7 生きている限り
「さっむーい! 今晩、絶対雪が降るよね?」
桃の声にちとせも夜空を見上げ、白い息を吐く。
今晩は職場の有志一同での食事だ。
同じ職場の、桃と大島の結婚が決まったお祝い。結婚式自体は6月だが、年明け早々にめでたい話を聞けたので、それではお祝いしようということになって、飲み会が開かれた。
メンバーは職場で28歳同期の大島、白土の男性陣と、女性の中では年長といってもまだ26歳のサチ、25歳の桃、そして一応最年少になる24歳のちとせだ。
ここに一年半前には、男女含めて最年長に、33歳の浅間隼生がいたが、そのことに触れる者はいない。
おそらく皆、ちとせに気を遣っているのだろう。
「じゃあ、今日はお開きってことで!」
「それじゃまた!」
電車組、タクシー組に別れて帰る。
と言ってもタクシーに乗るのはちとせだけのはずだった。
乗り込む瞬間に、白土が乗ってこなければ。
「ちょっ!」
「あ、俺もタクシーにしただけ。
ちとせちゃんの家経由で帰るから」
「家にあげたりしませんよ」
「俺、信用ない?」
「ないです。あ、運転手さん、いいですよ、発車して」
本当は降ろしても良かったのだが、ちとせは運転手に発車を促した。家にあげるつもりは決してなかったし、白土がそこまでする人間ではないことも知っていたからだ。
「大島たち、とうとう結婚かあ」
「そうですね」
「本当なら、自分の方が先にしてたと思ってる?」
「..........」
容赦ない言葉に、言い返すこともなく黙る。
白土はキュッとちとせの手を握ってくる。
「いつになったら、忘れる?」
何を?
誰を?
そんな馬鹿な質問はしない。
その代わりちとせは白土の手を振り払う。
白土は苦笑いして、
「俺って酷い?」
と尋ねてきた。
「酷いですね」
ちとせは間髪入れずに返し、「でも」と付け加える。
「それが白土さんなりの優しさだって分かってます」
辛いままで生きていくことは辛すぎるから、忘れていくことも必要なんだと、そういう考えもあることは、ちとせだって理解している。腫れ物のように触る人たちよりは、余程はっきりしていて、いいとは思う。
「ただ、私にはその優しさを受け入れられないんですけど」
「うわ、誉めて落とされた」
白土が苦笑しながら、もう一度、ちとせの手を握ってきた。
「それでも、そんなちとせちゃんが好きなんですけどね」
そう言った白土の手は珍しく汗ばんでいて、その汗が、彼が言うことが本当なんだと知らせていた。
「あ、運転手さん、すいませんね」
なんて空気に徹していた運転手にわざと振って、運転手を狼狽えさせるのも、白土らしかった。
ちとせはクスクスと笑いながら、白土の手からスルリと自分の手を放すと、
「あ、そこの先の角を曲がったところで」
と運転手に指示を出した。
「あの先のマンションなんだ。今度出待ちしていい?」
「嫌です」
「俺もそんな暇人じゃないからなぁ。
その内、彼氏になったら、寄らせて」
「そんな日は来ないです」
「手厳しいなぁ」
別に白土が嫌いなわけではない。
ただ、白土とは恋愛出来ないからそう言っただけのことだ。
タクシーを降りるとき、自分の下車までの金額を渡そうとしたら断られた。
ちとせは「すいません」と謝りながら、タクシーを降りて、そのタクシーを見送った。
白土は強引に降りてこなかったし、無理もしない。ちとせが隼生を忘れるまで待つ、なんてことも言わない。その優しさを噛み締めながら、それでもその優しさでは駄目なのだ、とちとせは唇を噛み締める。
「おかえり」
自分の部屋に戻ろうとエレベーターを降りた瞬間、部屋の前に立つ人物に声を掛けられた。
