下巻
第六章 母の声
雑木林へ続く足跡は、途中で途切れていた。
正確には、消えていたのではない。雪と風に削られ、どこまでが人の足跡で、どこからが枝から落ちた雪の跡なのか、判別できなくなっていた。鑑識が慎重に写真を撮り、周囲の雪を採取している。だが、そこから決定的なものが出るとは限らなかった。
真壁は林の縁に立ち、白く霞む村を見ていた。
農業用倉庫、村道、雪原、古い支柱、沢。
事件の配置は、ようやく形を見せ始めていた。
明里は、最初から雪原を歩いてきたわけではない。
倉庫の中で何かが起きた。
そこから村道を越え、雪原へ出た。
犯人の足跡は、除雪と降雪に消された。
明里自身の足跡だけが、最後の白い舞台に残された。
ただし、まだ問題がある。
誰がそれをしたのか。
人を疑うことは簡単だ。由香には動機がある。遥には過去を隠す理由がある。村瀬には十年前の不手際を隠す理由がある。診療所の人間にも、場所や道具に触れる機会がある。
だが、動機と機会は犯人を示すものではない。誰でもできることは、誰がしたかの証明にはならない。
「真壁さん」
滝沢が林の方から戻ってきた。
「足跡は駄目です。途中で消えています。サイズもはっきりしません。ただ、長靴ですね。村の人間なら誰でも履いているような」
「だろうな」
「倉庫の裏手に出入りした可能性はあります。でも、いつついた足跡かまでは」
「今はそれでいい」
「よくないですよ」
滝沢は口を尖らせた。
「ここまで見えてきてるのに、肝心なところが全部ぼやけています」
「雪の事件はそういうものだ」
「詩みたいに言わないでください」
「詩ではない。経験だ」
真壁は倉庫を振り返った。
中では榊たちが作業を続けている。床の擦れ跡、ストーブ、煤、ビニール紐、防寒コート。どれも小さな手がかりだ。ひとつだけでは何も言えない。だが、同じ方向を指し始めれば意味が生まれる。
「診療所へ行く」
真壁は言った。
「さっき言っていた、ストーブの件ですね」
「ああ」
「由香さんにも聞きますか」
「最後に聞く」
「最後?」
「先に外堀を埋める」
村の中心に戻ると、空はさらに低くなっていた。昼を過ぎているはずなのに、夕方のように暗い。白瀬村診療所の待合室には、朝よりも人が増えていた。村人が数人、落ち着かない様子で座っている。事件の噂を聞きつけた者たちだろう。看護師は困った顔で、彼らに帰るよう促していた。
真壁たちが入ると、会話が止まった。
小さな村では、警察官の動きそのものが情報になる。真壁はその視線を無視し、受付へ向かった。
「院長先生に話を聞きたい」
看護師は少し躊躇してから、奥へ声をかけた。
診療所の院長、黒岩忠志は六十代前半の男だった。白髪混じりの髪を後ろに撫でつけ、丸い眼鏡をかけている。表情は穏やかだが、疲労が濃い。過疎地の診療所を一人で支える医師らしい、諦めに似た落ち着きがあった。
「白石さんのことでしょうか」
黒岩は診察室の椅子を勧めた。
「それもあります。農業用倉庫についても」
「倉庫?」
「村道沿いの古い倉庫です。あそこにあるストーブに心当たりはありますか」
黒岩は少し考えた。
「ああ、共同倉庫のことですね。冬場、除雪作業の人が休憩に使うことがあります。古いストーブも置いてあったはずです」
「最近使われましたか」
「分かりません。私は使っていません」
「診療所のストーブと似ていますね」
黒岩は診察室の隅に置かれたストーブを見た。待合室と同じ、古い反射式の灯油ストーブだった。
「この村では、どこにでもある型です。古い家なら一台は残っているでしょう」
「点火音に特徴がある」
「古いですからね。芯を上げるときに金属音がします」
「倉庫のストーブを使える人間は?」
「鍵を持っている者なら。農家組合、建設会社、役場、駐在所にも予備があったと思います」
滝沢が手帳に書き込む。
「白石由香さんは?」
真壁が尋ねると、黒岩は眉を動かした。
「由香さんですか」
「鍵を持っていましたか」
「以前は持っていたかもしれません」
「なぜ」
「彼女は数年前まで、冬の除雪作業員への炊き出しを手伝っていました。倉庫で湯を沸かしたり、ストーブを点けたりしていたことがあります」
「今も鍵を?」
「そこまでは分かりません。返したかもしれないし、古い合鍵が残っているかもしれない」
真壁は頷いた。
由香は倉庫を知っている。ストーブも知っている。鍵に触れる機会もあった。
「昨夜、由香さんは診療所に来ましたか」
「昨夜?」
「午後十一時前後から深夜にかけて」
黒岩は首を振った。
「来ていません。少なくとも私は見ていません」
「看護師は」
「夜間は私一人です。緊急呼び出しがあれば対応しますが、昨夜はありませんでした」
「村役場前の公衆電話は、診療所から見えますか」
「待合室の窓から少し。直接ではありませんが」
「昨夜、その付近で誰かを見ましたか」
「いえ。雪が強くなっていましたし、夜は外を見ません」
「由香さんは今日、ここに来たとき、どんな状態でしたか」
黒岩は息を吐いた。
「ひどく取り乱していました。娘さんの遺体が見つかったのですから当然です」
「それ以外に、不自然な点は」
「刑事さんは、母親を疑っているんですか」
黒岩の声が少し硬くなった。
「誰かを外す段階ではありません」
「由香さんは、苦労してきた人です」
「それは聞いています」
