婚約者が完璧な公爵令嬢に夢中なので、私は彼の恋を応援することにしました――ええ、最後まで
レティシア視点の後日談的エピローグを追加しました。
*誤字.脱字報告ありがとうございます。助かります。
私の婚約者、アレクシス・フォン・グランディ伯爵令息は、完璧な公爵令嬢に恋をしている。
それはもう、見ているこちらが恥ずかしくなるほどだった。
「シャーロット。今度の夜会には、レティシア様もいらっしゃるそうだ」
「まあ、それは楽しみですね」
「君も、レティシア様と親しくしてくれないか」
「もちろんです」
私は笑って頷いた。
婚約者である私より、公爵令嬢。
伯爵家嫡男であるアレクシスにとって、私との婚約は家同士の取り決めにすぎない。
対してレティシア様は、王家からも一目置かれる公爵令嬢。
美しく、聡明で、慈悲深く、社交界では「完璧な淑女」と呼ばれている。
アレクシスが夢中になるのも無理はない。
ただし。
レティシア様は、アレクシスにまったく興味がなかった。
「シャーロット様。アレクシス様は、今日も私を見ていらっしゃいましたね」
「ええ」
「困りましたわ」
「まあ」
「どうしましょう?」
「……どうしましょうね」
私たちは顔を見合わせた。
そして二人とも、同時に笑った。
もちろん、私が笑っている理由と、レティシア様が笑っている理由は違う。
そう思っていた。
少なくとも、そのときまでは。
*
私は子爵令嬢だ。
アレクシスは伯爵令息。
家格が一つ上。
だから、私から婚約破棄を申し出ることはできない。
正確には、不可能ではない。
けれど、伯爵家の嫡男との婚約を子爵家から一方的に破棄すれば、あちらに相応の非がなければ社交界でどんな噂が立つか分からない。
我が家は裕福ではあるが、伯爵家と敵対できるほど強くもない。
だから私は決めていた。
――絶対に、自分からは動かない。
泣かない。
喚かない。
嫉妬しない。
アレクシスを責めない。
そして何より。
嘘をつかない。
「シャーロット。君は本当にいい婚約者だ」
そう言われたとき、私は笑った。
「ありがとうございます」
「レティシア様のことを悪く言わないのも、君の美徳だと思う」
「悪く言う理由がありませんもの」
本当にそうだった。
レティシア様は、私に何もしていない。
むしろ、私に対してはいつも親切だった。
アレクシスが彼女に贈る花束を私に見せてきたときも。
「シャーロット、この花はどう思う?」
「レティシア様なら白薔薇がお好きでしょう」
「そうなのか?」
「以前、そう仰っていました」
「では、これにしよう」
「ええ。きっとお喜びになりますわ」
私は微笑んだ。
アレクシスは満足そうに去っていった。
その翌日。
私はアレクシスに頼まれた花屋からの請求書を確認し、支払いを済ませた。
そして帳簿に記した。
『六月十四日。アレクシス様購入。白薔薇三十本。贈答先、レティシア・アルベール公爵令嬢』
これが、私の日課になった。
*
アレクシスは、どんどん大胆になった。
夜会では私を置いてレティシア様のそばへ行く。
学院では彼女の授業が終わるまで待つ。
贈り物をする。
手紙を書く。
彼女が困っていると聞けば駆けつける。
そのたびに私は言った。
「レティシア様のお役に立てて、よかったですね」
「シャーロットは理解があるな」
「婚約者ですもの。当然ですわ」
周囲の人々は私を「寛大な令嬢」と呼んだ。
一部の人は「気弱なのでは」と囁いた。
アレクシスは私を「物分かりのいい婚約者」と思っていた。
レティシア様だけは、少し違った。
「シャーロット様」
「はい?」
「あなた、最近ずっと帳簿をつけていらっしゃいますね」
「ええ」
「何の帳簿ですの?」
「支出の帳簿ですわ」
「まあ。几帳面ですこと」
「子爵家の娘ですもの。無駄遣いはできません」
私はそう答えた。
レティシア様は私の顔をじっと見た。
それから、ふっと笑った。
「そうですか」
「はい」
「……本当に、そうですのね」
意味が分からなかった。
けれど私は、それ以上尋ねなかった。
*
転機が訪れたのは、王宮主催の春季舞踏会だった。
その日、私はいつもより丁寧に髪を結った。
淡い青のドレス。
真珠の首飾り。
髪には小さな白薔薇を一輪。
会場へ入ると、すぐにアレクシスが駆け寄ってきた。
「シャーロット!」
「まあ、アレクシス様」
「レティシア様を見なかったか?」
「まだですわ」
「そうか……」
あからさまに落胆する婚約者を見て、私は微笑んだ。
