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『ごきげんよう、おひさしぶり』

作者: 海。

『ごきげんよう、おひさしぶり』



 どうしてこうも、奴らはタイミング悪く現れるのだろうか。

 俺は、普段通り仕事を終えて帰宅した。いつもと変らずに玄関の扉を開き部屋へと入り、風呂に入り食事をし、後片付けをして、就寝の準備を済ませる。変らぬ日常。ただ、ちょっと違うのは、明日は大事なプレゼンがあるために、少し早く布団に入ろうとしたこと程度。部屋も片付いているし、同世代の男の一人暮らしにしては、掃除だって高頻度で行っているはずだ。

 しかし、にも関わらず今日に限って、奴は小さな乾いた音を立てて、俺の目の前に現れた。その薄く輝く、漆黒の身体を纏って。

 いやぁ、ほんとに。放置して寝るというのが、明日を考えれば、最善の策なのだろう、と思う。まだ、夜十一時。今すぐに寝れば八時間は眠れるはずだ。かといって、そうそう割り切れないのも事実。城とも言える自室への侵犯を許してしまったまま、どうして安心して眠ることができるのだろうか。

 俺はゆっくりと、腰掛けていたベッドから立ち上がり、鋭角な動きで部屋を駆けずる奴の方を睨んだ。まずは、どうやって、奴を仕留めるかである。

 別に玄関や窓などから外へ出すという手段もなくはない。片づけだって、そちらのほうが楽だ。無駄に殺す必要なんてないだろう。

 が、生かしておく必要なんてものはもっとない。この忌々しい黒き魔物は部屋に入り、人間様の視界に入ってしまった時点で死亡が確定した、同然なのである。実に恣意的な理屈かもしれないが、奴とそれに関する問答をするつもりは、基よりないし、そもそも、それを気にするだけの思考能力も奴にはないだろう。

 さて、差し迫っては相手のスペックを知る必要がある。まず、見た目からであるが、大きさは、恐ろしき7、8センチクラス。幾度の激戦を繰り広げてきたのか、はたまた、見つからずに逃げきってきたのか。その背中に黒光りする二枚の羽が自らの成長の様を、まざまざと見せ付けている。奴らの特出するに値する、根源たるその素早さはともかくとしても、さらに宙を舞うだけの能力を奴は備えているということ。これは実に大きな問題でもある。

 そして、武器を選ぶ上でさらに大切なことは戦場の状況の把握だ。我が家は自慢ではないが新築のワンルーム。家具自体はそれほど多くもなく、キッチンまではわりと距離があるので、パソコン周りと箪笥の裏、そして今、自分が腰掛けていたベッドの周りくらいしか隠れる場所はないだろう。尚且つ部屋自体はモノが少ないために大分開けている。時間を考えれば、近所の迷惑もあるので、大暴れとはいかないが、充分に奮戦するだけのスペースは用意されている。まぁ、どんな場所でもスプレータイプの殺虫剤があれば、文句の一つもないのだが、今まであまり、見かけることもなかったので用意もしていない。つまり得物が現地徴用。現在、身の回りにあって、奴をやっつけるのに、最も最適なもの、それは―――。

 俺はゆっくりと足元に手を伸ばしてソレを手に取った。

“スリッパ”

 古より日本のご家庭で奴を抹殺するために利用されてきたという、まさに専用装備。その軽さと握りやすさが実現させた取り回しのしやすさ。そして、その適度な堅さでスナップを利かせることにより、生み出される圧倒的な破壊力。それに伴い付加される絶妙な効果範囲も魅力の一つとも言える。まさに、キラー。

 奴は未だ、堂々と目前に構えている。こちらに気付いていないのか、それとも人間様を小ばかにしているのか。この際、それはどちらでも構わない。この間合いだ。勝負は一瞬で決する。俺は、ゆっくりと間合いを詰める。静かに、それでいて確実に。

 奴は微動だにすることはない。

そして、射程内。振りかぶり、奴へとスリッパ、いや、死神の鎌を振り下ろした。

耳に心地がいい、風切音が響く。そして、地面に叩きつけられるスリッパ。同時に軽い音かなるが、音はそれだけ、期待していたような手ごたえも無い。

「なっ!?」

 微塵も予想していなかった空振り。スリッパを持ち上げてみてもそこには、影一つ無く、ただただ、磨かれたフローリングがこちらを映しているばかり。

 不意に、視界の隅に影が見えた。

「そこかぁっ!」

 振り返りざま、確認するよりも先に、第二打を影へと叩き込む。

 今度こそ、見えた。スリッパが床へと到達するよりも速く、奴は思いもよらぬスピードでそれを回避してみせた。走り去る奴を尻目に俺はその体勢のまま硬直してしまう。

 まさか、あんなスピードでの回避が可能だなんて。まさに、予想の範疇の外。奴は自分の考えの及ぶレベルの敵ではなかったという事実。

 自らの驕りをたった二度の駆け引きでまざまざと見せ付けられてしまった。まさか、こんな、これほどまでに簡単にあしらわれてしまうなんて。

 気がつけば、奴はこちらに向かい、その黒く細長い触覚をわさわさと動かしてこちらの様子を窺っていた。いや、窺っているというよりは嘲笑していると言った方が正しいのか。

 激しい苛立ちを覚える。奴程度の小さな生き物に笑われている自分の情けなさを含めた現在の状況に。しかしながた、ここで激昂して奴にスリッパを投げつけたところで状況はかわることはない。

