10 こんな時ぐらい、泣けばいいのに
「鋼鉄製アームバンドなんて...」
絶句する面々にちとせは苦笑しながら説明した。表向き、最初のちとせへの襲撃の時点で曲がっていたことにしたのだ。ちとせが自分の腕に鋼鉄アームバンドをしていたことにして。
だから、二度目のストーカー女の突進の時、既にナイフは曲がっていて、大島が助かったということになった。
実際は、二度目の時にナイフは曲がり、だからこそ桃の身を呈して守った大島は無傷だったのだが、そんなこと二人には関係ないだろう。命がけで大切な人を守った。そのことが、大島にとっても桃にとっても意味があるのだ。
「まあ、鋼鉄製アームバンドって言っても、少しは切れちゃったんですが」
と、多少ナイフに血が着いていた理由も説明し、絆創膏だけ警察でもらった。
隼生の隣人である佐川は一応逮捕されたが、事を荒立てたくないこちら側の都合(主に会社に対して)や、傷害といえる程の怪我ではないことから、起訴猶予にはしてもらえるかもしれないとの話だった。
ちとせたち六人は、無謀なことをいい大人が揃いも揃って!と説教され、その最中に佐川の両親が警察署に駆け込んできて、隼生に土下座したりと、非常に劇的ではあったが、ちとせはそれらをぼんやりと聞き逃していた。
意識はひたすら別の事に集中していたからだ。
警察署を出られたのは12時過ぎで、それから各自タクシーで帰宅することになった。
大島と桃は同じタクシーで帰るようで、きっと仲直り出来るだろうな、と思う。
「色々ご迷惑おかけしました」
「大島、酒田、済まなかった」
ちとせと隼生が二人に謝ると、大島が疲れた顔ではあったが、苦笑いを浮かべながら、
「まあ、決着もついたし、気にしないでください。それに、西脇のバンドのお陰で俺も無傷だったし」
と逆に慰められた。
ちとせは曖昧に微笑んで、二人を見送る。
サチと白土も別のタクシーに乗り込ませ、そちらにも協力の礼を述べ、最後に隼生と二人でもう一台のタクシーに乗る。
「最初に○○町4丁目、セブンイブン側の××ハイムで」
隼生が告げた行き先は、ちとせのアパートだ。
それから隼生は終始、無言だった。
その理由は分かっていたし、何も言えない。
タクシーは20分ほどでちとせのアパートに着いた。
「今日はゆっくり休め。
あと、週末はちょっと一人になりたい」
きっぱりとそう言われ、ちとせはやんわりと微笑む。
(こんなとき、どんな顔すればいいんだろう)
隼生の気持ちが今、どんな状態なのかはちとせには分からない。
ただ、ちとせを側に起きたくないことだけは分かった。
だからちとせは言いたいことだけを言う。
「ごめんなさい。
でも、私、後悔してません」
(あの時、力を使ったことは私の責任だ)
それがここまで隼生を追いつめるとは思わなかったが、きっと独りで何か考えたいのだろう。
(いつか、いつか、そんな時でも一緒にいられる相手になりたい)
あなたの辛さも苦しみも、
全部、私が受け止めたい。
その、隼生だけに向けられた寛容な精神を、きっと隼生は知らない。
だから今も、ちとせの謝罪の言葉に傷ついたようにしんどそうな顔をするのだろう。
「週明けに。おやすみ」
それだけを告げられて、タクシーは行ってしまった。
それを見送って、アパートの中に入ろうとした時、携帯が軽快な音楽を鳴らす。
こんな時間に...と戸惑いつつ相手を確認すると、白土と名前が出ていた。
「白土さん、どうしたんですか?」
『私、白土ちゃん。今、あなたの後ろにいるの』
「はっ?!」
ギョッとして振り向くと、タクシーから降りてくる白土がいた。そのタクシーにサチが乗っている形跡はない。
「サチさんは?」
そう尋ねると、
「直ぐに俺だけ降りて、ちとせちゃんたちのタクシー追いかけてきた」
と返ってくる。
「だってタクシー三台しか...」
「俺がもう一台、呼んでおいた」
ニコニコと飄々とした笑顔で言われて、ちとせは固まってしまう。
「あ、安心して。別にちとせちゃん家に押し入るつもりはないから」
「!」
読めない白土の行動に、警戒しながら見上げると、白土はその警戒を解くように笑む。
「浅間さん家に行くなら何も言わなかったんだけど、こんな日なのにちとせちゃん、家に帰しちゃうから」
白土の口から、珍しく隼生に対する避難めいた言葉に、ちとせは戸惑う。
「何か、私に用ですか?」
「うん」
そう言うと徐に隼生がちとせの両腕を掴んだ。
「!!」
予想外の展開に、意識していた集中力が途切れる。
(しまった!)