「弟を亡くし、夫と別れ、娘を一人で育てた。あの人がどれだけ明里ちゃんを大事にしていたか、村の人間ならみんな知っています」
「大事にしている人間を傷つけることもあります」
黒岩は黙った。
真壁は声を変えずに続けた。
「由香さんは、十年前の祐介さんの電話について、あなたに相談したことがありますか」
「ありません」
「祐介さんの死後、精神的に不安定になったことは」
「それは当然ありました。診療所にも何度か来ています。眠れない、動悸がする、音が気になる、と」
「音?」
黒岩はしまったという顔をした。
「どんな音です」
「風の音です。雪の日になると、弟の声が聞こえる気がすると言っていました」
「いつ頃」
「事故の後、しばらくです。何年も前の話です」
「最近は」
「最近は聞いていません」
「本当に?」
黒岩は真壁を見た。
「患者のことを軽々しく話すわけにはいきません」
「殺人捜査です」
「まだ殺人と決まったわけではないでしょう」
「決まってからでは遅い」
診察室に沈黙が落ちた。
黒岩は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「一週間ほど前、由香さんが来ました」
「内容は」
「明里ちゃんが祐介さんのことを調べている。昔の声がまた戻ってきた気がする。そう言っていました」
「昔の声」
「祐介さんの声でしょう」
「由香さんは、聞こえると言ったんですか」
「はっきりとは。ただ、雪の日になると耳の奥で鳴る、と」
「その時、誰かほかに聞いていましたか」
「受付に看護師がいましたが、内容までは聞こえていないはずです」
「由香さんは、明里さんに知られることを恐れていましたか」
黒岩は少し迷った。
「恐れていたというより、明里ちゃんを巻き込みたくないと言っていました」
「巻き込む?」
「十年前のことは、もう終わったことだと。明里には関係ないと」
真壁は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「刑事さん」
黒岩が呼び止めた。
「あの人を追い詰めすぎないでください」
「追い詰めているのは、私ではありません」
真壁は言った。
「十年前の声です」
診察室を出ると、滝沢が小声で言った。
「由香さん、昔から祐介の声に苦しんでいたんですね」
「ああ」
「でも、明里さんはそれを救おうとした」
「そうだな」
「救おうとして、逆に母親を追い詰めた」
真壁は答えなかった。
そう単純に言っていいのか分からなかった。明里は母親を追い詰めたわけではない。彼女は母の沈黙に手を伸ばしただけだ。だが、沈黙の中にあるものが刃物なら、触れた者も傷つく。
受付横の廊下で、白石由香が立っていた。
毛布はもうかけていなかった。黒いコートを着ている。顔は青白く、髪は乱れているが、目だけは奇妙に澄んでいた。真壁たちの話を聞いていたのかもしれない。
「刑事さん」
由香は言った。
「明里のところへ行かせてください」
「今はできません」
「母親なのに」
「司法解剖の手続きがあります」
「私は、あの子に謝らなきゃいけないんです」
滝沢が視線を下げた。
真壁は由香を見た。
「何を謝るんですか」
由香の唇が震えた。
「全部です」
「十年前のことも?」
由香は目を閉じた。
「祐介のことは、明里には関係なかった」
「明里さんは、関係があると思った」
「あの子は優しすぎたんです」
由香の声が急に鋭くなった。
「優しいから、何でも分かろうとする。人の痛みを覗き込もうとする。そんなこと、しなくてよかったのに」
「だから止めようとした?」
由香は顔を上げた。
「何を言っているんですか」
「明里さんが調べるのを止めたかったのではありませんか」
「当たり前です。母親ですから」
「どうやって止めたんです」
「何度も言いました。危ないからやめなさいと」
「言葉だけですか」
由香の目が揺れた。
「昨夜、明里さんは非通知の電話を受けています。村役場前の公衆電話からです。その後、録音機を回し、家を出た可能性が高い」
「知りません」
「防犯カメラには、電話ボックスの近くを通る黒いコートの女性が映っていました」
「私ではありません」
「まだ誰だとは言っていません」
由香は息を詰めた。
真壁はゆっくり言葉を続けた。
「その女性は、電話の後、診療所側へ戻っています」
「診療所側には、いろんな家があります」
「そうですね」
「私だけじゃない」
「その通りです」
由香は唇を噛んだ。
否定しながら、自分で自分を追い込んでいる。真壁はそう感じた。疑われ慣れていない人間は、質問の意図を読みすぎる。そして、聞かれていないことまで答える。
「由香さん」
真壁は声を落とした。
「あなたは、昨夜十一時二十五分頃、どこにいましたか」
「家です」
「明里さんの部屋に?」
「いいえ」
「一階ですか」
「はい」
「起きていた」
「寝ていました」
「起きていたのか、寝ていたのか」
由香は黙った。
「眠れなかったんですね」
由香の目から涙が滲んだ。
「雪の日は、眠れないんです」
「祐介さんの声が聞こえるから」
「違います」
「耳の奥で鳴ると、黒岩医師に話していましたね」
「先生がそんなことを」
「あなたを責めたいわけではありません」
「みんなそう言うんです」
由香の声が震えた。