 とりあえず、幾度かの攻防の末に、新たな手段の獲得を模索する。

 そして、とりあえずは思いついた作戦は角に追い詰めるという至ってシンプルなものだった。ただ、無作為にスリッパを放つから当たらないのだ。進路が狭められる角に追い詰めれば、多少なり進路が読める。そうすれば今度こそ、奴を叩き潰すことが可能なはず。

 俺は、ベッドもPCデスクも置いていない部屋の角へと奴の進路を塞ぎながらゆっくりと近づいていく。その様は、さしずめ、コーナーへと相手を追い詰めていくアウトボクサーのような心境である。

 ゆっくり、ゆっくりと、距離を詰めていく。

「そうだ。そのまま下がっていけ」

 自慢の触覚をふらふらと揺らして、チャレンジャーはコーナーへと這っていく。そして、その触覚が壁へと触れた。

 追い詰めた。壁に上ろうか脇を抜けようが、相当な距離、俺自身に近寄ることになる。近ければ当然、スリッパがターゲットに到達時間も早い。そうすれば、あれ程の速度で回避しようとも、この俺の魔鎚が奴をこの世から抹消する。

 さぁ、前でも後ろでも左右でも、好きなほうに逃げればいい。動いたときが奴の最期。にじり寄る。距離を詰める為ではない。相手を煽るために。案の定、奴はかさかさと壁を上へ上へと登り始めた。

 位置が近づいたことにより、充分な至近距離。俺はスリッパを振りかぶった。そして、振り降ろす。その一瞬の所作。しかし、その動きに気がついたのか、次の行動に絶句させられる。忘れていた訳ではなかったはずだ、知らない訳でもなかったはずだ、奴のスペックを。

「う、うわっ!?」

 飛んだ。跳ねるのではなく飛翔である。その漆黒の二枚の羽を広げ、こちらへと滑空してきたのだ。咄嗟に避けようとする。が、間に合わず、堅い、感触。鋭い針が引っかかったような感覚。現状認識を拒否しようと心は訴えるが、無常にも脳はその情報を処理してしまう。

「ぅあっあっへぇあっっ」

 意味不明な言葉を発しながら暴れ、ひたすら顔から奴を引き剥がそうとした。しかし、奴は右往左往して、見事にその手を回避し続ける。動き回る。恐怖のあまりに目を開くことができなかった。暴れた拍子に箪笥が揺れ、引き出しが散らばる。パソコンデスクは倒れ、液晶モニター、タワー、そしてプリンターがその場から放り出される。小さな戸棚から物がばら撒かれる。

 そして、彼の者が自ら顔から離れなさった頃には、きちんと整理整頓され生活感の無かった部屋は、見事な模様替えが行われていた。元の光景は見る影も無く、物は無造作に散らばり、足の踏み場というのが所々に辛うじて、点在しているという有様。しかし、奴は、未だ、どこに姿を隠すでもなく、わざわざ、こちらに見えるところで、その黒い輝きを放っていた。

「ば、馬鹿にしやがって……っ!」

 圧倒的な敗北感と憤り。耳までもが真赤になっていることが自分でもわかる。得物がぎりぎりと握られ、形を変えていく。

「ちくしょうっ!」

 足元に放ってあった本を奴目掛けて投げつける。しかし、それまで同様簡単に避けられてしまう。それでも、攻撃の手を休めない。肉薄しスリッパを叩きつける。避けられた先に足を踏み込む。落ちていた物を踏み、痛みに転げる。すぐに立ち上がり、落ちていたものを投げつける。もう、義務感で戦っているわけではなく、ただ、己の殺意によって奴へと攻撃を放っていく。

 しかし、

 倒せなかった。求めていた感触は得られなかった。

 不毛な争いの決着は付くことも無く、部屋だけが散らかっていき、ただただ、体力だけを失い、気がつけば時計の短針は、3を示していた。

 俺は息も枯れ枯れ、ベッドに横になっている。

「くそぅ、くそぅ……っ」

 状況は悪化しただけだった。変らず奴は、あえて姿の見える位置で触覚をふわふわさせている。

 もはやキレる気力も残っちゃいない。握っていたスリッパを投げつける。が、力いっぱい投げたそれは、ゴキブリのすぐ後ろの箪笥へとぶつかった。

 その軌跡を追って、俺は力なく手を下ろした。

「ちくしょう、俺の、負けだよ」

 そう言って、身体を向きなおす。

「流石だよ。正直、そこまでやる奴だとは思わなかったよ。いや、なんつぅか、不思議な感覚だ。なんか、もう戦っていた理由も思い出せない。いいづらいけど、友情的な、何か妙な感情が芽生えている」

 そして、自分の行っていることの馬鹿らしさに自嘲的に微笑む。しかし、その言葉を撤回するつもりもなかった。

「もういいさ。この部屋は好きにつかえよ」

 そう言って、奴の方をぼんやりと眺めた。



 直後、先ほどの箪笥の上にあった小箱が奴へと落下する。それは、どうしようもなく、呆気ない、幕切れだった。

 その様子を見て、自分の中の妙な興奮が冷めていくのがわかる。アドレナリンの生み出した妙な高揚は収まり、明日の用事を思い出す。立ち上がり、小箱と、その下に潰されていたものをティッシュに包み捨てる。

「さて、部屋を片付けるか」

 明日の仕事には影響が出ない内にさっさと済ませよう。

 



 遠くで小さな乾いた音が鳴る。

「『ごき』げんよう。おひさし『ぶり』」


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