ちとせは僅かに動揺し、息をのむ。
部屋の前には、昨日、手酷く傷つけた筈の、夏生が立っていた。
☆☆☆
「......なんで、いるの?」
そうちとせに問われ、夏生は時刻を確認してから、
「もう帰る頃かなと思って」
と答える。
時刻は九時半。大人の飲み会が何時に終わるかなんて、未成年の夏生には分からなかったが、九時過ぎから張ったヤマは外れなかったらしい、と安堵した。
昨日、夏生を身代わりだとのたまったちとせは、まるで図ったかのように今日は飲み会だった。
いつもならそんな日は、夏生はちとせに会わないのだが、昨日の今日だったので、敢えてちとせを部屋の前で待っていた。
「ちとせ」
そう呼んで微笑むと、ちとせの顔がくしゃりと歪む。
(あぁ、しんどい飲み会だったんだな)
それだけでちとせがどんなに頑張ったのか分かったので、手を広げて、
「隼生さんはどんな風にちとせを慰めたの?」
と問いかけた。
ちとせはギュッと唇を一度強く噛んでから、
「身代わりだって言ったでしょ?」
と夏生にかすれた声で言った。
夏生は微笑を称えたまま、
「身代わりだから、今日、来たんだよ。
会社の飲み会に隼生さんがいなくて、寂しかったんでしょ?」
と返した。
いるはずの人がいない。
皆の時間は進んでいくのに、その人の時間だけは進まない。
止まった時間に留まる自分だけが、取り残されていく。
その寂しさも、どうしようもなさも、夏生の知っているものだ。
そして、ちとせがどんな風に慰めて貰いたいのかも、夏生は知っている。
(俺がそうだったし)
「ちとせ、おいで」
何気なく呟いた言葉は、きっと以前に隼生に言われた言葉だったのだろう。
くしゃり。
ちとせの顔が歪んで、我慢していたものが決壊した。
「隼生さん!」
夏生に向かってそう言って、ちとせは飛び込んでくる。
勿論、ちとせだって夏生を隼生だなんて思ってないのだ。そんなことは、十分分かっている。
夏生はちとせを抱きしめて、その頭を優しく撫でてやる。
ちとせからはお酒や煙草の臭いがして、彼女が自分とは全く異なる社会人だと言うことを思い知らされる。
(でも、それでも同じ部分もあるんだな)
浅間の本家が夏生の家に見合い話をもってきた理由が何となく分かった。
似たような傷みを知っているから、夏生の家に打診してきたのだろう。
「忘れるなんて出来ないんだから、しなくていいんだ」
「......」
「忘れられるなら、とっくの昔にしてる。
思い出とかそういう過去の物にするんじゃなくて、あれらはしたくなくてもなっていくものだから」
生きている限り、生きている時間が増えるほど、どうしても忘れたくないことも過去に追いやられる。何度も思い出しても、そこがどんなに鮮やかな記憶であっても、読み進めていくページのように、記憶は重なっていってしまう。
(だから、その時が来るまではいくらだって好きに思い出してもいいんだ)
語りたければ何度だって語ればいいし、身代わりが欲しいなら、いくらだって身代わりになる。
そうしなきゃ、生きていけないときが、ある。
そのことを、夏生は小学生の時から知っていた。
「....んで?」
「ん?」
頭を撫でていると、ちとせが顔をあげて夏生を見上げた。
「子供のくせに、なんでそんなとこだけ大人びてるの?」
涙ぐんだ赤い目は泣かされたことが悔しそうで、同時に一番、ほしい言葉を与えた夏生を不思議がっていた。
夏生は頬に張り付いたちとせの髪を優しくすきながら、
「中に入ったら、話してあげる」
と笑った。
ちとせはここが玄関前だということを思い出して、慌てて夏生から離れると、鍵を取り出しドアを開ける。
