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雪原の残響  作者: 妙原奇天


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1/1

タイトル未定2025/12/01 13:00

 雪は、夜のあいだにすべてを白へと塗り替えてしまった。

 薄明の光を吸い込んだ雪面は、見慣れた村の輪郭をぼんやりと曖昧にしている。真壁慎一は、車のドアを開けた瞬間、頬を刺すような冷気に思わず肩をすくめた。


 山間の小さな集落・白鹿村。

 地図上では点にしか見えない場所だが、積雪量だけは県内でも指折りだ。真壁がこの村を最後に訪れたのは十年前。まだ新人だった頃、山で起きた転落事故の調書を取りに来たのが最初で最後だった。


 だが今回は違う。

 事故ではなく、少女の失踪事件だ。


 村の駐在所で待っていたのは、顔の半分をマフラーで覆った巡査、森下だった。

「遠いところすみません、真壁さん。昨夜の十時ごろ、隣家の明里ちゃんがいなくなったと家族から通報がありまして」


 明里。

 小学六年生の少女で、特別目立ちもせず、大人しい性格だったと聞いている。

「雪の量から見て、夜に外に出るのは危険だろう」

「はい。ただ……家の窓が半分開いてまして。そこから出た可能性が高いと」


 森下が示した地図には、明里の家から伸びる一本の細い線が描かれていた。

「これは……足跡か?」

「足跡、だと思ったんですが、妙なんです。靴の形がない。ただの“溝”みたいな跡で」


 真壁は眉根を寄せる。

 雪上に残る痕跡といえば、犬かスキー道具か、あるいは雪かき用具だ。だが、一本のまっすぐな線だけというのは、聞いたことがない。


「実物を見ましょう」


 二人は駐在所から歩いて五分ほどの場所に立つ小さな家に向かった。

 家の前に立った瞬間、真壁は違和感を覚えた。静かすぎる。


 もちろん、雪深い集落が早朝に静まり返っていること自体は珍しくない。だが、耳を澄ませば、たいていは除雪機のエンジン音や、誰かが玄関を開け閉めする音が微かに響く。

 ――しかし、今日はそれがない。


 (雪が吸い込んでいる? いや……)


 雪は音を吸収しやすい。それでも完全に消すわけではない。

 むしろ、雪が深いほど、逆にわずかな音は際立つ。

 その“際立ち”が、今は丸ごと抜け落ちていた。


「こちらです」


 森下に案内され、家の裏手に回ると、たしかに一本の線が雪面をえぐるように伸びていた。

 幅は五センチほど。深さは五ミリ程度。靴跡ではない。ソリでもない。

 何より、一定の幅と深さが、家から山側へ向かってまっすぐ続いている。


「誰かが物を引きずった……?」

「私もそう思ったんですが、足跡がないんです。引きずるなら本人の足跡が必ず付くはずで」


「じゃあ、上から……?」


 真壁は空を見上げる。

 雪が積もってから少なくとも六時間は経っている。その間に降雪は止んでいるため、もし上から何かを落としたとしても、線がここまで綺麗に残るとは考えにくい。


 真壁はしゃがみ込み、線に手袋越しに触れた。

 (これは、人がつけた“動的な跡”じゃない……?)


 雪の削れ方が、不自然に滑らかだった。

 まるで、何かが“吸い込むように”通った跡だ。


「家の中を見てもいいか?」

「はい。ご家族も心配して、協力的です」


 家の中は、暖房の音だけが低く響いていた。

 明里の部屋に入った瞬間、真壁の視線は窓に吸い寄せられる。


 窓が、半分だけ開いている。


 半分“だけ”。

 そこが重要だった。


(完全に開けて外に出たのではなく、わざと半分……?)


 窓枠には、明里の指紋がくっきり残っていた。

 しかし“外側”の窓枠に指紋がない。つまり、明里が自力で外に出た可能性は低いということだ。


 ベッド脇の棚には、昨夜読んでいたらしい児童書が開いたまま置かれている。

 部屋着のまま、急いで外へ出たとは思えなかった。


「真壁さん、これを」


 森下が差し出したのは、明里のノートだった。

 最後のページに、震えるような筆跡で一行だけ書かれている。


『あの音が呼んでいる』


 真壁は息を呑んだ。

 外はあれほど静まり返っているのに、明里は“音”を聞いた?

 何の音だ?

 そして——誰が呼んでいた?


 窓の外には再び、あの一本の線が続いている。

 その線は、まるで“導線”のように、明里をどこかへ誘っているようだった。


(だが、足跡がないということは……明里は歩いていない)


 ではどうやって移動した?

 誰が彼女を連れ出した?

 そもそも、あの線は何の痕跡なのか?


 真壁の脳裏に、十年前のある事件が蘇る。

 山で起きた転落事故——あのときも、妙な“音”の証言があった。


(もしや、関連している……?)