「きっとすぐにいらっしゃいますわ」
「そうだな」
そして彼は私を置いて行った。
ほどなくして、レティシア様が現れた。
会場がざわめく。
今日の彼女は、いつも以上に美しかった。
アレクシスは夢中になった。
彼女の前へ進み出る。
「レティシア様。本日はお会いできて光栄です」
「ありがとうございます」
「どうか私と一曲――」
「申し訳ありません」
即答だった。
アレクシスの顔が固まる。
「……なぜです?」
「踊る理由がありませんもの」
「しかし私は――」
「婚約者のいらっしゃる方と踊る理由もありません」
ざわり、と空気が動いた。
私は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
アレクシスは顔を赤くした。
「私とシャーロットの婚約は、いずれ解消する予定です」
私は瞬きをした。
そんな話は聞いていない。
「そうなのですか?」
レティシア様が尋ねた。
「ええ。私はあなたを愛しています」
会場が静まり返った。
アレクシスは、とうとう言った。
「シャーロット。悪いが、君との婚約を破棄する」
私は黙った。
周囲から視線が集まる。
伯爵家からの婚約破棄。
子爵令嬢である私には、断る権利などない。
けれど。
私は泣かなかった。
「……承知いたしました」
「シャーロット?」
「ただ、一つだけ確認させてください」
「何だ?」
「婚約破棄をなさるのは、アレクシス様のご意思ですね?」
「当然だ!」
「私がお願いしたのではありませんね?」
「君が?」
「はい」
私は微笑んだ。
「私は一度も、婚約を破棄してほしいとは申し上げておりません」
「……それがどうした?」
「いえ。確認しただけです」
私は一礼した。
「それでは、どうぞご自由に」
*
その直後だった。
「お待ちなさい」
凛とした声が響いた。
レティシア様だった。
「アレクシス様」
「……はい」
「あなたは今、シャーロット様との婚約を破棄すると仰いましたね」
「ああ」
「その理由は?」
「あなたを愛しているからです」
「では、私があなたとの婚約を望んだという証拠は?」
アレクシスは言葉に詰まった。
「……あなたは、私を拒んでいない」
「それは肯定ではありません」
レティシア様は淡々と言った。
「私は一度も、あなたに好意を示しておりません」
「ですが、あなたは私からの贈り物を――」
「すべてシャーロット様に相談したうえで、受け取っておりました」
会場がざわめく。
私は黙っていた。
「花も、菓子も、宝飾品も」
レティシア様は続ける。
「すべて、シャーロット様が選んでくださいました」
「……何?」
「あなたは知りませんでしたか?」
アレクシスが私を見る。
「シャーロット?」
「はい」
「どういうことだ?」
「そのままですわ」
「なぜ君がそんなことを?」
「アレクシス様が、レティシア様に喜んでいただきたいと仰ったからです」
「それだけか?」
「ええ」
私は首を傾げた。
「他に理由が必要でしょうか?」
*
アレクシスは混乱していた。
しかし、さらに追い打ちが来た。
公爵が一歩前へ出た。
「グランディ伯爵令息」
「は、はい」
「君は娘に何通の手紙を送った?」
「……何通、とは」
「王宮に保管されている記録では、三十二通だ」
「……!」
「そして娘が君に返した手紙は三十二通すべてだ」
「返した……?」
「そうだ」
レティシア様が静かに頷く。
「私はすべてお断りしました」
アレクシスの顔から血の気が引いた。
「そんな……」
「ですから、私はあなたに一度も期待を持たせておりません」
「では、なぜ……」
レティシア様が私を見る。
「なぜ、シャーロット様が私への贈り物を選んでいたと思いますか?」
私は答えなかった。
代わりに、胸元から一枚の紙を取り出した。
「こちらを」
紙を公爵へ差し出す。
それは帳簿の写しだった。
「アレクシス様からレティシア様への贈り物、そのすべての記録です」
「……すべて?」
「日付、品物、金額、購入者、贈答先。私が確認したものは全て記録しております」
公爵が目を通す。
表情が変わった。
「なるほど」
その声は低かった。
「これで十分だ」
「何が、です?」
アレクシスが震える声で尋ねる。
公爵は答えた。
「グランディ伯爵家への調査を始める理由が、だ」
「……え?」
私は初めて、少しだけ目を伏せた。
*
グランディ伯爵家は、王家から管理を委託されている公共事業の資金を扱っていた。
ところが、帳簿上の支出と実際の支出に妙な差がある。