そしてすんなり夏生を中に入れてしまう。
(男だと思ってないのかよ)
隼生の代わりだから不用心なのか、内心複雑になりながら、夏生は中に入ると、鞄を置いたちとせをもう一度、後ろから抱き締めた。
「夏生くん!」
今度は子供を叱るようなちとせの声に、
「さっきは自分から飛びついてきたくせに」
と文句を言えば、ちとせは「それとこれは別!」と訳の分からない主張をした。
「寂しいくせに」
「うるさい! 人が弱ってるところに、隼生さんはつけこまない!」
暗に夏生と隼生は違うと、否定する。
分かっているくせに、それでも心のどこかでは隼生に似ているところを探してしまうのだろう。
そうしないと、隼生を忘れそうで怖いのだ。
まるで、自分のことのように、夏生にはちとせのことが分かった。
「それより何でなのか、教えて!」
顔を赤くしながらバタバタと暴れるちとせを抱きしめ、夏生はその耳元に息を吹きかける。
女の子の性感帯ぐらい、熟知済みだ。
伊達に付き合う回数が多いわけじゃない。
「...っ!」
肩を竦ませて身体を強ばらせるちとせの耳元に唇を寄せたまま、隼生に似ているとちとせに言われた低すぎない甘めの声で囁く。
「ちとせが好きだから」
ミシリ。
「ぐはっ」
激痛が左脇腹の肋骨を襲い、後ずさりしてドアにぶつかりながらしゃがみ込むと、ちとせの肘が思いっきり後ろに引かれていることを確認できた。その肘が後ろから抱きしめていた夏生の肋骨にヒットしたのは明らかだった。
「い、今の肘鉄喰らわすところっ?!」
息も絶え絶えちとせを見上げれば、ちとせはすん、と鼻を啜りながら夏生を見下ろすと言う。
「夏生くんの好きは嘘臭い」
「うわ、慰めてやったのにひでぇ」
「慰めに抱きつきはいらないでしょうが」
ドアの前では自分から抱きついてきたくせに、夏生から手を出すのは駄目らしい。
(面倒くせえ女!)
そう思ったが、口元に浮かんでくるのはやっぱり笑みで、そんなちとせが『らしい』と思えた。
「夏生くん、その女好き、何とかしたほうが絶対いいよ!」
「じゃあ、ちとせがしてよ。俺の首に首輪つけてもいいよ。ちとせなら」
ニヤリと試すように問えば、ちとせはニッコリと珍しく可愛らしい笑みを浮かべた。
そんな顔はちょっと可愛らしいが、どこかでみた印象に、先に悪寒が走る。
何というか、第六感というべきか。
ちとせは座り込んでいる夏生の頭をくしゃりと撫でると、「そうだねぇ」と呟いてから言う。
「首輪つけてもいいよ?」
「え?」
「但し、私の犬なら容赦なく去勢するけどね!」
「!!!!!!!!」
後方がドアの為、もう下がりようのない状態でドアに背をつけた夏生を確認して、ちとせは声を立てて笑った。
夏生はそんなちとせの笑顔を見ながら、どこでみた笑顔なのか思い出す。
(母さん、そっくり)
自分の母親が夏生に言った時と同じ様な笑顔に、夏生は若干ひきつりながら、
(俺、こういう女に弱いんだよな)
と内心気を引き締めた。
母と似た匂いのする人間にはどうしても立場的に弱くなる。
主導権を握られてしまうのだ。
「夕飯、食べたの?」
クスクス笑いながら問いかけてくるちとせに、
「少し」
と返せば、ちとせは玄関からあがりながら、
「昨日のご飯、残ってるから、夜食にチャーハンでも食べる?」
と聞いてきた。
「食べる!!」
「はいはい。じゃあ、食器だしてもらってもいい?」
「了解」
ちとせの作ったチャーハンはコンビニ飯より断然美味く、夏生は主導権をあっさりちとせに渡す。
ニコニコとしたちとせの横顔を見ながら、夏生は今日もここに来て良かった、と思った。