 真壁は窓の外をにらむ。

 あの線の先には、白鹿村の誰も近づかない“ある場所”がある。

 村人が口をそろえて言う、禁忌の地。


 ——雪原の“底”だ。


 真壁は決意した。

 あの線の正体を突き止めることが、この事件の核心に近づく唯一の道だと。


 

 真壁は決意した。

 あの線の正体を突き止めることが、この事件の核心に近づく唯一の道だと。


* * *


 家の居間では、少女の両親が肩を寄せ合って座っていた。

 父親は四十代半ば、日焼けした肌に深い皺が刻まれている。山仕事に長年従事してきた者の顔だ。母親はやつれた表情で、握りしめたハンカチを膝の上で何度も折り曲げていた。


「県警本部の真壁といいます。状況を整理させてください」


 真壁が名刺を差し出すと、父親は軽く会釈をした。

「明里の父の、佐伯修一です。こっちは妻の由香」


 由香は小さく頭を下げた後、すぐにうつむいた。

 声をかければ崩れ落ちそうなほど、ギリギリで踏みとどまっているように見える。


「明里さんが最後に家族の誰かと言葉を交わしたのは?」


「昨夜の、九時半くらいです」

 答えたのは父親だった。

「宿題を終えて、居間でテレビを一緒に見ていました。十時には寝室に行ったはずです」


「それ以降、物音や気配に気づいた方は」


「……俺は、外の雪の様子を見に行った。十一時ごろだ」

 修一は、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。

「ここの冬の夜は不安定でしてね。風が強い日は屋根の雪がずり落ちて、最悪、窓ガラスを割ることもある。だから時々、様子を見て回るんです」


「そのとき、明里さんの部屋は?」


「覗いたが、布団は膨らんでいた。寝ていると思った」


 真壁は、少し間を置いてから問う。

「布団を一度めくって、本人を確認はしなかった?」


 修一の視線がわずかに泳いだ。

「……していません。寝かせておいてやりたくて」


 母親の由香が、蚊の鳴くような声で口を挟む。

「わたしが部屋を見に行ったのは、夜中の一時ごろです。そのとき、もう明里はいませんでした。窓が少し開いていて、冷たい風が吹き込んで……」


 そこで言葉を詰まらせ、ハンカチを顔に押し当てる。

 真壁は、窓が「半分だけ」開いていたことを思い出した。


「窓を開けたのが誰なのか、心当たりは?」


「わからないです。明里は寒がりだから、夜に自分から窓を開ける子じゃない……」

 由香は涙声で首を振った。


「明里さんに、最近変わった様子はありませんでしたか。落ち込んでいた、誰かと揉めていた、など」


 修一は強く唇を噛んだ。

「……あいつは、あまり感情を表に出さない子で。学校でも特に問題はないと聞いてます」


「それでも、親なら気づく変化もあるでしょう」


 真壁が淡々と続けると、修一は観念したように深く息を吐いた。

「二週間ほど前から、夜更かしが増えました。机に向かって何か書き物をしていることが多くて……。『何を書いている』と聞いても、『日記だよ』としか答えない。机の引き出しも鍵をかけているようでした」


 日記。

 最後のノートの一行——『あの音が呼んでいる』。

 それも日記の一部なのだろうか。


「机の引き出しは、もう確認されましたか?」


「鍵を探しているんですが、まだ見つからないんです」

 由香が答えた。

「警察の方が壊すと言ってくださったんですけど……。明里のものを壊すのが怖くて」


「必要ならこちらで丁寧に開錠します。許可をいただけますか」


 由香は迷うように夫の顔を見た。修一は短くうなずき、真壁に向き直る。

「お願いします。明里の行方がわかるなら、なんでも」


 その言葉に嘘は混じっていないように見えた。

 少なくとも今のところは——と、真壁は心のメモに書き加える。


* * *


 明里の机の引き出しは、簡易なシリンダー錠だった。

 県警から同行していた鑑識係が専用の器具を使い、傷を最小限に抑えながらロックを外す。


「開きました」


 引き出しの中には、ノートが三冊と、小さなペンケース、それから古びたICレコーダーが入っていた。

 真壁はノートの一番上を取り上げ、最終ページをめくる。


『あの音が呼んでいる』


 太く、勢いのある筆跡。

 その下には、細い矢印が引かれていた。


『——あの日と同じ』


 あの日。

 何の日だ?


「このICレコーダーは、誰のものか心当たりはありますか」


 居間から見守っていた修一に尋ねると、彼はぎょっとしたように目を見開いた。

「それは……俺のだ。ずいぶん前に無くして、そのまま忘れていたが」


「何に使っていたんですか」


「仕事のメモに……」

 と言いかけて、修一は言葉を濁した。


 真壁はレコーダーを慎重に手に取る。

 古い型式で、ところどころ傷がついている。裏面には、うっすらとマジックで書かれた文字が消えかけて残っていた。


 ——『白鹿村 事故』。


 真壁の胸に、十年前の記憶がざらりと蘇る。

 新人の頃、上司に同行してこの村を訪れた。山道から転落した青年の死亡事故。そのとき、現場の様子を録音していたのは、たしか自分ではなく、もう一人の刑事だったはずだ。だが、修一たち村人も、何度か事情聴取を受けていた。


