神の記述、あるいは作者の不在
空が割れる音は、意外なほど静かだった。
アイギスが展開していた黄金の結界は、もうない。砕け散った破片が、足元の泥水に沈んでいく。
老人が一歩、こちらへ踏み出した。
その瞬間、周囲の空間が不自然に歪んだ。ガレキが砂に還り、吹き抜ける風から湿り気が消える。老人の周囲だけが、まるで「描きかけのスケッチ」のように、世界の密度を失っていた。
「……不可解な。汝の指先には、理がない」
老人の声は、掠れた古紙が擦れるような音がした。
彼は、俺が握りつぶした「光の杭」の残骸――地面で黒く濁る液体を、目隠しの奥から凝視している。
「世界の記述は絶対である。死した者は土に還り、壊れた器は無に還る。それがこの世界の『整合性』だ。だが汝は、その頁を強引にめくり、塗り潰した」
「……小難しい理屈だな」
俺は、右手の痛みを押し殺して、手近なガラクタの山から一本の鉄パイプを拾い上げた。 ただの、半分以上が錆び付いたゴミだ。
「俺は、本を読んでるわけじゃない。ここで生きてるんだ。……壊れたら直す。動かなくなったら叩く。それが道具に対する礼儀だろ」
俺が鉄パイプに魔力を通すと、掌から伝わる【修復】の波動が、錆を焼き切り、分子の結合を無理やり再編していく。
赤茶けたゴミが、一瞬で、月光を鋭く反射する「冷たい鋼」へと変質した。
「汝の成していることは、修復ではない。……『改竄』だ。この世界という物語に対する、卑劣な不正行為である」
老人が腕を横に薙いだ。
直後、俺の背後の空間から、巨大な「黒い空白」が迫り上がった。 それは攻撃ですらない。そこにあるはずの地形、空気、そして仲間の存在を、根こそぎ「なかったこと」にする削除の波だ。
「……あ。……オーナー、逃げて。……その波、触れたら『記憶』ごと消される。……私のセーブデータが、消える……」
背中で、ラジエルの声が震えている。 彼女の指が、俺の背中を強く、壊れそうなほど強く掴んだ。
彼女たちは、俺に直されるまで、このゴミ捨て場で「死」すら許されずに放置されていた。 それを今さら、神の都合で「なかったこと」になんてさせてたまるか。
「ラジエル、目をつぶってろ」
俺は、直したばかりの鉄パイプを、迫り来る「空白」に向かって力任せに突き立てた。
鉄の先端が、虚無に触れる。
魂が、冷却材を流し込まれたように一瞬で凍りついた。だが、俺はそこへ、ありったけの「熱」を流し込んだ。
俺の修復は、形を戻すことじゃない。 その物が持っていた「意味」を、全盛期を越えた場所まで引き上げることだ。
「――再起動・世界観調整」
咆哮に近い声とともに、鉄パイプから放たれた衝撃が、迫り来る空白を強引に押し返した。
虚無が、俺の熱に焼かれて、実体を持った「ただの黒い石」へと変質し、砕け散る。
「な……ッ!?」
老人の目隠しが、ついに外れた。
その奥にあったのは、目ではなく、無限に文字列が流れる「空洞」だった。
「……お前、中身はただの『マニュアル』か。……可哀想に。誰に書かされたか知らないが、随分と無味乾燥な物語だな」
俺は一歩、老人へと歩み寄った。
足元の泥が、俺の歩みに合わせて、鮮やかな青草へと「修復」されていく。
「お前の主(作者)に伝えておけ。……この物語の結末は、俺が叩き直す。……勝手に完結させるな、とな」
俺の右手からは、依然として血が滴っていた。
だが、その赤さだけが、神の用意した無機質な世界において、唯一の「生」の証明だった。




