叩き直す者
ゴミ捨て場の朝は、いつも錆果て朽ちた鉄の匂いがする。
だが、その日の朝は違った。風が、無機質で乾いた凍てつく冷気を運んできた。
アイギスの結界が、内側からミリミリと軋んでいる。
荘厳な黄金の膜に、蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。誰が攻撃したわけでもない。ただ、そこに「存在する」だけの何かが、この世界の不純物を塗り替えようとしていた。
「……あ。……来た。……世界のパッチ。……不要なデータを、消しに来たみたい。」
ラジエルが、俺のシャツの裾を掴んだ。 その指先は、まるで淡い雪解けのように白く透けている。 彼女という存在が、世界の記憶、理という網から、静かにこぼれ落ちようとしていた。
結界の向こう側。
瓦礫の山の上に、目隠しをした老人が立っていた。
武器は持っていない、空手だ。しかし、ただの老人でない事は一眼見て本能が察知した。
その男が、一歩踏み出すたびに、足元のガラクタが砂のように砕け、概念ごと消滅していく。
「……不服従の残滓たちよ。そして、世界の理を歪める修復師よ」
老人の声には、質量がなかった。
ただの音の羅列。だが、それが鼓膜に触れるたび、俺の感覚の端々が削り取られていくような不快感が走る。
「汝が触れたものは、すべてが歴史の澱に沈むべき毒。死すべき者が生き、朽ちるべき刃が鋭さを増す。それは、この世界の秩序に対する明白な『バグ』である」
「……バグか。ひどい言い草だな」
俺は、動かなくなった懐中時計を掌で転がした。
掌の燃え滾る熱が、冷え切った金属に伝わる。
空から、無数の「光の杭」が降り注いだ。
それは物理的な攻撃ではない。世界のルールが「そこには何も存在しない」と【強制的に上書き(オーバーライド)】する、拒絶の意志。
ブリュンヒルデが素早く前に出る。
彼女が銀の剣を振り上げた瞬間、その刀身が、光の杭に触れるまでもなくガラスのように砕け散った。
「な……ッ!? 私の剣が……」
誇り高き戦乙女が、膝からガックリと崩れ落ちた。
世界そのものが「貴様はもう必要ない」と告げているのだ。
絶望。あるいは、存在そのものの否定。
俺の視界から、色が消えていった。
ラジエルが、ブリュンヒルデが、モノクロの霧に包まれて薄れていく。
「……勝手に消すなよ」
俺は、消えかかっている右手を無理やり実体化させた。
熱い。魂に、焼けたコテで直接えぐられるような激痛が走る。
俺は、目前まで迫った「光の杭」を、素手で掴み取った。
「な……汝、何を……!」
老人の声が、初めて揺れた。
俺の掌の中で、世界の意志を象徴する光が、激しく火花を散らす。
消去のチカラと、俺の【修復】が、ゼロ距離で正面衝突していた。
「……この杭、ひどいな。……歪んでるし、何より『中身』が空っぽだ」
俺は奥歯を噛み締め、光の杭を無理やり捻じ曲げた。
パリン、と。
概念事砕ける音が、静寂を切り裂く。
俺の手の中で、光は黒いドロドロとした液体に変質し、地面に滴り落ちた。
消去のプログラムを、俺が「ただの穢れた魔力」へと作り替えた。
「ブリュンヒルデ、立て。剣はまた、俺が直してやる」
俺は、足元に転がっていた砕けた剣の破片を拾い集めた。
手のひらの中で、破片が、俺の血と、執着と、世界の拒絶を飲み込んで繋がっていく。
そこに現れたのは、白銀の気高さではない。
世界の恨みを吸い込み、ドス黒く脈動する、名もなき異形の大剣。
「……御意。この命、錆び果てるまで捧げましょう」
彼女が立ち上がる。
その瞳に宿るのは、もはや忠誠ではない。
自分を修復し、再びこの地獄に繋ぎ止めた男への、呪いにも似た執着。
「……神だか管理者だか知らないが、一つだけ教えてやる」
俺は、老人に向けて一歩踏み出した。
俺が歩く跡には、消えたはずの色が、より濃く、より歪んだ形で戻ってくる。
「俺は、修理屋だ。……まだ壊れてるって吐かすなら、その腐った根性ごと、俺が叩き直してやるよ」
俺の右手からは、止まらない血が滴っていた。
だがその痛みこそが、俺がまだこの世界に、確かに触れているという唯一の証だった。