(あのときも、このレコーダーが回っていたのか)


 ふと、ノートの別のページが視界に入る。

 ペラリとめくると、そこには中学生の字で、びっしりと文章が書き込まれていた。


『父さんは、あの日の話になると必ず黙り込む。

 十年前の冬、この村で一人の男の人が死んだ。

 みんなは「事故だ」と言うけれど、村の人たちは具体的なことを何も話してくれない。

 ——でも、あの音だけは、誰もが覚えている。』


 ページの端に、小さく書き足されている。


『雪原の底が鳴る夜。』


 真壁は、そっと息を呑んだ。

 十年前の山の転落事故。それが、この村で語り継がれている“音”と結びついているのか。


「明里さんは、十年前の事故について何か聞いていましたか?」


 真壁が顔を上げると、修一は固く口を閉ざした。

 しかし母親の由香が、震える声で答える。


「わたしの弟が、十年前にここで……」

 そう言って、言葉を詰まらせる。

 涙が一粒、膝の上に落ちた。


「弟さん……?」

「村の子たちと山へ行って、そのまま帰ってこなかったんです。崖から落ちているのが見つかって。事故だって、警察の方はおっしゃったけど……」


 由香の視線が、夫の横顔に吸い寄せられる。

「修一さんも、一緒にいたんですよ。あの日」


 部屋の空気が、さらに冷たくなった気がした。

 真壁は、十年前の報告書の一部を記憶を辿りながら思い出す。たしか、同行者の一人として「佐伯修一」の名があった。


 ——偶然だろうか。

 十年前の事故に立ち会った男の娘が、同じ村で行方不明になる。

 そして、娘の日記には「あの日と同じ」と書かれている。


「真壁さん」


 森下巡査がおずおずと口を開いた。

「もしや、明里ちゃんは十年前の事故を調べていたんじゃないでしょうか。あの子、図書室で古い新聞をよく見ていたって、担任の先生が……」


 真壁の中で、点と点が仮の線で結ばれる。

 十年前の事故、雪原の“底”、謎の音。

 そして、足跡のない一本の線。


「森下さん、村で“雪原の底”と呼ばれている場所を、案内してもらえますか」


「今から、ですか?」


「吹雪いていないうちに見ておきたい」


 真壁はレコーダーをビニール袋に入れ、ノートと共に証拠品として預かることを告げた。

 修一は何かを言いたげだったが、結局何も言わなかった。その沈黙こそが、真壁には最も雄弁に聞こえた。


* * *


 村はずれの林道を抜けると、視界が急に開けた。

 一面の雪原。その中央が、ぽっかりと窪んでいる。


「ここが、雪原の“底”です」


 森下が指さした先には、直径二十メートルほどの大きな凹地があった。

 もともとは採石場だった場所を、そのまま雪捨て場として利用しているのだという。村の家々から出た雪は、人力でここまで運ばれ、毎日のように投げ込まれている。


 窪地の縁には、乱雑に積まれた雪の塊がいくつも並び、その向こう側は深く落ち込んでいる。底までは十メートル以上ありそうだ。

 壁面は氷と岩がむき出しになっており、ところどころに古いタイヤや廃材が引っかかっている。


「十年前、青年が転落したのもここか」


「はい。雪の下から遺体が見つかったのが春先で……。詳しいことは、正直、よく知りません。僕がここに赴任する前の話なので」


 真壁は窪地の縁をごく慎重に歩きながら、耳を澄ませてみる。


 ——静寂。

 さきほど村で感じた「静かすぎる静けさ」とは少し違う。ここには、雪に吸い込まれきれなかった音が、かすかな震えとなって残っている。


 風が方向を変えた瞬間、遠くから低い唸り声のような音が聞こえた。

 耳を近づけると、それはどうやら窪地の壁面のどこかから響いてきているらしい。


「森下さん、あのあたりに何か設備は?」


「ああ、あれは村のポンプ小屋です」

 森下が指差した先には、雪に埋もれかけた小さな小屋の屋根が見えた。

「沢の水を汲み上げて、上の貯水槽に送るポンプが入っています。冬場も凍結しないよう、ずっと稼働させているんです」


「じゃあ、この低い唸りはポンプのモーター音か」


「たぶん……。でも、こんなに響いているのは珍しいですね。水位や風向きによって、聞こえ方が変わるらしいですが」


 真壁は、レコーダーに指を伸ばしかけてから、手を止めた。

 今はまだ録音しない。この音を証拠に使うかどうかは、もう少し状況を見てからだ。


(雪原の底が鳴る夜——。

 明里は、この音を“呼ばれている”と感じたのか)