「責めたいわけじゃない。あなたのためだ。話せば楽になる。何度も聞きました。でも、話して楽になるなら、十年前に楽になっています」
「明里さんも、そう言いましたか」
由香は黙り込んだ。
真壁は一歩近づいた。
「昨夜、明里さんはあなたに何を言いましたか」
「話していません」
「本当に?」
「話していません」
「では、なぜ明里さんの未送信メッセージは、あなた宛てだったんですか」
「知りません」
「お母さんも、聞いていたんだよね」
由香が耳を塞いだ。
「やめて」
「明里さんは、あなたを責めようとしていたんですか」
「やめてください」
「それとも、あなたを救おうとしていたんですか」
由香はその場にしゃがみ込んだ。
受付にいた看護師が立ち上がる。村人たちがざわつく。滝沢が制止するように手を上げた。
由香は床に座り込み、両手で耳を塞いでいた。
「聞こえなかったんです」
彼女は言った。
「本当に、聞こえなかったんです」
その言葉は、祐介のことなのか、明里のことなのか、真壁には分からなかった。
「何が聞こえなかったんですか」
由香は答えない。
「祐介さんの声ですか」
答えない。
「明里さんの声ですか」
由香の肩が震えた。
真壁はそこで質問を止めた。
今はまだ早い。彼女は崩れかけているが、崩れる方向を間違えれば、真相ではなく混乱だけが残る。
「滝沢」
「はい」
「白石家へ行く」
「由香さんは」
「村瀬に見ていてもらう」
その名を聞いた由香が、顔を上げた。
目が赤く濡れている。
「村瀬さんには、言わないで」
真壁は動きを止めた。
「何を?」
由香はすぐに首を振った。
「何でもありません」
「今、何を言わないでと言いましたか」
「何でもないんです」
「村瀬さんには、十年前の電話のことを知られていました。あなたが風しか聞こえなかったと言ったことも、金属音が聞こえたことも」
「違う」
「何が違うんですか」
「違うんです」
由香は立ち上がろうとして、よろめいた。看護師が支える。真壁はそれ以上追わなかった。
白石家は、診療所から歩いて十分ほどの場所にあった。
村の中では比較的新しい二階建ての家だったが、外壁は雪と風に晒されて色褪せている。玄関前には、警察官の足跡がいくつも残っていた。室内はすでに捜索が始まっている。
明里の部屋は二階の南側にあった。
少女の部屋らしい明るさと、捜査現場の冷たさが混じっていた。ベッド、机、本棚、クローゼット。壁には学校の予定表と、村の古い地図のコピーが貼られている。机の上にはノートパソコン、筆記具、録音機用の予備電池、防災無線の資料、十年前の新聞記事。
真壁は机の前に立った。
ノートが開かれている。捜査員がすでに写真を撮った後だった。
祐介さんの声は本物か。
誰かが声を作っている?
小型スピーカー、防水型。
支柱に固定可能。
音源はスマホでも可。
祐介さんの声を知る人。
お母さん。遥さん。村瀬さん。
声を聞いた人は一人じゃない。
でも、今の声は誰が作っている?
真壁は最後の一行を見た。
今の声は誰が作っている?
明里は、怪談を信じていたのではない。
祐介の霊を追っていたのでもない。
彼女は、偽装を見抜こうとしていた。
滝沢が隣で別のメモを見つけた。
「真壁さん、これ」
それは小さな付箋だった。ノートパソコンの横に貼られていたらしい。
そこには、短くこう書かれていた。
声を聞けば、嘘をついている人が分かる。
真壁は付箋を受け取った。
「どういう意味でしょう」
滝沢が尋ねる。
「明里は、録音を誰かに聞かせるつもりだった」
「誰かに?」
「声を聞いたときの反応を見るためだ」
「ああ」
滝沢が頷いた。
「遥さんも、祐介の声じゃないと言いました。由香さんも、メッセージに反応した。村瀬さんも十年前の通話を隠していた」
「明里は、一人ずつ試していたのかもしれない」
「危険すぎます」
「十七歳だ」
「だからって」
「十七歳だから、危険の重さを正確に測れなかった」
真壁は本棚を見た。
参考書、文庫本、地域史の冊子、古いアルバム。棚の下段に、子供の頃の写真があった。明里が七歳くらいの頃だろう。雪だるまの隣で笑っている。隣に若い男がいる。白石祐介だ。明里の首には赤いマフラー。祐介の手には、小さな鈴のついたキーホルダーが握られている。
写真の裏に、明里の字ではない丸い文字があった。
祐ちゃんへ。
山で迷子にならないように。
真壁は写真を見つめた。
この鈴の音を、明里は覚えていたのだろうか。七歳の記憶として。叔父の笑顔と一緒に。もし現在の録音に、その鈴の音が混じっていたなら、彼女にとってそれはただの音ではない。
祐介がそこにいる証拠になる。
あるいは、誰かが祐介を利用している証拠になる。
「祐介の遺留品はどこだ」
真壁が尋ねると、捜査員が答えた。
「納戸に箱があります。確認中です」
納戸は一階の廊下奥にあった。
古い段ボール箱がいくつも積まれている。その一つに「祐介」と書かれていた。中には、衣類、古い携帯電話の充電器、財布、鍵、懐中電灯、折りたたみナイフ、そして鈴のついたキーホルダーが入っていた。
鈴は黒ずんでいたが、小さく振ると音がした。
チン。
真壁の耳に、雪原で聞いた音が重なった。
鑑識用の袋に入れられた鈴を、滝沢が見つめる。
「これが録音の音と一致すれば」
「犯人は、この鈴の音を使った可能性がある」