王家は以前から疑っていた。
しかし、証拠が足りなかった。
そこで目をつけられたのが、アレクシスだった。
彼は婚約者である私の家にはほとんど金を使わず、レティシア様への贈り物には惜しげもなく金を使った。
しかも、その金の出所が伯爵家の公金と一致していた。
「つまり……」
公爵が言った。
「君は公金を私的な贈答品に使っていた可能性がある」
「違います!」
「ならば説明してもらおう」
アレクシスは青ざめた。
「それは……父上が……」
その瞬間。
私は理解した。
私が毎日つけていた帳簿。
私が何気なく保存していた請求書。
私がアレクシスに「レティシア様は白薔薇がお好きです」と教えたこと。
すべてが一本につながった。
そして。
ようやく分かった。
レティシア様が私を見て笑っていた理由も。
*
「シャーロット様」
すべてが終わったあと。
王宮の庭園で、レティシア様が私に声をかけた。
「はい」
「ありがとうございました」
「何がでしょう?」
「あなたは、何も知らないふりをしてくださったでしょう?」
私は黙った。
「……いつからお気づきでしたの?」
「最初からです」
「まあ」
「あなたの帳簿は、とても綺麗でしたもの」
「帳簿をご覧になったことが?」
「ええ。あなたが一度、落とされたものを拾いました」
私は思わず笑った。
「そうでしたか」
「そして、私はあなたに尋ねました」
「何の帳簿か、と」
「はい」
「あなたは『支出の帳簿』と答えました」
レティシア様が笑う。
「嘘ではありませんでした」
「ええ」
「でも、本当はもう一つの意味があった」
私は頷いた。
「アレクシス様が何をしたかを、忘れないための帳簿です」
「それだけ?」
「……もう一つ」
私は少しだけ遠くを見る。
「私が婚約を破棄したくなったとき、自分の感情で動いていないことを証明するためです」
「なるほど」
レティシア様は満足そうに微笑んだ。
「だから、あなたは一度も彼を責めなかった」
「はい」
「一度も彼を誘惑しなかった」
「はい」
「一度も婚約破棄を迫らなかった」
「はい」
「むしろ、彼の恋を応援した」
「はい」
「そして彼が、自分から婚約破棄を申し出るようにした」
私は首を横に振った。
「少し違います」
「違う?」
「私は何もしておりません」
レティシア様が目を細める。
「……何も?」
「はい」
私は笑った。
「私はただ、アレクシス様の望みを、全部叶えて差し上げただけです」
彼がレティシア様に贈りたいと言えば、好きな花を教えた。
会いたいと言えば、会える夜会を教えた。
手紙を書きたいと言えば、彼女の好みを伝えた。
褒めたいと言えば、褒めるべきところを教えた。
私は一度も、彼に何かを強要していない。
ただ。
彼が望んだことを、邪魔しなかった。
その結果。
彼は自分の愚かさを、誰にも強制されず、すべて自分で記録してくれた。
「だから私は、何も悪くないのです」
「……ええ」
レティシア様が笑った。
「本当に、その通りですわ」
*
後日。
グランディ伯爵家は公金横領の調査を受けた。
アレクシスは嫡男としての立場を失った。
伯爵家は多額の返納を命じられ、領地の一部も王家の監督下に置かれた。
そして私は。
何の処罰も受けなかった。
当然だ。
私は婚約を破棄していない。
浮気もしていない。
虚偽の噂を流してもいない。
誰かを陥れてもいない。
私はただ、婚約者の恋を応援した。
彼が望む通りに。
最後まで。
その後、父から聞いた話では、王家から我が家へ正式な謝意まであったらしい。
そして半年後。
私は新しい婚約者を紹介された。
「こちらは?」
「王都の法務官を務める方だ」
紹介された青年は、私に一礼した。
「初めまして。シャーロット嬢」
「初めまして」
「あなたの帳簿を拝見しました」
「……まあ」
私は少しだけ身構えた。
彼は笑った。
「とても美しい字ですね」
「ありがとうございます」
「ただ」
「はい?」
「今度は、誰か別の女性への贈り物を選ぶ必要はありません」
私は目を瞬いた。
「どういう意味でしょう?」
「あなたが私の婚約者だからです」
そう言って彼は、ごく自然に手を差し出した。
「私が大切にする女性は、一人で十分です」
私はその手を見た。
そして。
今度こそ。
帳簿には何も書かなかった。
必要がなかったからだ。
私の人生で初めて。
記録しておきたいと思うほどのことは、もう起きない。
――きっと。
そう思っていた。
けれど。