 視線を雪面へと戻すと、村の方角から一本の線が伸びてきているのが見えた。

 あの家の裏から続いていた線だ。途中で何度か雪の山に遮られながらも、概ね真っすぐに、この窪地の縁まで続いている。

 ただし、窪地の手前で、線は唐突に途切れていた。


「足跡は——やはり、ないな」


 真壁はしゃがみ込み、線の終端部分を観察した。

 そこだけ、雪の表面がわずかに盛り上がっている。下から押し上げられたような形だ。


「森下さん、この村では雪を運ぶとき、ソリ以外に何か使いますか?」


「スコップとソリくらいですかね。あとは……ああ、ワイヤーを使うことはあります」


「ワイヤー?」


「はい。急斜面の家からは、直接ここまで雪を落とせないでしょう? だから昔から、山側にある大きな木と家の間にワイヤーを張って、滑車で雪の入った箱を運ぶんです。そのワイヤーを張るときに、雪の上に線ができることがあります」


 真壁は顔を上げた。

「そのワイヤーは、今も使われている?」


「ええ、佐伯さんの家も、毎年同じ場所にワイヤーを張っているはずです。雪が多い年は特に」


「ワイヤーを張ったのはいつですか」


「今年は……一週間ほど前だったと思います。村総出で手伝う作業なので、記憶に残ってます」


 一本の線が、真壁の頭の中で別の意味を帯びていく。

 ——あの線は、失踪当夜についたものではないのかもしれない。

 少なくとも、一部分は既に存在していた可能性がある。


(だとしたら、“足跡のない線”という前提自体が崩れる)


 誰かが、既存の線を利用してミスリードを仕掛けた。

 そう考えると、窓が「半分だけ」開けられていたことも、突然別の意味を持ち始める。


「森下さん、昨夜の降雪はどのくらいでした?」


「気象台のデータでは十センチほどですが、ここは風の影響で場所によっては二十センチ近く積もっているかもしれません」


「そうですか……」


 真壁は村の方角を見つめた。

 家の裏から続く線。その起点付近には、何があるのか。


 少女が窓から出たという仮説は、ここに来て大きく揺らいでいる。

 むしろ、誰かが窓を“外側から”操作し、室内から出たように見せかけた可能性の方が高い。


(もしそうだとしたら——)


 真壁は腕時計をちらりと確認した。

 午前十時。村に日が差し込むまでには、まだ時間がかかりそうだった。


「ひとまず戻りましょう。家の周りをもう一度、細かく見ておきたい」


* * *


 佐伯家の裏手に戻ると、真壁はあらためて線の起点付近を観察した。

 窓のすぐ下から線が始まっているわけではない。

 家から数メートル離れた位置に、かすかに雪が盛り上がっている場所があり、そこから線が始まっている。


 その盛り上がりを囲むように、雪面の色がわずかに違っていた。

 よく目を凝らしてみると、そこだけ他とは違う密度で雪が固まっているように見える。


「ここ、掘っても?」


 庭先で待機していた修一に声をかけると、彼は一瞬表情をこわばらせ、それから作り物めいた笑顔を浮かべた。

「ええ、どうぞ。何も出てこないと思いますが」


 真壁はスコップを借り、慎重に雪を掘り起こした。

 十センチほど掘り下げたところで、硬いものに当たる。


 金属の感触。

 雪を払いのけると、細いワイヤーが姿を現した。

 ワイヤーは地面に固定された小さなアンカーに結びつけられている。そこから、雪面すれすれの高さで、山側へ向かって一直線に伸びていた。

 雪面の一本の線は、このワイヤーが雪と擦れ合ってできた跡だった。


「ワイヤーの位置が、少し低すぎませんか」


 真壁がつぶやくと、森下が苦い顔をした。

「たしかに……。普通は腰の高さくらいに張るんですが」


「この高さだと、雪を運ぶ箱を吊るすには不便ですね。誰が張ったんですか」


「それは、佐伯さんが。ワイヤーの管理は各家でやることになっているので」


 視線を感じて振り向くと、修一が玄関先からこちらをじっと見ていた。

 その表情は読めない。


「昨夜、このワイヤーに触りましたか?」


 真壁が問うと、修一はわずかに肩を揺らした。

「雪の重みでたるんでいないか確認しに来たかもしれませんが……。正直、覚えていない」


「ワイヤーを張り直した覚えは?」


「ありません」


 短い否定。

 だが、その声には、何かを押し殺している気配があった。


 真壁はワイヤーにそっと触れた。

 金属は冷たく、しかし微かに震えている。その震えは、遠く雪原の底で聞いたポンプの音と同じ周波数を帯びているように感じられた。


(明里は、この震えを通じて“音”を聞いていたのかもしれない)


 窓際のベッドに横たわりながら、耳を澄ませる少女。

 雪の下でうなるポンプの音が、ワイヤーを伝って揺れとなり、壁や床を通じて微かな振動を届ける。

 それを、彼女は“呼び声”だと感じた——。


 そのイメージは、真壁の頭の中で自然に浮かび上がった。

 だが、それだけではただの幻想にすぎない。現実には、少女は姿を消している。


(誰かが、明里の“信じやすさ”を利用した)