「でも、この箱は白石家にあった」
「触れる人間は限られる」
「由香さん、明里さん」
「そして、家に出入りできた者」
「村瀬さんも?」
「十年前の事故処理で遺留品を知っている。だが、今この箱に触れたかは別だ」
滝沢は息を吐いた。
「真壁さん、由香さんがかなり濃くなってきました」
「濃く見えるように配置されている可能性もある」
「まだそう言いますか」
「言う」
真壁は鈴を見た。
由香が犯人なら、娘を声で誘い出すために、弟の鈴の音を使ったことになる。あまりに残酷だ。だが、追い詰められた人間は、時に最も残酷なものを選ぶ。自分の痛みに近いものほど、道具にしやすいことがある。
そのとき、滝沢の電話が鳴った。
「はい。……はい。……本当ですか」
滝沢の顔つきが変わった。
「分かりました。すぐ戻ります」
電話を切る。
「役場の防犯カメラ解析です。電話ボックス付近を通った黒いコートの人物、映像補正で少し分かりました」
「誰だ」
「歩き方に特徴があります。右足に少し体重が乗る。白石由香と似ているそうです」
右足。
真壁は雪原の足跡を思い出した。右足だけが少し深い。明里の足跡にも同じような偏りがあった。
「似ている、か」
「まだ断定ではありません。でも」
「明里の足跡も右が深かった」
「はい」
「由香が支えた?」
「でも、支えたなら由香の足跡が残る」
「道路部分では残らない。雪原では、明里だけを歩かせた」
「意識朦朧の明里を?」
「あるいは、明里自身が歩いた。母親の声を聞いて」
滝沢は黙った。
母親の声。
祐介の声ではなく。
偽の声でもなく。
最後に明里を歩かせたのは、母の声だったのかもしれない。
真壁は白石家の玄関に立ち、外の雪を見た。
由香は十年前、弟の声を電話越しに聞き、切った。
昨夜、娘の声を聞き、また逃げた。
だが、逃げきれずに、何かをした。
まだ決定的な証拠はない。
だが、真壁にはもう、事件の輪郭が見えていた。
「診療所へ戻る」
滝沢は頷いた。
診療所へ戻る途中、雪はさらに弱まっていた。空の一部に、薄い明るさが見える。だが村は白く沈んだままだった。
由香は処置室にいた。
今度は座っていなかった。窓際に立ち、外を見ていた。真壁が入っても振り返らない。
「白石さん」
真壁が声をかけると、由香は静かに言った。
「明里の部屋を見たんですね」
「はい」
「あの子、きれいにしていたでしょう」
「整理されていました」
「私と違って、何でもきちんとする子でした。小さい頃から、なくし物をしない。忘れ物もしない。私が忘れていることまで、覚えている」
由香は窓の外を見つめたまま笑った。
「だから、困るんです」
「困る?」
「忘れたいことまで、あの子は拾ってくるから」
真壁は一歩だけ近づいた。
「祐介さんの鈴を見つけました」
由香の肩が揺れた。
「明里さんが子供の頃に渡したものですね」
「そうです」
「昨夜の録音に、似た音が入っていました」
由香は振り返らなかった。
「知っていますか」
「知りません」
「明里さんは、その音にも気づいていたようです」
「そうですか」
「あなたも、十年前の電話で金属音を聞いた」
「風の音です」
「祐介さんの鈴では?」
由香はゆっくり振り返った。
その顔には、涙はなかった。
「刑事さんは、私に何を言わせたいんですか」
「真実です」
「真実なんて、何の役に立つんですか」
「亡くなった人のために」
「死んだ人は戻らない」
「生きている人のために」
「生きている人も救われない」
「では、なぜ明里さんは調べたんでしょう」
由香の表情が歪んだ。
「あの子が、優しかったからです」
「あなたはその優しさを恐れた」
「違います」
「明里さんが真相に近づくほど、あなたは十年前の電話から逃げられなくなった」
「違う」
「昨夜、公衆電話から明里さんに電話をかけましたね」
「違います」
「祐介さんの声が聞こえると伝えた」
「違います」
「倉庫に呼び出した」
「違います」
「倉庫で、明里さんと話した」
「違います」
「そこで、明里さんはあなたに言った」
由香は両手を握りしめた。
「お母さんも、聞いていたんだよね」
「やめて」
「その言葉を、あなたは責められていると受け取った」
「やめてください」
「でも、明里さんは責めていなかった。あなたを救おうとしていた」
「やめて!」
由香の叫びが処置室に響いた。
看護師が廊下から顔を出す。滝沢が手で制した。
由香は肩で息をしていた。
「救う?」
彼女は笑った。
笑い声なのに、泣き声に近かった。
「どうやって救うんですか。私は弟の電話を切ったんです。助けを求めていたかもしれないのに。風しか聞こえなかった。本当にそうだったかもしれない。でも、違ったかもしれない。私は十年間、ずっと同じことを考えてきました。聞こえなかったのか。聞かなかったのか。聞きたくなかったのか」
真壁は黙っていた。
「明里は言いました。お母さんは悪くないって。祐介さんはお母さんを恨んでいないって。どうしてそんなことが言えるんですか。あの子は何も知らないのに。私がどんな声で祐介に怒鳴ったかも知らないのに」
「昨夜、明里さんと話したんですね」
由香は息を止めた。
もう否定は出てこなかった。
「どこで」
真壁が尋ねた。
由香は窓の外を見た。
「倉庫です」
滝沢が小さく息を呑んだ。
「なぜ、そこへ」
「明里を止めたかった」
