記述の改竄、鉄の沈黙
老人の顔、その「空洞」から溢れ出した文字列が、白濁した空に幾重もの帯となって広がっていく。それはこの世界の法則を記述するログだった。俺たちが吸う酸素の濃度、重力の係数、そして個人の運命。すべてが記号として目の前に曝け出されている。
「……不可解。極めて、不可解」
老人の口から漏れたのは、感情を欠いた合成音だった。老人の身体そのものがノイズのようにブレ始め、周囲の瓦礫と同化しては分離する。
「汝の存在、そして汝の指先。記述に存在せぬはずの出力が、全事象の三割を汚染した。修復師。汝の行いは、この世界の物語を、完結不能な『ゴミ』へ変えている」
「ゴミ、か。……最高の褒め言葉だな」
俺は直したばかりの鋼の棒を肩に担ぎ、一歩踏み出した。足元で青草が芽吹き、老人が撒き散らした虚無を塗り替えていく。俺が歩く場所だけが、この死にかけた世界の中で唯一の「現実」となっていた。
「ブリュンヒルデ。アイギス。……お前たちは、もう消えない」
俺の声に、二人が呼応した。漆黒の剣を構えたブリュンヒルデが、老人の死角へ音もなく回り込む。その後方では、アイギスが砕かれた結界の破片を自らの肉体に埋め込むようにして、より強固な、より「生々しい」防御壁を再構築していた。
「……あ。……敵のシステム、強制シャットダウン。……オーナー、今なら、その『空洞』を叩ける。……たぶん」
ラジエルが俺の耳元で囁く。彼女の指先はもう透き通っていない。俺の魔力が、彼女というデータの輪郭を無理やりこの世に繋ぎ止めていた。
「消えよ、バグめ」
老人が指を鳴らす。直後、俺の足元から巨大な「文字の鎖」が噴き出し、俺の四肢を縛り上げた。それは重さではない。俺の身体を「動かない静止画」として定義し直す、世界の命令だ。
「……動け、俺の体。……まだ、何も直してないだろ」
俺は心臓の鼓動を魔力に変え、四肢を縛る概念を力任せに引き千切った。筋肉が悲鳴を上げ、血管が浮き出る。だが、俺の指先が老人の胸元、その「空洞」に触れた瞬間、すべての文字列が逆流を始めた。
「――全事象、強制書き換え(オーバーライト)」
俺の掌から放たれた【修復】が、老人の内側にあった「物語のマニュアル」を、一文字ずつ物理的な「鉄」へと変えていく。
無機質な言葉の羅列が、質量を持った金属へと置換される。その重みに耐えきれず、老人の身体が地面に沈み、ガシャン、と鈍い音を立てて崩れ落ちた。
そこにあったのは、もはや神の使いではない。
無数の歯車とネジが組み合わさった、ただの、巨大な「壊れた機械の残骸」だった。
「……なんだ。お前も、ただのガラクタだったんだな」
俺は吐き捨て、血の混じった唾を吐いた。
老人の残骸から光が失われ、辺りに再びゴミ捨て場の、あの不快で安心する錆の匂いが戻ってくる。
だが、安堵はなかった。
結界が完全に消失した今、ゴミ捨て場の周囲を囲んでいた「帝国の軍勢」が、夕闇の中にその姿を現していた。数千の松明と、冷たく光る魔導銃の列。
「……ようやく店を開けられると思ったんだが。……客層が最悪だな」
俺は、重く沈む鋼の棒を握り直し、迫り来る軍勢の足音を静かに聞いていた。