 十年前の事故にまつわる“音”の記憶。

 村人たちが語り継いできた噂話。

 それらを巧妙に織り交ぜれば、少女を雪原の底へ誘い出すことは難しくない。


 ただし、その誰かは——十年前の現場を直接知っている人間に限られる。


「修一さん」


 真壁は、あえて穏やかな声を出した。

「十年前の事故のことを、娘さんに話したことは?」


 修一は、短く息をのんだ。

「……ない。話す必要もないと思っていた」


「でも、あなた以外の誰かが話した可能性はあります。奥さんや、村の誰かが」


 由香は、慌てて首を振った。

「わたしは……怖くて、弟の話なんて明里にできません。村の人たちも、今さらあの話を持ち出す人なんていないと思います」


「なのに、明里さんの日記には“あの日と同じ”と書かれていた」


 真壁の声音が、少し低くなる。

「“あの日”とは、誰にとっての“あの日”なんでしょうか。あなたにとっては、十年前の事故の日。奥さんにとっては、弟さんを失った日。そして、明里さんにとっては——?」


 修一は答えない。

 ただ、ぎゅっと拳を握りしめている。


 その沈黙が、「はい」と告白しているように真壁には聞こえた。


* * *


 午後になり、村役場の一室を借りて臨時の捜査本部が設置された。

 県警本部から追加の応援が到着し、山岳救助隊も出動の準備を進めている。


 真壁は白板の前に立ち、情報を書き込みながら頭の中を整理していた。


 ——事実としてわかっていること。


 一、明里は昨夜二十二時頃までは自室で健在。

 二、母親が午前一時に部屋を訪れたときには不在。窓が半分開いていた。

 三、家の裏には雪面に一本の線があり、村外れの雪原の底付近まで続いている。

 四、その線の正体は、低い位置に張られたワイヤーの擦れ跡である可能性が高い。

 五、ワイヤーが通常より低い位置にある理由は不明。

 六、少女の日記には「あの音が呼んでいる」「あの日と同じ」と記されている。

 七、「音」は、雪原の底にあるポンプ小屋の低いうなり声と関係していると考えられる。

 八、十年前、この村で雪原の底への転落死亡事故があった。その犠牲者は、明里の母・由香の弟。


 真壁は、十年前の事故報告書のコピーを机の上に広げた。

 当時は単なる補助要員だったため、細部までは記憶していなかった。

 だが、読み返してみると、いくつかの点が妙に引っかかる。


 一つは、事故当日、青年と一緒にいたはずの友人たちの証言が不自然にそろっていることだ。

 「足を滑らせて落ちた」「誰も手を伸ばす暇がなかった」。

 そして、誰もが口をそろえてこう言っていた。


 ——「何も聞こえなかった」。


 雪原の底に落ちた人間が、助けを求めて叫びもしないはずがない。

 たとえ雪が音を吸収するとしても、完全に消えるわけではない。

 「何も聞こえなかった」という証言が、むしろ作り物めいて感じられた。


 そこへ、扉がノックされた。

 振り向くと、森下が慌てた様子で立っている。


「真壁さん、明里ちゃんの学校の先生が来ています。話したいことがあると」


「通してください」


 入ってきたのは、三十代前半とおぼしき女性だった。

 厚手のコートの下から見えるスーツはきちんとしており、緊張しながらも芯は強そうな印象を受ける。


「白鹿小学校六年一組担任の、桐島遥と申します」


 桐島——どこかで聞いた覚えのある姓だ。

 真壁は名刺を受け取りながら、十年前の事故報告書に目を落とした。


 犠牲者の名前は、桐島祐介。

 由香の弟であり、この村で命を落とした青年。


「桐島先生。お時間を取らせてしまい申し訳ありません。明里さんの学校での様子について、いくつか教えていただきたい」


「はい……。明里さんのことなら、何でも」


 桐島は座ると、膝の上でぎゅっと手を握り合わせた。

 その指がかすかに震えている。


「彼女は、普段から物静かで、目立つタイプではありません。でも、授業中の発言は的確で、作文も上手でした。特に、冬休みの前に出した“わたしの好きな場所”という作文では——」


 そこで言葉を切り、桐島は真壁を見た。

「雪原の底のことを書いていました」


 真壁の背筋に、冷たいものが走る。

「どんな内容ですか」


「『村の人たちは怖い場所だと言うけれど、わたしはここが好きだ』と。雪が溶けたあとに見える岩の模様がきれいだとか、夏に草が生え始めるときの匂いが好きだとか。……でも、最後の一文だけ、引っかかって」


 桐島は、かすかに声を震わせながら続けた。

「『あそこは、誰かの声がまだ残っている場所だと思う』って」


「声、ですか」


「わたしが『どういう意味?』と聞いたら、『うまく言えないけど』ってごまかされたんです。……でも、わたしには、なんとなく想像がついた」


 桐島の視線が、十年前の事故報告書の上で止まる。

 その名前を見て、真壁はようやく気づいた。


「あなたは、桐島祐介さんの——」


「姪です」

 桐島は静かに言った。

「祐介は、わたしの母の弟です。つまり、明里さんにとっても叔父にあたります」


 真壁は、軽い眩暈を覚えた。

 由香の弟が祐介で、その姪が桐島遥。

 血縁が複雑に入り組んでいるわけではない。ただ、同じ名字を見ていながら、十年前の記憶と結びつけなかった自分に、わずかな悔しさを覚えた。


「先生は、祐介さんの事故のことを、明里さんに話しましたか」


「……はい」


 桐島は目を閉じ、逃げずに答えた。

「正確には、明里さんの方から聞いてきたんです。夏休みの自由研究で『白鹿村の昔話』を調べていたとき、図書室で古い新聞記事を見つけて。そこに、祐介の名前が載っていた」