「公衆電話を使って?」
由香は頷かなかった。だが否定もしなかった。
「声が聞こえると言えば、明里さんは来ると思った」
「少し話すだけのつもりでした」
「なぜ家で話さなかった」
「家だと、逃げられないから」
「誰が」
由香は唇を震わせた。
「私が」
処置室のストーブが小さく鳴った。金属が冷えて縮むような音だった。
「倉庫で何がありましたか」
由香は目を閉じた。
「明里は録音機を持っていました。私が電話をしたことにも気づいていた。祐介の声を流したのは誰か、確かめに来たんです」
「あなたが声を流した?」
「違います」
「では誰が」
「分かりません」
由香はすぐに言った。
そこだけは強かった。
「私は、声を流していません。祐介の声なんて、作っていません」
「では、なぜ明里さんを呼び出した」
「話したかったからです。あの子がこれ以上、村の人たちに聞いて回らないように。遥さんにも、村瀬さんにも、もう近づかないように」
「倉庫で口論になった」
由香は頷いた。
「明里は、全部話そうと言いました。私も、遥さんも、村瀬さんも、みんな苦しいなら、ちゃんと話せばいいって」
「あなたは」
「無理だと言いました」
「それで」
由香は両手で顔を覆った。
「明里が、私の手を取ったんです」
声が崩れた。
「お母さんは、聞こえていたんじゃなくて、聞きたくなかっただけなんだよね。でも、それでもいい。もう逃げなくていい。そう言いました」
「それで、あなたは?」
「突き飛ばしました」
処置室が静まり返った。
「強く押すつもりはなかったんです。でも、明里は後ろに倒れて、ストーブの角に頭をぶつけました」
「倉庫のストーブですね」
由香は頷いた。
「血は?」
「少し。思ったほどではありませんでした。でも、明里は動かなくなった。呼んでも、返事をしなかった」
「救急車を呼ばなかった」
由香の顔が歪んだ。
「呼べなかった」
「なぜ」
「十年前と同じだったから」
真壁は彼女を見た。
「声を聞いていたのに、動けなかった」
由香は崩れるように床へ膝をついた。
「そうです」
彼女は泣かなかった。
涙はもう出尽くしていたのかもしれない。
「私は、また動けなかった。明里が目の前にいたのに。助けなきゃいけないのに。電話を取ればよかっただけなのに。救急車を呼べばよかっただけなのに。私は、十年前と同じことをした」
「その後、明里さんは意識を取り戻しましたか」
由香は小さく頷いた。
「少しだけ。目を開けました。寒い、と言いました」
滝沢が顔を伏せた。
「私は、家に連れて帰ろうと思いました。でも、明里が立ち上がって、外へ出ようとしたんです」
「なぜ」
「声がするって」
「声?」
「祐介の声が、まだ聞こえるって」
真壁は眉を寄せた。
「あなたは声を流していないと言いましたね」
「流していません」
「では、その声は誰が」
「分かりません」
由香の声は震えていた。
「本当に分からないんです。でも、明里には聞こえていた。録音機を握って、外へ出ていった。私は止めようとした。でも、あの子は、聞かなきゃいけないって」
「あなたはついて行った」
「村道までは。雪原に入るところで、明里が言いました。来ないで、と」
「それで?」
「私は、立っているだけでした」
真壁は目を閉じた。
足跡の謎が解けていく。
倉庫から村道までは、由香が付き添った。道路上の痕跡は除雪と車で消える。雪原へ入ったのは明里だけ。だから足跡は一人分。右足が深かったのは、頭を打ち、身体のバランスが崩れていたから。最後に彼女は、声の方へ歩いた。
では、声を流したのは誰か。
由香が嘘をついている可能性はある。だが、彼女の告白には、まだ別の恐怖が残っていた。
自分が突き飛ばした。
救急車を呼ばなかった。
娘を雪原へ行かせてしまった。
それだけで、彼女の罪は十分に重い。あえて声の偽装だけ否定する理由があるとすれば、そこは本当に別の人物が関わっている可能性がある。
「明里さんが雪原へ入った後、あなたはどうしましたか」
「家に戻りました」
「通報しなかった」
「できませんでした」
「娘が雪原へ向かったのに」
「できなかったんです」
「あなたは二度、聞こえないふりをした」
真壁の言葉に、由香は目を閉じた。
「はい」
短い返事だった。
真壁は滝沢を見た。
「白石由香さんを任意同行する。救護義務違反、死体遺棄、傷害致死の可能性を視野に入れる。ただし、声の偽装は別件として追う」
「はい」
滝沢の声も重かった。
由香は抵抗しなかった。立ち上がるとき、看護師が支えようとしたが、彼女は首を振った。
「歩けます」
その足取りは頼りなかった。
処置室を出る前、由香は振り返った。
「刑事さん」
「何ですか」
「明里は、最後に何か言っていましたか」
真壁はすぐには答えなかった。
録音機に残っていた声。
足音。
風。
まだ、聞こえる。
それが明里の言葉だったのか、別の誰かの声だったのかは、まだ分からない。
「録音を解析中です」
真壁は言った。
「分かり次第、伝えます」
由香は頷いた。
「お願いします」
その声には、母親の響きだけが残っていた。
由香が連れて行かれた後、真壁は診療所の窓辺に立った。
雪原の方向は見えない。建物と雪壁に遮られている。だが、その先に、明里の足跡があることを真壁は知っている。
事件の一部は解けた。
明里を直接追い詰めたのは、母だった。
