13 あなたに愛されたい
「おはよーございます」
月曜日、ちとせは満面の笑みで隼生に挨拶する。隼生は一瞬、目を少しだけ大きく見開いたが、直ぐにいつもの表情に乏しい顔で、「おはよう」と返してくれた。
隼生の実家に行ったことは、隼生の耳には入らなかったようだった。昨日の夜になっても隼生から連絡はなかったからだ。
「おはよう、ちとせちゃん」
白土がちとせの肩に手をポンと乗せて言ってきた。席の並びは窓側から隼生、白土、ちとせだから、白土は隼生とちとせの間に遠慮なく入ってくる。
「怪我、大丈夫だった?」
ニコニコしながら白土が尋ねてくる。わざとなのは直ぐに分かる。
「あんなに血がでてたから、痛かったでしょう?」
「かすり傷ですから」
隼生は話には入ってこなかったが、僅かにちとせに視線を向けた。
多分、ちとせが怪我が酷かったなんて思ってもみなかったのだろう。
ちとせはそんな隼生にやんわり笑いかける。
隼生がフイと視線を反らす。
「浅間さん、ちとせちゃんの怪我、きちんと手当てしてあげました?」
白土が何でもないことのように隼生に聞いたが、隼生は答えられない。当然だ。週末、隼生はちとせに会っていなかったのだから。
「白土さん、余計なお世話です! 手当てぐらい自分で出来ますから」
助け船を出したはずなのに、足元を掬われた。否。白土はそれを待っていたのだろう。
「俺が手当てしてあげたのに? 両手怪我して独りじゃ無理だったくせに」
視線を反らしていた隼生が、白土を見た。
それを待っていたのだろう白土は、ニヤリと笑うと、
「ちとせちゃん家に、彼氏より先に上がって、ごめんね?」
とトドメをさした。
(あんた、一体、何がしたいの?!)
怒鳴りつけたい衝動を必死に堪えて、
「白土さん!」
ときつめの声で呼んだが、そんなことで白土が堪えないのは分かりきったことで。
隼生は耐えきれなくなったのか、煙草を持つと何も言わずに喫煙室に行ってしまった。
「白土さん、何がしたいんですか?」
ジロリと白土を睨みつけると、白土はニヤニヤした表情のまま、「さあ?」と言った。
まるで自分も何がしたいのか分からないような態度に、珍しくちとせは苛ついた。
結局、この日は隼生と話すことは殆ど出来なくて、メールも電話も返事がなかった。
☆☆☆
「おはようございます」
「おはよう」
火曜日、ちとせは隼生の席の前に立つと、
「今、ちょっとお話いいですか?」
と資料を手に問いかけた。
白土は幸いまだ出社していない。
何とか隼生と話したくて、関係ない資料を片手に問い詰めれば、隼生は観念したように
「ちょっと外行こうか」
と声をかけてくれた。
隼生がちとせを連れてきたのは、自動販売機だった。但し、出勤者がよく通る通路側ではなく、会議室が多く立ち並ぶ場所の自販機のため、朝のこの時間は人気がない。
仮に誰かに見られても、飲み物を買いにきたとギリギリで言い訳できる場所だ。
「で、何?」
隼生にそう切り出されて、ちとせは苦笑いを浮かべながら、
「週末は会えますか?」
と確認した。
隼生はブラックのコーヒーを買った後、何も応えずにプルタブをあけて口をつける。
ちとせはそんな隼生の様子をじっと見ながら、答えを待つ。
「子供......」
「え?」
小さく隼生が呟いた。
「子供、早く作ろうか?」
「え?」
(いきなり?!)
白土とのことで、もしかしたら嫉妬してくれたのだろうかと、一瞬、胸が弾んだ。
しかし、次の瞬間、それは痛みに変わる。
「一人生めば、その力、消えるし。
子供はこっちで引き取るから、後は好きにしていいよ」
「........え?」
一瞬、何を言われているのか理解出来なかった。
呆然と隼生を見ていると、隼生はもう一度、淡々とした口調で語る。
「その力、やっぱりどうかと思う。
早くなくして貰いたいんだ。」
「そ、そう言うことなら、いつでも私は...」
「そうしたら、君は好きに生きていいよ」
(捨てられる?)