 あの子は、その記事を見て、「これ、お母さんの弟?」と聞いてきた。

 わたしは迷ったけれど、嘘をつくこともできなかった。

 だから、ありのままを話しました——と、桐島は続けた。


「ただ、わたしも全部を知っているわけではありません。事故当時、わたしはまだ小学生でしたから」


「それでも、何か違和感を覚えているはずです」


 真壁は、穏やかながらも逃げ道を与えない言い方をした。

「あなたにとっての“あの日”を、教えてください」


 桐島はしばらく黙っていた。

 やがて、観念したように小さく息を吐く。


「あの日、雪原の底から、祐介の声が聞こえたんです」


 真壁の胸が、どくりと脈打った。


「村の大人たちは『何も聞こえなかった』と言いました。でも、わたしと、お母さんだけは、確かに聞いた。

 風と一緒に、薄く伸びた祐介の声を——。

 『ごめん』って、何度も。

 それを聞いたお母さんは、その夜からずっと祐介のことをまともに話せなくなりました」


 桐島の目に、涙がにじむ。

「わたしたちは、祐介が何かを“謝っていた”ことだけを覚えている。なぜ謝っていたのか、誰に謝っていたのか、それはわからないままです」


 雪原の底が鳴る夜。

 明里は、それを“呼び声”だと感じた。

 桐島と母は、それを“謝罪”だと聞いた。


 そして、十年前の事故に立ち会っていた佐伯修一は——その声を、どう聞いたのか。


「先生は、その話を明里さんに?」


「全部は話していません。ただ、『祐介は誰かに謝りながら死んでいったみたい』とだけ。……それ以上を話すのが怖かったんです」


 真壁は、桐島に礼を言って部屋を出てもらった。

 白板の前に戻ると、新たな一行を書き加える。


 九、十年前の事故の夜、雪原の底から「ごめん」という声が聞こえたと証言する者が少なくとも二人いる。だが、公式の供述調書では、同行していた友人たちは「何も聞こえなかった」と証言している。


(誰かが、その“声”を封じた。

 なぜか。この村を守るためか。それとも——)