だが、明里を雪原へ呼んだ声は、まだ残っている。
祐介の声を偽造した人物が、別にいる。
十年前、祐介の声を聞かなかった人々。
昨夜、明里の声を聞かなかった人々。
その中に、死者の声を作った者がいる。
真壁は窓に映る自分の顔を見た。
雪は、まだ降っている。
すべてを隠すには、もう遅い。
背後で、滝沢が言った。
「真壁さん、録音の追加解析が出ました」
「何が分かった」
「昨夜の最後の声です。『まだ、聞こえる』の前に、小さく別の声が入っています」
「誰の声だ」
「まだ照合中です。でも、言葉は聞き取れました」
真壁は振り返った。
滝沢の顔は硬かった。
「明里さんが、こう言っています」
彼は手帳を見ることなく、その言葉を口にした。
「村瀬さん、どうして」
診療所の古いストーブが、小さく鳴った。
その音は、雪原に残った鈴の音に似ていた。
第七章 雪原の残響
村瀬恭平は、駐在所にいた。
逃げようとはしていなかった。
机の上には、湯気の消えた茶が置かれている。壁の時計は午後四時を少し回っていた。雪はまだ降っているが、朝のような激しさはない。窓の外には、白く埋もれた村道と、除雪車が残した硬い雪の壁が見えた。
村瀬は制服のまま、椅子に座っていた。
真壁と滝沢が入っても、驚いた様子はなかった。むしろ、いつ来るのかを待っていたように見えた。
「白石由香さんが認めました」
真壁は立ったまま言った。
「倉庫で明里さんを突き飛ばしたこと。救急車を呼ばなかったこと。明里さんが雪原へ歩いていくのを止めなかったこと」
村瀬は目を閉じた。
「そうですか」
「ただ、彼女は一つだけ強く否定しています」
「何をですか」
「祐介さんの声を作って流したことです」
村瀬は目を開けた。
その表情は動かなかった。だが、机の上に置かれた右手の指が、わずかに曲がった。
「昨夜の録音に、明里さんの声が残っていました」
真壁は続けた。
「村瀬さん、どうして」
村瀬の視線が、机の上の茶へ落ちた。
湯呑みの中の茶は、もう揺れていない。
「その言葉の意味を、あなたに聞きたい」
真壁が言うと、村瀬は短く息を吐いた。
「明里さんは、私に気づいたんですね」
「認めるんですか」
「何を認めればいいのでしょう」
「小型スピーカーを支柱に仕掛けたこと。祐介さんの声に似せた音を流したこと。非通知で明里さんに電話をかけ、沢へ誘導したこと」
村瀬は少しだけ笑った。
笑いではなかった。顔の筋肉が、疲労に負けて歪んだだけだった。
「刑事さんは、もうほとんど答えを持っている」
「持っているのは仮説です」
「では、仮説を聞かせてください」
滝沢が一歩前へ出ようとした。真壁は手で制した。
「十年前、あなたは白石祐介さんの死を事故として処理した」
「はい」
「だが、実際にはいくつもの違和感があった。桐島遥さんは祐介さんの声を聞いていた。白石由香さんは祐介さんからの電話を受けていた。通話の最後には金属音が入っていた。祐介さんは吹雪の中で、ただ足を滑らせたわけではなかったかもしれない」
村瀬は黙っている。
「あなたはそれを知っていた。だが、深く掘らなかった。遥さんを守るため。由香さんを追い詰めないため。村を騒がせないため。理由はいくつもあったでしょう。でも結果として、祐介さんの最後の声は、誰にも聞かれなかったことになった」
「……そうですね」
村瀬の声は低かった。
「明里さんは、その十年前の穴に気づいた。あなたの過去の判断にも近づいた。だからあなたは、祐介さんの声を偽装した」
村瀬は顔を上げた。
「違います」
「何が違う」
「明里さんを殺すためではありません」
「では何のためですか」
村瀬の目が赤くなっていた。
「証明したかったんです」
「何を」
「声なんて、いくらでも作れるということを」
駐在所の中が静まり返った。
外を通る車の音もない。ストーブが小さく燃える音だけが聞こえた。
「十年前、私は由香さんの言葉を信じました。電話の向こうは風ばかりだった。祐介さんの声は聞こえなかった。金属音は沢の柵か、支柱の音だろう。そう処理した」
村瀬は両手を机の上で組んだ。
「でも、ずっと残っていました。あのとき、本当に聞こえなかったのか。聞き取ろうとしなかっただけではないのか。由香さんだけではありません。私もです。私は、聞こえなかったことにした」
「それで、声を作った?」
「はい」
「明里さんに聞かせるために」
「最初は違いました」
村瀬は首を振った。
「最初は、自分で確かめるためでした。あの支柱に小型スピーカーを置き、沢と丘に音を反射させる。人の声がどんなふうに歪むのか。風の中で、どれほど別の声に聞こえるのか。何度も試しました」
「祐介さんの声に似せた」
「似せようとしたわけではありません。昔の村内放送の記録、祐介さんが残した留守番電話の音声、そういうものが駐在所の古い資料に少し残っていました。私は、それを使った」
滝沢が声を荒げた。
「死んだ人の声を勝手に使ったんですか」
村瀬は反論しなかった。
「はい」
「何の権利があって」
「ありません」
その返事があまりに静かだったため、滝沢はそれ以上言えなくなった。
真壁は尋ねた。
「明里さんは、あなたの実験に気づいたんですね」
「そうです」
「いつ」
