。
パッと見、素晴らしく綺麗なわけでも、格好いいわけでもない、普通の少年。
だけど、彼の笑顔やふとした仕草に、何人かの女生徒は、ハッと息を飲んで一瞬見惚れるのだ。
都賀るりあにとっても、その少年、浅間夏生は、何となく惹かれてやまない存在だった。
男性に対して奔放であったつもりはない。
だけど、望まれれば身体を開く。
それで相手が自分のものになるのであれば、何だって惜しまない。
だから、告白したその日に、夏生から求められたことも、内心戸惑いはしたが、夏生が自分に惹かれてくれるのであれば、構わないと思ったのだ。
まあ、その後、夏生の電話で婚約者に電話したことは多少やりすぎた感は否めなかったが、触れれば触れるほど、夏生に惹かれてしまったから、どうしようもない衝動だった。
それくらい、自分でもどうしてそこまでと思うほど、簡単に夏生に惹かれていたのだ。
だから......。
「ちとせのことが好きで好きでたまらない婚約者の夏生様がきましたよー。
ちとせ、好きだよー。愛してるよー」
こっそりと夏生のマンションに向かったるりあは、エレベーターを使わず階段を登っていた。普段からダイエットも兼ねて、階段はつま先で、エレベーターがあっても階段を、と意識していたからだ。
そうして、夏生の住む階に向かう途中で、るりあは聞いてしまったのだ。
夏生の声を。
聞いた瞬間、吐きそうになった。
震える足で、階段からその階を覗き見れば、一つの部屋の前で、楽しそうに笑う夏生の姿。
自分がどんなに彼の不名誉な噂を流しても、夏生は全く顔色一つ変えなかった。怒りも呆れも、笑いもしなかった男が、そのドアの前では、相手の顔が見えてないのに、嬉しそうに破顔している。
「玄関先で喚くなっ!」
そう言いなからドアを開けてきたのは、若い、だけど、明らかに社会人の女。
それが婚約者なのだと分かると同時に、気が狂いそうになる。
婚約者の住むマンションで、平然と自分を抱いたのか。そして、切り捨て、自分はさも当たり前に婚約者に愛を告げるのか。
るりあは壁に爪をたてる。コンクリートに塗装された壁を削るように力を込めて、爪先が白くなるほど、爪を立てる。
どうして、今日、自分はここに来てしまったのか。
意味なんて分からない。
理由さえつけられない。
ただ、夏生を見たかった。
「......」
夏生のあの、柔らかい笑顔も、甘い囁きも、自分は一度たりとて貰えなかった。
睦言の合間にさえも、だ。
るりあは震える足で、その部屋を確認する。
『西脇』と表札には書かれていた。
その日、るりあは思い知った。
何故、男を寝取られた女が、相手の女を憎むのか。
理屈じゃない。理屈ではなかった。
あの男を、私だけのものにしたい。