 十年前の事故が「事故」であるかどうかさえ、今となっては怪しい。

 あれは、雪原の底へと追い詰められた一人の青年が、最後に誰かへ謝りながら命を絶った事件なのかもしれない。


 もしそうだとしたら——その「誰か」とは。


 真壁は、白板に名前を書き連ねた。

 当時、祐介と一緒にいた友人たちの名前。

 その中に、「佐伯修一」の字が、重く沈んでいる。


* * *


 佐伯家に戻ったのは、夕方近くになっていた。

 空は鉛色の雲に覆われ、また雪の気配が濃くなっている。


 修一は、居間のストーブの前に座っていた。

 由香の姿は見えない。台所の奥から、かすかな物音だけが聞こえる。


「追加でお話を伺いたくて戻りました」


 真壁が座布団に腰を下ろすと、修一は無言のままタバコに火をつけた。

 煙が、薄く天井へと昇っていく。


「十年前の事故のことです」


 その一言で、修一の手が止まった。

 火のついたタバコを持ったまま、彼はじっと真壁を見つめる。


「祐介さんは、雪原の底から『ごめん』と叫んでいた。

 そう証言する人がいます。

 しかし、事故当時現場にいたあなた方は、そろって『何も聞こえなかった』と証言している」


 修一の喉が、小さく鳴った。

 だが、口を開かない。


「本当に、何も聞こえなかったんですか」

 真壁は淡々と続けた。

「それとも——聞こえなかったことにした?」


 沈黙が、部屋に落ちる。

 ストーブの上で煮えているヤカンの音だけが、しゅんしゅんとリズムを刻んでいる。


 やがて、修一は観念したようにタバコを灰皿に押しつけた。

 深く、長く息を吐き出す。


「祐介の声は、聞こえていました」


 低い声。

 その告白は、十年分の重さを帯びていた。


「『ごめん、ごめん』って、何度も叫んでいた。俺と、もう一人の友達に向かって。……いや、本当は、この村の大人たち全員に向かっていたのかもしれない」


「なぜ、それを隠したんです」


「そうしろと言われたからです」


 修一は、悔しそうに笑った。

「村長や、役場の人間に。『あれは事故だった』と。『そうでないと、村の名前に傷がつく』『観光客が来なくなる』って」


 十年前、白鹿村は雪祭りで観光客を呼び込もうとしていた。

 その矢先に起きた死亡事故。

 「自殺」や「事件」という言葉は、スポンサーや県への交付金に影響する。だから——と、村の大人たちは口裏を合わせた。


「俺たちはまだ二十そこそこだった。大人たちにそう言われたら、逆らえなかった。何より……」


 修一の声が、わずかに震える。

「俺自身が、祐介に謝られたくなかったんです」


「どういう意味ですか」


「あいつが崖の縁に立ったのは、俺のせいでもあった」


 祐介が死ぬ前日、村の寄り合いで言い合いになったことがあった。

 村を出て都会で働きたいと言う祐介と、村に残って家業を継ぐべきだと主張する大人たち。

 修一は、そのとき大人たちの味方をした。


「俺は、祐介に言ったんです。『お前みたいな中途半端な奴は、都会に行っても通用しない』って。

 あいつは何も言い返さなかったけど、その夜から様子が変わった。次の日、『山の様子を見てくる』って言って、俺たちを誘った」


 雪原の底の縁に立った祐介は、しばらく沈黙していた。

 やがて、「ごめん」とだけ言って、ふっと笑った。


「俺たちは慌てて手を伸ばした。でも、届かなかった。

 あいつは、わざと足を滑らせたんです。

 少なくとも、俺にはそう見えた」


 祐介の「ごめん」は、自分の死を止められなかった友人に向けられたものなのか。

 それとも、自分を信じられなかった大人たちへ向けられたものなのか。

 あるいは、自分自身へ向けた言葉だったのかもしれない。


「村長たちは、『事故だ』と決めつけた。俺も、それに乗っかった。そうすれば、自分のせいじゃないって思い込めるから」


 修一は、ゆっくりと顔を上げた。

 その目には、十年分の疲れが刻まれている。


「でも……雪は覚えているんでしょうね」


「雪が?」


「雪原の底は、毎年雪が投げ込まれて、春になれば溶けてまた顔を出す。そのたびに、下に埋もれたものの“残響”を響かせる。

 十年前の祐介の声も。

 そして今度は、明里を呼んだ」


 それは、罪悪感を擬人化した言い訳にも聞こえた。

 だが同時に、明里の心理を理解する鍵でもある。


「明里さんは、祐介さんのことを知っていた。

 あなたが十年間語らなかった“あの日”のことを。

 そして、日記にこう書いた。『あの日と同じ』と」


 真壁は、修一を射抜くように見つめた。

「あなたは昨夜、その“あの日”をやり直そうとしたのではありませんか」


「やり直す……?」


「十年前、祐介さんを救えなかった自分を。

 今度こそ、誰かを守ることで、あの日の罪を相殺しようとした」


 修一の顔が、わずかに歪んだ。

 その歪みは、否定ではなく、図星を指されたときの反応に近い。


「あなたは昨夜、窓を外側から半分だけ開けた。

 そして、ワイヤーの高さを調整し、雪面に残っていた線を“再利用”した。

 明里さんが雪原の底へ向かったように見せかけるために」


「……どうして、そう思うんですか」


「ワイヤーのアンカーの位置です」


 真壁は静かに説明を続けた。

「今朝掘り出したアンカーは、明らかに最近打ち直された痕跡がありました。周囲の雪の密度が他と違っていた。

 十年前から毎年同じ場所にワイヤーを張っていたのなら、アンカーの位置はもっと雪の下、地面に近いはずです。

 あなたは昨日、わざわざワイヤーを低い位置に張り直した。雪面に線を描くために」


 修一は、唇を噛んだ。

 血の気が引いていくのがわかる。


「窓を半分だけ開けた理由も説明がつきます。

 完全に開ければ、母親がすぐに異常に気づく。

 しかし、少しだけ開いていれば、『子どもが自分で開けたのだろう』と解釈しやすい。

 あなたは外から窓を押し上げ、少しだけ開けた状態で固定した」


「そんな器用なこと、できませんよ」


「できるはずです。

 窓枠の外側には、細い擦り傷がありました。

 何か棒状のものでこじった痕跡です。

 あなたなら、仕事で使っている鉄の棒を使えた」


 修一は、視線を逸らした。

 沈黙は、もはや否定の余地を残していない。


「問題は——なぜそんな仕掛けをしたのか、です」


 真壁は一拍置いて続けた。

「あなたは、明里さんがどこへ行ったか知っている。

 彼女を守るために、“足跡のない失踪”をでっち上げた。

 そうですね」


 修一は、崩れるようにソファに背を預けた。

 天井を見上げ、乾ききった笑いを漏らす。


「……あんたみたいな人間が、どうして十年前に来てくれなかったんだろうな」


 それは、遠回しな肯定だった。


* * *


「明里は、生きています」


 その一言で、居間の空気が一変した。

 台所から出てきた由香が、信じられないという顔で夫を見つめる。


「どういうこと……? 修一さん、知っていたの?」


 修一は、もう隠し通せないと悟ったように、ゆっくりと頷いた。


「明里は、昨日の夕方、遥——桐島先生のところへ行きました。

 俺がそうさせた」


「先生のところに? どうして」


「この村から、出したかったからです」


 修一は、真壁に説明するように言葉を継いだ。


「明里は、ここ数ヶ月ずっと祐介のことを調べていた。日記や新聞記事、村の老人たちの話。……俺が隠していたICレコーダーまで見つけ出して、十年前の現場の音を何度も聞いていた」