「一昨日の夕方です。彼女は支柱の近くにいました。録音機を持って。私は遠くから見ていました。声を流すつもりはありませんでした。でも、スピーカーの接続が残っていた。風で再生機器が誤作動したのか、短い音声が流れた」
「助けてくれ」
村瀬は目を閉じた。
「そう聞こえたかもしれません」
「明里さんは録音した」
「はい」
「そして、声が自然現象ではなく、誰かが作っていると疑った」
「その通りです」
真壁は机の前に進んだ。
「昨夜、あなたは非通知で明里さんに電話をかけた。なぜです」
「止めるためです」
「声を聞かせて?」
「彼女は、私を疑っていました。由香さんも、遥さんも、私も。全員に録音を聞かせ、反応を見ていた。放っておけば、村中に十年前のことを聞いて回る。由香さんは壊れる。遥さんも壊れる。村も」
「また村ですか」
滝沢が吐き捨てるように言った。
村瀬はその言葉を受け止めた。
「そうです。また村です。私はずっと、それを言い訳にしてきた」
「明里さんを倉庫に呼び出したのは由香さんです」
真壁が言うと、村瀬は頷いた。
「それは知りませんでした。私は明里さんを沢へ向かわせるつもりでした。そこで、私が直接話すつもりだった。録音を消してほしい。十年前のことをこれ以上掘り返さないでほしい。そう頼むつもりでした」
「なぜ公衆電話を使った」
「自分からだと分かれば、彼女は警戒する。駐在が証拠を隠そうとしていると思うでしょう」
「実際、そうでしょう」
村瀬は何も言えなかった。
「あなたは声を流した。明里さんはそれを聞いて、倉庫から雪原へ歩いた」
「倉庫にいたとは知りませんでした」
「録音には、明里さんがあなたに呼びかける声が残っている」
「彼女は、私がいることに気づいたんです」
「あなたは近くにいた」
「支柱の方にいました。スピーカーを外すためです」
「明里さんが雪原へ入るのを見たんですね」
村瀬の顔から血の気が引いた。
沈黙が流れた。
真壁はその沈黙を逃がさなかった。
「見たんですね」
「見ました」
「明里さんは正常に歩いていましたか」
「いいえ」
村瀬の声が震えた。
「ふらついていました。何度も立ち止まって、録音機を握って、支柱の方を見ていました」
「なぜ助けなかった」
村瀬は両手で顔を覆った。
「分からなかったんです」
「何が」
「由香さんと一緒にいると思っていた。近くに誰かいると思っていた。まさか、頭を打っているなんて思わなかった。少ししたら戻ると思った」
「十年前も、そう思ったのではありませんか」
村瀬の肩が止まった。
「誰かが助ける。大したことではない。明日になれば終わっている。そう思った」
「やめてください」
「十年前、祐介さんの声を聞いた人たちは、みんな少しずつそう思った。遥さんも、由香さんも、あなたも」
「やめてください」
「昨夜も同じです。明里さんが雪原へ歩いていくのを見た。異常に気づいたかもしれない。でも、あなたは動かなかった」
村瀬は机に額をつけた。
「私は、また聞かなかった」
その声は、すすり泣きに近かった。
「明里さんは、最後に私を見ました。支柱の近くにいた私を見て、言ったんです。村瀬さん、どうして、と。私はその場から動けなかった」
「あなたはスピーカーを外して逃げた」
「はい」
「明里さんを残して」
「はい」
「救急車を呼ばずに」
「はい」
滝沢が拳を握りしめた。
「なんでですか」
その問いは、刑事としてではなく、一人の若い人間として出たものだった。
「なんで、そこで動けないんですか。警察官でしょう」
村瀬は顔を上げなかった。
「警察官だったからです」
「意味が分かりません」
「十年前の判断が間違っていたと認めるのが怖かった。私が声を作っていたと知られるのが怖かった。祐介さんの死を利用したと知られるのが怖かった。明里さんが死ねばいいと思ったわけではありません。でも、あの瞬間、私は自分のことを考えた」
滝沢は歯を食いしばった。
真壁は、机の上に視線を落とした。
人は極限で本性を見せる、という言葉がある。だが、真壁はそれをあまり信じていなかった。極限で見えるのは、本性ではなく、その人間がいちばん恐れているものだ。村瀬は村を恐れ、自分の過去を恐れ、自分が守ってきたと思い込んでいたものが崩れることを恐れた。
その恐れが、一人の少女を雪の中に置き去りにした。
「あなたの行為は、明里さんの死に重大に関わっています」
真壁は言った。
「分かっています」
「小型スピーカー、音源、祐介さんの音声資料、すべて提出してください」
「駐在所の裏の物置にあります」
「滝沢」
「はい」
「押収手続き。応援を呼べ」
「分かりました」
滝沢は部屋を出ていった。
村瀬はゆっくり顔を上げた。
「刑事さん」
「何ですか」
「祐介さんは、私を恨んでいるでしょうか」
真壁は少しのあいだ黙った。
「死者の気持ちは分かりません」
「そうですね」
「ただ、明里さんはこう言っていたそうです。祐介さんは誰かを恨んでいるわけじゃない。ただ、聞いてほしかっただけだと思う、と」
村瀬の顔が歪んだ。
「明里さんらしいですね」
「あなたは、それも聞かなかった」
村瀬は目を閉じた。
「はい」
その後の手続きは淡々と進んだ。
駐在所裏の物置から、防水型の小型スピーカー、古い音声プレーヤー、加工された音声ファイルが入ったメモリーカード、粘着テープ、細いケーブルが押収された。音声ファイルには、祐介の古い留守番電話の声、村内放送のノイズ、風の音、そして鈴の音が重ねられていた。