後日、レティシア様から届いた手紙には、こう書かれていた。
『シャーロット様へ。
先日の件ですが、一つだけ訂正があります。
実は、私も最初からあなたを利用しておりました。
あなたがアレクシス様の贈り物を選ぶたび、私はそれを受け取り、すべて記録しておりました。
あなたの帳簿と私の記録。
二つが揃ったからこそ、グランディ伯爵家を追い詰めることができたのです。
ですから。
あのときあなたが言った「何もしていない」は、半分だけ嘘ですわ。
あなたはとても賢く、そしてとても良い方です。
――また一緒に、お茶をいたしましょうね。
追伸。
新しい婚約者様には、白薔薇がお好きだとお伝えしておきました』
私は手紙を読み終えて。
思わず笑った。
「……レティシア様も、なかなか悪い方ですわね」
窓辺に飾られた白薔薇が、風に揺れた。
私はその花を眺めながら、少しだけ考える。
次の帳簿には。
何を書こうかしら。
今度は――。
私自身の幸せでも、記してみようか。
そう思った。
*ここからはレティシア視点のエピローグです*
あの騒動から、もう一年が過ぎた。
春の王宮は、あの日と同じように色とりどりの花で飾られている。
けれど私にとって、春という季節の意味は、もう少しだけ変わってしまった。
「レティシア様。お客様がお見えです」
「ええ。通してちょうだい」
侍女が一礼して下がる。
ほどなくして扉が開き、見慣れた顔が現れた。
「ごきげんよう、レティシア様」
「ごきげんよう、シャーロット様」
シャーロットは、以前よりずっと柔らかな表情をするようになった。
以前の彼女は、いつも笑っていた。
けれど、その笑顔にはどこか緊張があった。
何かを失わないように。
何かを間違えないように。
誰かに責められないように。
そんなふうに、自分自身を丁寧に包んでいる笑顔だった。
今は違う。
「今日は何をお持ちになったの?」
「帳簿です」
「まあ」
私は思わず笑ってしまった。
「まだ帳簿をつけているの?」
「以前ほどではありませんわ」
「そうでしょうね」
シャーロットは小さく笑った。
「今は、嬉しかったことだけ記録しておりますの」
「嬉しかったこと?」
「ええ」
「それは素敵ね」
彼女の婚約者――現在の婚約者だ――は、王都の法務官として堅実に働いている。
彼については、私も一度だけ会ったことがある。
彼はシャーロットを見るとき、きちんと彼女を見る。
服装でも家柄でもなく。
誰かの婚約者でもなく。
ただ、一人の女性として。
それが分かったから、私は安心した。
「そういえば」
シャーロットが紅茶を口に運びながら言った。
「新しい帳簿に、白薔薇のことを書きましたわ」
「まあ。私のこと?」
「違います」
「では、誰のことかしら」
「私の婚約者です」
私は目を丸くした。
「白薔薇がお好きなの?」
「いいえ」
「では、なぜ?」
「以前、レティシア様が『新しい婚約者様には白薔薇がお好きだとお伝えしておきました』と手紙に書いてくださったでしょう?」
「ええ」
「それを読んだ彼が、翌日、白薔薇を買ってきたのです」
「まあ」
「『あなたが好きな花だと聞いたので』と」
シャーロットは少し照れたように笑った。
「それで、嬉しくて」
「……そう」
私は紅茶を一口飲んだ。
なんだか胸の奥が温かくなった。
あの日。
シャーロットは言った。
――今度は、私自身の幸せでも記してみようか。
どうやら、本当にそうしているらしい。
「ところで」
私はカップを置いた。
「シャーロット様」
「はい?」
「一つ、謝らなければならないことがあります」
彼女が首を傾げる。
「何でしょう?」
「私は、あなたを利用しました」
「……知っていますわ」
「やはり?」
「ええ」
私は笑った。
「ですから、私もお互い様だと思っています」
「でも」
「レティシア様」
シャーロットが静かに私を見た。
「私も、あなたを利用しましたもの」
「……」
「あなたがアレクシス様からの贈り物を受け取ってくださったから、私は証拠を残せました」
「それは私も同じですわ」
「ですから、共犯です」
「共犯……」
その言葉がおかしかったのか、シャーロットがくすりと笑った。
「では、私たちはこれからも共犯ですわね」
「ええ」
私は頷いた。
「これからも、仲良くいたしましょう」
それは、私が本心から口にした言葉だった。
私は昔から、「完璧な公爵令嬢」と呼ばれてきた。
美しい。
聡明。
礼儀正しい。
慈悲深い。
誰に対しても公平。
けれど。