じわっと、両腕の外側に、血がにじみ始める。
それは、今まで力で意識して抑え込んでいたものだ。傷口をぎゅっと力で押し込むイメージを、ひたすら集中して行っていた。
だから誰も気づかなかった。
ちとせが最初の一撃で、避けることはできても、手には傷を負っていたことを。
「鋼鉄製アームバンドなんてしてなかったよね?」
どこか緊張感のない声に、ちとせは内心冷や汗を掻きながらも、
「ああいう風にいわないと、素手で曲げたなんて誰も信じてくれないでしょ?」
勿論、それも嘘だ。
それでも力のことを話すわけにもいかないし、それがどんなに嘘に見えても突き通すしかない。
「こんなに血が出て...。早く手当てしないと。
部屋に傷薬とかある?」
あいにくそんなものを持ち合わせていなかったので首を左右に降ると、
「俺、コンビニで買ってくるから家にいて」
と言われた。
「え? でも!」
「手当て、ひとりじゃ無理でしょ? 馬鹿浅間さんはいないし」
隼生の呼び名に何か不穏な冠詞がついている。白土を見上げると少しだけ不機嫌そうな顔だった。
「部屋、何号室?」
「201です」
「了解」
それだけ言うと、白土はコンビニに向かってしまう。
ちとせは少し迷ったが、結局先に自分の部屋に戻った。
「おじゃましまーす」
「あがらないで薬だけ置いて帰ってください」
「手当てしたら帰るよ?」
五分後、白土が遠慮することなくちとせの部屋に入ってきた。
ワンルームのこの部屋に隼生を招いたことは実はない。いつもちとせが隼生の部屋に行っていたからだ。
無論、そんなことは白土は分からない筈なのに、
「浅間さん、この部屋来てないんだ」
と直ぐに気づかれてしまう。
「き、来てますぅ!」
「浅間さん、煙草吸うのにこの部屋、灰皿、ないじゃん」
「ぐっ!」
痛いところを突かれてちとせは口ごもる。
そんなちとせを見ながら、白土は自分で突っ込んでおきながらそれ以上触れずに、
「はい、傷口、出して」
と手当てを始めた。
「良かった。縫う程ではないね」
傷口は表面的なものだった。止血もしていたので部分的に先程力を入れたせいで出血したが、今は赤い瘡蓋で塞がれていた。
「女の子なのに、傷作って」
「もう貰い手ありますから」
「自分のこと、大して愛してくれない男なのに?」
一々痛いところを突いてくる。
ちとせは傷の痛みだけでなく顔をしかめる。
「手当てありがとうございました。
もう深夜ですからお帰りください」
慇懃無礼にそう言えば、白土は声を立てて笑った。
「泊めてくれてもいいのに」
「彼氏もちですよ?」
「ストーカー持ちの三十路男より、俺の方がよくない?」
そう言うと、白土は躊躇うこともなくちとせにのしかかってきた。しかもご丁寧に怪我した両腕の傷をさけつつも、その両腕を掴んで。
足元は自分の足で抑えつけられて、ちとせは全く動けなくなる。
「白土さん、何のつもりですか?」
「口説いてるつもり」
「強姦で豚箱ぶち込みますよ?」
「普通、こういう時、暴れたり真っ青になったりしない?」
白土は顔色一つ変えず、淡々とした顔でちとせの様子を伺う。
(まあ、こんな夜中に男を家に入れた私が悪いしな)
自業自得だ。
むしろいっそ頭が冴え冴えとしてくるから嫌になる。
手足は封じ込められているが、ちとせには力がある。白土位なら吹き飛ばすことも可能だろう。
力の加減は先ほどのナイフでわかった。
「私、抱いたら死にますよ?」
それに、ここで抱かれたら自分は死ぬだろうな、という気持ちもあった。
だって、この身体に宿った力は浅間家の為の力だ。隼生以外の男性の子を産めば死ぬということは、つまり子種を受けた時、性交自体した時点で、死ぬとも考えられる。