鈴の音は、祐介の遺留品にあったものとよく似ていた。
村瀬はその鈴を直接使ったわけではないと言った。十年前の資料の中に、祐介の遺留品確認時の映像が残っており、そこに鈴の音が入っていたのだという。村瀬はその音を切り出し、加工した。
死者の声だけでなく、死者の記憶まで使っていた。
真壁はその説明を聞きながら、怒りよりも疲労を感じた。
事件は一人の悪意で起きたわけではなかった。
由香が明里を突き飛ばした。
村瀬が声を偽装した。
遥が十年前の声から逃げた。
村瀬は当時も真実を追わなかった。
由香は弟の電話を切った。
誰もが少しずつ逃げ、少しずつ黙り、少しずつ聞こえないふりをした。
その積雪のような沈黙の上に、明里は立った。
そして沈んだ。
夕方、雪は止んだ。
雲の切れ間から、薄い光が差し込んでいた。白瀬村の雪原は、朝とは違う顔をしている。空がわずかに青みを帯び、雪面には淡い影が伸びていた。
真壁は一人で現場へ戻った。
規制線はまだ残っている。遺体があった場所には、細い標識が立っていた。そこへ続く足跡は、保護シートの下に残されている。今夜また雪が降れば、いずれ見えなくなるだろう。
だが、写真にも、記録にも、人の記憶にも残る。
滝沢が少し遅れてやってきた。
「ここにいたんですか」
「ああ」
「白石由香、搬送されました。取り調べは医師の判断を見ながらになるそうです。村瀬は署へ。遥さんには保護的に聴取を続けます」
「そうか」
「冬馬くんにも、明里さんのことを伝えました」
「何と言っていた」
「泣いていました。でも、最後に、明里は幽霊を追ってたんじゃないんですよねって」
真壁は雪原を見た。
「そうだな」
「ちゃんと、人間の嘘を追っていた」
「ああ」
滝沢はしばらく黙っていた。
「真壁さん」
「何だ」
「これ、誰が一番悪いんでしょう」
若い刑事らしい問いだった。
真壁はすぐに答えなかった。
法的な責任なら、いずれ整理される。由香の傷害、救護義務、遺棄。村瀬の証拠隠滅、偽計、職務上の問題、そして明里の死との因果関係。遥の十年前の沈黙に、法律がどこまで届くかは分からない。
だが、滝沢が聞いているのはそういうことではない。
「一番という考え方が、たぶん間違っている」
真壁は言った。
「みんな少しずつ悪かった、ということですか」
「そう言うと、誰の罪も軽くなる」
「じゃあ」
「それぞれが、それぞれの場面で聞かなかった。それだけだ」
滝沢は雪を踏んだ。
「それだけで、人は死ぬんですね」
「死ぬ」
真壁は沢の方を見た。
古い支柱は、夕方の光の中で黒く立っていた。錆びた金属の柱。かつて村に情報を届けるために立てられたもの。それが今は、死者の声を偽る道具にされた。
風が吹いた。
支柱が鳴る。
細く、乾いた音だった。もう人の声には聞こえなかった。金属が震え、沢に反射し、丘へぶつかり、雪原の上を渡ってくる。ただそれだけの音だった。
だが、真壁は耳を澄ませた。
祐介の声ではない。
明里の声でもない。
由香の後悔でも、遥の涙でも、村瀬の懺悔でもない。
ただの風。
ただの反響。
それでも、この場所には何かが残っていた。
助けを求めたかもしれない声。
帰れと叫んだ声。
聞こえなかったと言い張った声。
どうして、と問いかけた声。
そして、誰にも届かなかった声。
それらは音として残ったのではない。
人の中に残ったのだ。
雪は、足跡を消す。
時間は、記憶を変える。
人は、自分に都合の悪い声を聞こえなかったことにする。
だが、完全には消えない。
消したつもりのものほど、ある日ふいに戻ってくる。風の中から、録音機のノイズから、未送信のメッセージから、娘の目から。
真壁は、明里の足跡の終点を見つめた。
彼女はここで倒れた。
だが、ここまで来たのは死ぬためではなかった。
聞くためだった。
十年前、誰も聞かなかった声を。
母が聞きたくなかった声を。
村が忘れたふりをした声を。
そして、人が嘘をつくときにこぼす小さな震えを。
「帰りましょう」
滝沢が言った。
真壁は頷いた。
二人は村道へ向かって歩き出した。雪は柔らかく、足を踏み出すたびに小さく沈んだ。背後には、新しい足跡が二人分残る。しばらくすれば、風がその縁を崩し、夜の雪が覆うだろう。
それでいい。
足跡は消えても、事件は消えない。
村へ戻る途中、真壁は一度だけ振り返った。
雪原は静かだった。
古い支柱も、沢も、明里が倒れていた場所も、すべて白い光の中に沈んでいる。何も語らない。何も訴えない。ただ、そこにある。
その沈黙の中で、真壁は明里の声を思い出した。
記録の中に残っていた、かすかな問い。
村瀬さん、どうして。
その問いに、完全な答えはない。
どうして人は聞かないのか。
どうして助けを求める声に背を向けるのか。
どうして、聞こえていたはずのものを、聞こえなかったと言えるのか。
答えはきっと、人間の弱さの中にある。
だからこそ、刑事は耳を澄ませなければならない。
死者は喋らない。
だが、死者のまわりには、必ず音が残る。足音、呼吸、電話の切れる音、鈴の音、雪を踏む音、言えなかった言葉。
それらを拾うのが、自分たちの仕事なのだと真壁は思った。
風がまた吹いた。
今度の音は、どこにも反響しなかった。
ただ静かに、雪原を渡って消えた。
了