そんなものは、他人が勝手につけた名前だ。
本当の私は、もっと意地が悪い。
嫌いな相手には、それなりに冷たい。
馬鹿な人間には、容赦なく呆れる。
そして、自分を勝手に恋愛対象にして、こちらの意思を無視して突っ走る男性には――。
「レティシア様?」
「何でもありませんわ」
私は微笑んだ。
あの男のことを思い出しただけだ。
グランディ伯爵家は、その後も厳しい処分を受けた。
アレクシスは王都を離れ、遠い領地で暮らしていると聞いている。
彼が今、何を思っているのか。
私は知らない。
知る必要もない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
彼は最後まで、自分で選んだ。
自分で婚約破棄を口にし。
自分で贈り物を贈り。
自分で手紙を書き。
自分で、公金を使った疑惑を背負った。
誰も彼を陥れてはいない。
少なくとも、私たちは何一つ嘘をついていない。
だからこそ、私は今でも思う。
人間というのは、追い詰められたときに本性が出るのではない。
むしろ。
誰にも止められず、好きなように振る舞えるときこそ、本性が出るのだ。
「レティシア様」
「何かしら?」
「このあと、お庭を見せていただけませんか?」
「もちろん」
私たちは庭園へ向かった。
春の風が吹いている。
白薔薇が、静かに揺れていた。
「綺麗ですわね」
「ええ」
シャーロットが白薔薇を見つめる。
その横顔には、もう以前のような怯えはない。
「そういえば」
私はふと思い出した。
「シャーロット様」
「はい?」
「新しい帳簿には、何を書いているの?」
「まだ見せませんわ」
「まあ。秘密?」
「秘密です」
「以前は何でも見せてくださったのに」
「以前は、誰かのための帳簿でしたから」
シャーロットは白薔薇にそっと触れた。
「今は、自分のための帳簿ですもの」
私は微笑んだ。
「では、いつか見せてくださいな」
「ええ。いつか」
その約束が、なんだか嬉しかった。
私は完璧な公爵令嬢で。
彼女は物分かりのいい婚約者だった。
けれど、もう違う。
彼女は彼女自身の幸せを選び。
私は私自身の人生を選ぶ。
その途中で、たまにこうしてお茶を飲む。
それだけで十分だった。
ふと、庭の向こうから声がした。
「レティシア」
「あら」
振り返る。
私の婚約者が立っていた。
彼は私を見ると、穏やかに微笑む。
「迎えに来た」
「まあ。予定より早いのね」
「仕事が片付いたから」
彼の視線がシャーロットへ移る。
「失礼。お邪魔してしまったかな」
「いいえ」
シャーロットが笑った。
「私はそろそろ帰りますわ」
「そう?」
「ええ」
彼女は立ち上がり、私に一礼する。
「またお茶をご一緒してくださいね」
「もちろん」
シャーロットが去っていく。
私はその背中を見送った。
少しだけ、胸が温かくなる。
「仲のいい友人なんだな」
隣から声がする。
「ええ」
「なら、よかった」
「何が?」
「君が、あんなふうに笑うようになったこと」
私は彼を見上げた。
「……どういう意味?」
「昔の君は、いつも完璧だったから」
「今は?」
「今は、少しだけ意地悪そうに笑う」
「まあ」
私は目を細めた。
「失礼な方ね」
「褒めているんだ」
「では、褒め言葉として受け取っておきますわ」
彼が笑う。
私も笑った。
白薔薇が風に揺れている。
その花を見ながら、私はふと思う。
あの日、シャーロットが彼の恋を応援したのは、きっと彼を愛していたからではない。
自分を失わないためだったのだ。
誰かの心を変えようとするより。
誰かを憎むより。
ただ、自分が正しいと思うことを選び続ける。
その結果として、彼女は幸せを手に入れた。
私はそれを、とても美しいことだと思う。
「レティシア」
「何?」
「帰ろう」
「ええ」
私は彼の差し出した手を取った。
もう、誰かのために笑う必要はない。
誰かの恋を応援する必要もない。
誰かに「完璧」だと思われる必要もない。
ただ、自分が選んだ人と。
自分が選んだ人生を。
自分の足で歩いていけばいい。
それで十分なのだから。
――そして。
もし、いつかシャーロットがまた帳簿を見せてくれたなら。
その最後の頁には、きっとこう書かれているのだろう。
『私は今日も幸せだった』
その一行があれば。
私は、それ以上何も望まない。
お読みいただきありがとうございました!
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