9 ちとせ、好きだ
「冬深、明日、どっか出かけるの?」
旅行カバンに物を詰め込んでいる冬深に、夏生が話しかけた。
冬深は夏生を見上げると、ニカッと笑って、
「お父さんとキャンプ」
と返す。
「ずりー!! 何で? 何で俺いけねーの?!」
台所で家事をしている智香子が騒ぎに気づいて顔を出す。そして、夏生の不満げな顔に、
「冬深、夏生には明日まで黙ってなさいって言ったでしょ?」
と呆れた声で言えば、冬深はハッと口を押さえて、「忘れてた!」と言った。
「お母さん、何で冬深だけ、お父さんとキャンプなの?!」
「お友達に誘われたんですって。運転手が足りないからお父さんも行くのよ」
「だったら、俺も行きたい!」
「小学生はだめー!」
自分が中学生だからって、冬深はそんなことを言う。自分だって去年までは小学生だったのに、中学生になった途端、偉そうにする冬深が、最近夏生は嫌いだった。
「俺だって再来年には中学生だしっ!」
「まだまだ先じゃん」
「ずりぃーよ! 俺も行きたいよ!」
夏生が喚いていると、トイレにいっていた父、節生が笑いながらリビングに入ってくる。
「トイレまで聞こえたぞ」
「お父さん、俺もキャンプつれてってよ!」
節生は夏生の頭をくしゃりとかき混ぜながら、「そうだなあ、じゃあ、お盆休みに行くか?」と提案してくれた。
「お盆なら、春生も帰ってくるだろうし、秋生も部活ないだろう」
既に大学生で家にいない長兄と、高校生で部活が忙しい次兄の名前を出して、節生が智香子に提案すると、智香子は苦笑しながら、
「そうねぇ、お盆なら、大丈夫かもね」
と言った。
「やったー!!」
飛び跳ねて喜ぶ夏生に、冬深が「ガキ」と呟いたが、夏生はそんな冬深に向かって、あかんべぇをする。
「へへん。おばちゃんたちのキャンプなんか勝手に行ってくればあ?」
「ちょっと、おばちゃんって何よ!」
「中学生なんておばちゃんじゃん!」
「夏生ぉ!!」
節生の周りをドタバタと姉弟で追いかけっこが始まる。
冬深は中学生の割には、足が遅い。夏生は得意気に笑いながら、
「おばちゃーん!」
とはやしたてた。
「夏生、待てー!!」
冬深の声で、夏生はパチリと目が覚めた。
辺りを見回すと、ほんのり薄暗い。
時計を確認すれば、朝の6時過ぎだ。
(夢、か......)
随分久しぶりに、父と姉が夢に出てきた。しかもその内容は現実にあったこととは若干違った。
確かに姉である冬深はキャンプに行ったが、夏生には内緒で出かけたのだ。
当日、父と姉の不在で初めてそれを知って、母親に怒った。母親は代替案としてお盆のキャンプを提案した。
それは適わないものとなってしまったが、何故、有り得ない過去が夢に出てくるのかと思うと、苦笑いしか浮かんでこない。
行かないでと、あの時言えたら。
一日前に知っていたら。
何か変わっていたのだろうか、という無駄な期待が夢に現れたのだろう。
(ったく。母さんがいきなり来るから)
母、智香子は一泊すると思いきや、夏生の
部屋を確認すると、終電で帰って行った。
「布団もない部屋で、むさ苦しい息子と二人ベッドに添い寝する気はないわ~」
なんて、カラカラ笑っていた。相変わらず、糸の切れたタコのようにどこへでも飛んでいく人だな、と我が母ながら感心してしまう。
おそらくそんなことがあった翌朝だから、こんな夢を見たのだろう。
二度寝する気にもなれなくて起き上がると、そのままキッチンへ向かう。
「あ~、ゴミの日か」
キッチンには昨晩まとめておいたゴミがある。このゴミの日というものは、一人暮らしになって初めて経験したが、意外に面倒くさい。ゴミだしは前夜出しなんて絶対禁止だし、当日朝だって6時から8時までと決められている。
朝がそんなに早くない夏生は、いつもギリギリにゴミを捨てていた。
時計を確認すると六時五分前だ。
降りていけば、丁度六時にはなるだろう。
夏生はボリボリと頭をかくと、欠伸を一つ、かみ殺し、ゴミ袋を手に持った。
寝るときはグレーのスゥエットなので、このまま出ても多少だらしないくらいで、それ程気にはされないだろう。
朝はまだ寒いから、黒のダウンを着込んで、ゴミ袋を手にゴミ集積所に向かう為に家を出た。
何も考えずにエレベーターに乗り、1Fのボタンを押す。朝も早いし直通だと思ったのだが、エレベーターは1階下で直ぐに停まった。
「あ」「うっ!」
エレベーターが開いた瞬間、お互いに声が出た。乗り込もうとしたのは、ちとせだった。
「おはよう、ちとせ」
《開》ボタンを押しながらそう言えば、ちとせは乗るのを一瞬躊躇った後に、「おはよう」と言って、中に入ってくる。
ちとせの手にもゴミ袋。
考えることは同じらしい。
「早いね」
「う、うん。何か目が覚めちゃって」
「俺もそう」