一瞬、足場がぐらりとなくなった気がした。
思わず隼生に手をのばそうとすると、隼生はやんわりその手を避ける。
「白土が好きならそっちに早く行けるようにしてあげるから、きちんと白土と話し合いしな」
「っな! 何でそうなるんですか?!」
「俺なんて選ぶ必要ないんだよ」
自虐的な笑みに、胸倉を掴んでガンっと自動販売機に押しつけていた。
ちとせより30センチ近く目線が上の男だが、細い体は簡単に自販機に押しつけることができた。
「何でそんな結論になったんですか?」
(何のために週末、考えてたんですか?)
自分と別れる為に時間を与えた訳ではない。
ちとせの力を受け入れて貰いたくて、あの時、力を使ったちとせを肯定してほしくて、時間をあげたのに、どうしてそんな結論になるのか分からなかった。
隼雄は珍しく微笑を讃えたまま、
「それが一番、いい」
と言った。
「隼生さん、何が一番いいんですか?
力を使ったことなら謝ります。
そんなに使ってほしくなかったなら、ごめんなさい。もう二度と使いません。
だから、そんな、そんな風に......」
(私を諦めないでください!)
「何で...
何で君に力を渡してしまったんだろう」
「!!」
それは一番、隼生から聞きたくない言葉だった。
あの日、初めて抱き合った日。
酔いの勢いで迫ってしまった日。
それに対する後悔の言葉。
ちとせの体が重い鉛のように動かなくなる。
隼生がゆっくりとちとせの手を放し、小さく
「ごめん」
と呟いた。
(何を謝る?!)
気が狂いそうになる。指の間からいろんなものが砂のように零れていく。
あんなことするんじゃなかった。
普通に告白すれば良かった。
でもそれで、付き合ってもらえた?
好きになってもらえた?
色んな言葉が頭の中を渦巻いた時、
「力って何ですか、浅間さん?」
と拍子抜けするようなのんびりした声が聞こえた。
隼生が戸惑いの視線をちとせの背後に向けた。
ちとせも振り向いて、困惑する。
「逢い引きかと思ってついてきたら、訳わかんないこと話してますね?」
立ち聞きしていたと堂々と宣言するようなことを白土は言いながら、二人の元に寄ってくる。
そして自販機に寄り添う二人のことなど気にすることなくお金を投入して、カフェオレを購入すると、ぐいっとちとせを自分の元に引き寄せた。
触れていた隼生の手は、簡単に離れた。
「よく分からないけど浅間さんの子供生んだら、ちとせちゃんは解放されるんですか?
なら、それまで待つんで、ちとせちゃん、俺にください」
猫でも貰うみたいな声色に、ちとせは「私は物じゃないっ!」と叫んだ。
そして、二人から離れると白土をきつく睨んだ後、隼生に向かって断言する。
「子供生んだら解放するってなら、私、一生生まないから! ずっと、ずっと、ずっと、隼生さんにくっついて離れるもんかっ!」
我ながら子供じみていると思ったが、それでも言わずにはいられなかった。
「私の全部...、全部は隼生さんの為にしかない!」
そのまま言い逃げて、ちとせは駆けていく。
告白にもならない陳腐な宣言が隼生に通じないことは分かっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
離れることなんて、考えたくもなかった。
どんなきっかけだったとしても、
私は、あなたに、愛されたい。
その強い願いだけが、ちとせの全てだった。
☆☆☆
ちとせが去った後、カフェオレに口をつけた白土は、何とも言えない顔をしたまま立ち尽くす隼生を軽く睨む。
「何が不満なんですか? あんなに乳でかくてそこそこ可愛い子が、あんたに心底惚れ込んでるのに」
相変わらずの白土節だったが、今の隼生には殆ど飲み込まれず流されていく。
白土は何も言わない隼生に痺れを切らして、
「いらないなら、本当に俺、貰いますよ?」
と告げて、その場を離れた。
社内には始業開始五分前のチャイムが鳴り響く。隼生は誰もいなくなった自販機の前で、誰にも聞き取られない小さなため息を吐いた。