浮気なんてするつもり全くなかったので、聞くことはなかったが、多分、そういうことだろう。
「死ぬって俺が?」
白土がちとせの頬に唇を寄せながら尋ねてくるので、ちとせは迷うことなく言う。
「死ぬのは私です」
白土が目を見開いて顔をあげる。
「そこまで浅間さんがいいの?」
「最初からそう言ってるじゃないですか」
「俺でさえ、こんな状態のちとせちゃんを放っておけないのに、放置する奴だよ?」
きっと白土はちとせを心配してきてくれたのだろう。一々、言うことなすこと人のかんに障ることが多い白土だが、それでも意外に相手をみていると知ったのは、仕事を一緒にしてからだ。
一言余計だが、きちんとフォローはしてくれる。言葉と態度で損するが、人間的には真面目な人間なんだとちとせは評価していた。
だから今、こうして襲われている状況が納得できない。
そんな人ではなかったはずだ、とこの場に及んで思ってしまうのだ。
「難儀すぎ」
白土はそうぼやくと、ちとせから手を放し、ちとせを抱き起こしてくれた。そして乱れた髪まで直してくれる。
「もっと楽な恋、すればいいのに」
「楽をしたくて恋できたら、世話ないですよ」
「ははは、確かに!」
白土は声を出して笑うと立ち上がる。
「じゃ、帰るよ」
「怪我の手当、ありがとうございました」
「次は襲わせてね」
「次はないですね」
一体、どこまで本気なのか。
ちとせはため息を軽く逃すと、
「また来週です」
と白土を玄関まで見送った。
白土は靴を履くと振り返り、ちとせの頬に触れてくる。
「こんな時ぐらい、泣けばいいのに」
最後にボヤいた言葉は白土のちとせに対する願いのように聞こえた。
確かに泣いてしまいたい気持ちもあった。
それでも泣けない。
泣くことを忘れてしまった。
だから代わりに微笑んで、
「こんなときだから、笑うんです」
と言ってやった。
きっと、今、部屋の中で一人、隼生だって悩んでいるだろうから。苦しんでいるだろうから。
元凶の自分が泣いているのはおかしいだろう。
白土はちとせの笑顔につられるように笑うと、ちとせに手を降って、
「強情だなあ~」
と間延びした声で言いながら帰っていった。
ちとせは鍵を締め直して、そのまま風呂にも行かず、バタンとベッドの倒れ込む。
「強情でスイマセン」
枕に向かってポツリと呟くと、ふと思い出して携帯を鞄から取り出した。
隼生からのメールはない。
自分からメールしようとも思ったが、流石に躊躇った。
(何だか色々ありすぎて、疲れた)
ストーカーのこと。
隼生の力のこと。
白土の突然の来訪。
白土は自分を好きなのか?と一瞬思ったが、好きなところでどうしようもない。
隼生とちとせは、子供を作らない限り、ちとせは死ぬ。
ちとせにとってはこの力は、まさに望んでいたものだった。
だってこの力があるから、隼生と結婚できる。
でも隼生はどうだろう。
今日、力を使ってしまったちとせを見て、何を感じたのだろう。
(別れることは考えてないだろうなあ)
隼生の性格上、別れたらちとせは誰とも付き合えないことを知っている以上、別れない。
「呪いみたいなもの」
そう言った隼生は、心底、この力を忌々しく思っている気がした。
ちとせはカレンダーを見た。
明日は土曜日。日曜日も含めれば二日もある。
ちとせはあることを思いつく。
我がことながら、つくづく自分はアグレッシブな質だと思う。
もしかしなくても隼生はちとせの行動を嫌がるだろう。それでも知る必要はある。
知らなくてはいけない。
隼生にとってこの力は何の為にあるのか。
「ちょっと旅でも行きますか」
誰に告げる訳でもなく、ポツリとちとせは呟いた。