ちとせは着替えてはいたが、スッピンで、髪の毛も少しはねていた。人に会うと思わなかったのだろう。少し落ち着かない感じで夏生とは目を反らして、跳ねた髪を撫でている。
(恥ずかしいのかな)
いつも姉ぶっているから、スッピンが恥ずかしいのかもしれない。
だけど、横目で盗み見たちとせのスッピンは、殆どいつもと変わらない感じで、ただ、化粧がない分、子供っぽくさえ見えた。
「どんな夢見たの?」
「ん?」
珍しくちとせが質問してくる。
別に知りたい訳ではないのだろう。
この密室にいるこの微妙な時間が、なんとなく居たたまれないんだろうな、と直ぐに察することが出来た。
「姉と父親の夢。昨日、母親来てたせいだな」
そこまで言って、ハッと気づいてちとせに言う。
「昨日はいきなりうちの母親がごめん」
「ううん。一緒にご飯作れて楽しかったよ」
ちとせが微笑む。その笑顔に嘘はないように見えたが、どこか元気がない。
そうこうするうちにエレベーターが1階に着き、二人でゴミ集積所まで向かう。カラス除けの箱の蓋をあけて、互いのゴミを入れ、再びエレベーターに乗る。
エレベーターはまた、というか、やはり、二人きりで乗ることになる。
ドアが閉まった瞬間、あまりこちらを見ないちとせに、
「もしかして、隼生さんの夢でも見た?」
と確認すると、ピクリとちとせの肩が震えた。
(本当、分かり易いよなあ)
こんなに分かり易くて、どう生きてきたんだか、と自分より8歳も年上なのに思ってしまう。
ちとせも夢を見て、目が覚めて、何とも言えない気分になったのだろう。
だって、夢の中では、その人たちは死んでない。普通に会話し、生きている。
そんな夢の後の現実は、酷く疲れる。
「ちとせ」
夏生がそう呼ぶと、ちとせは目を伏せたまま、「何?」と聞いてくる。
「家で朝ご飯食べてく?」
「え?」
ちとせが顔をあげた。
視線が合った目は、少し赤い。
(ひとりで泣くなよ)
何時に隼生の夢を見たのだろう。
そして何時に起きたのだろう。
少なくとも、夏生より早い時間に起きて、そして泣いたのは確かだ。真っ赤でないのは、時間が経っているからだろう。
エレベーターがちとせの階で停まったが、夏生はすぐに《閉》ボタンを押す。
「夏生くん! いいよ、朝ご飯は」
「いいから」
強引にちとせを自分の部屋に連れて行く。
エレベーターを降りてもちとせは抵抗しないで、夏生に腕を引かれて、夏生の部屋に入る。
部屋に入った瞬間、夏生はグイッとちとせを抱き寄せた。
「夏生くん?!」
戸惑うちとせの声。その声に被せるように、優しく囁く。
「ちとせ」
一体、自分の声はどれ位、隼生と似ているのだろう。
どれ位、自分の身体は隼生と近いのだろう。
少なくとも、全く違うというわけではないのは、腕の中のちとせの様子で分かった。
名前を呼んだ瞬間、肩がピクリと動いて、それからユルユルと手が躊躇うように夏生の背中に回される。だけど、背中をつかむことはない。
「どんな夢見たの、ちとせ?」
優しく尋ねると、ズズッと鼻をすする音がした。
ちとせは震える声で言う。
「隼生さんに好きだって、言われた...」
(また、それはしんどい夢だな)
どれだけ願っても、もうそう言われることは適わない。それでも在りし日の思い出は、自分の中にきちんとあるから、繰り返される。
あの時、何かしていたら。
あの時、どうすれば良かったのか。
死んだ人に対する、あの後ろめたさは、どこから来るんだろう。
「ご、ごめん、夏生くん。ごめっ......」
ギュッと背中のスゥエットを掴まれた。
ちとせが抱きついてくるというより、しがみついてくる。まるで何かに流されないように耐えるかのように。
夏生はぎゅうっと更にちとせを抱きしめて、その耳元に囁く。
「好きだよ、ちとせ」
いつの間にか、好きになっていた。
年上とか、婚約者とか、そんなこと関係なく、ただ、この寂しい人を愛しく思っていた。
「ごめん、夏.....おくっ...わたし、ずるいっ......」
(分かってるよ)
誰の代わりに抱きついているのか、言われなくても分かってる。
夏生が抱きしめている筈なのに、腕の中の小さな人は、夏生だと思わないでしがみついている。
いや、夏生だと分かってはいても、求めているのは違うのだ。
「好きだよ、ちとせ」
もう一度、自分の言葉で囁けば、それは別の意味でちとせに響く。
「隼生さん.....隼生さん、隼生さんっっ!!」
大声を出して泣けばいいのに、肩は震えているのに、ちとせから嗚咽は漏れない。
必死に何かを堪えているその身体が、あまりにも痛々しくて、夏生は自分の力の限り、その小さな身体を抱きしめた。
「ちとせ、好きだ」
自分が誰かに、睦言ではなくそう囁く日が来るなんて思いもしなかった。