 ICレコーダーには、十年前の事故直後の現場の音声が残っていた。

 風の音、雪を踏みしめる足音、その向こうから、かすかに響く声——。


『ごめん……ごめん……』


「明里はその声を、『まだ終わっていない声だ』と言った。

 『おじさんは、本当は違う死に方をしたんじゃないか』って。

 俺は、否定も肯定もできなかった」


 十年前と同じ場所で、同じ音を聞きながら、今度は自分の娘が同じように“底”へ引き寄せられていく。

 修一には、それが耐えがたかった。


「この村にいる限り、明里は祐介の残響から逃れられない。人の目もある。……いっそ、どこか遠くへ連れていくしかないと思った」


 だが、正面から「村を出る」と宣言すれば、さまざまな障害が立ちはだかる。

 家族の反対、村の暗黙の圧力、経済的な問題。

 それらすべてをまとめて飛び越える方法として、修一が選んだのが——「失踪」を装うことだった。


「遥は、村の外の学校にも繋がりを持っている。都会の大学へ行った同級生も多い。あいつなら、明里を匿って、どこかへ橋渡ししてくれると思った」


 前日の昼、修一は桐島遥を呼び出し、すべてを打ち明けた。

 十年前の事故の真相、自分の罪、そして娘を村から逃がしたいという願い。


「遥は、最初は怒った。『今さらそんなことを言われても、祐介は戻ってこない』って。

 でも、明里の話になると、表情が変わった。『あの子だけは、同じように“声”に縛らせたくない』って」


 二人は綿密に計画を立てた。

 明里には、「一晩だけ先生の家に泊まり、明朝早く村を出る」とだけ伝えた。

 その間に、佐伯家では「雪の夜の失踪事件」を演出する。


「ワイヤーの線は、もともと途中まで雪面に出ていた。俺は昨日の夕方、その線を延長して雪原の底の方まで伸ばした。……ワイヤーを低い位置に張り直しながらな」


 夜になり、明里は由香に「少し散歩してくる」と告げて家を出た。

 だが、実際には、裏の小径を通って、誰にも見られないように桐島家へ向かった。


「窓を半分開けたのは、俺です」

 修一は、うなだれたまま続けた。

「明里が出て行ったあと、外から窓をこじ開けた。布団に毛布を丸めて、人が寝ているように見せかけておいた。……そのまま、少しの間だけでも、由香に安心していてほしかった」


 その計画は、今朝の通報で表向きは成功していた。

 村には「少女の不可解な失踪」という話が一気に広まり、雪原の底の“呪い”を口にする者さえ出始めていた。


「でも——」


 修一は、両手で頭を抱えた。

「明里が本当に村の外へ出られるのか、不安でたまらなかった。

 遥の家に向かう途中で、気が変わって雪原へ行ってしまうんじゃないかと。

 祐介のように、“ごめん”と言いながら、底に消えてしまうんじゃないかと」


 だから、彼は夜のあいだじゅう、ワイヤーの線を何度も辿った。

 雪原の方角を見ては、耳を澄ませた。


「雪原は、昨夜ずっと鳴っていた。

 ポンプの音か、風の音か、祐介の声か。……俺には、もう区別がつかない」


 その告白は、犯罪の動機というより、自責の告白に近かった。


「明里さんの所在を、今すぐ確認する必要があります」


 真壁は、冷静に告げた。

「あなたの計画がどこかで狂っている可能性も否定できない。

 桐島先生の家に一緒に行きましょう」


 由香が、震える声で夫に詰め寄る。

「どうして教えてくれなかったの。わたしにも相談してくれたら……」


「お前は、村を出たがらないだろうと思ったからだ」


 修一の言葉には、後悔がにじんでいた。

「お前は祐介を失ってから、この村にしがみつくことでしか自分を保てなかった。そんなお前に、『娘も村から出す』なんて言えない」


「そんなの、勝手に決めつけないで……」


 由香の目から、涙が溢れた。

 だが、その涙は、夫への怒りだけではなく、自分自身への悔しさも含んでいるように見えた。


* * *


 桐島遥の家は、小学校のすぐ近くにあった。

 教員住宅として県から貸与されている平屋建てで、玄関先には雪をはねた跡がまだ新しく残っている。


 真壁がインターホンを押すと、すぐに扉が開いた。

 顔を出した桐島は、彼らの顔を見て一瞬強張る。

 その背後から、小さな影が覗いた。


「……先生?」


 明里だった。

 パジャマ姿のまま、毛布を肩に巻きつけている。

 目の下には疲れの色があったが、怪我はなさそうだった。


「明里さん」


 真壁は、安堵と同時に胸の奥に湧き上がる複雑な感情を押しとどめながら、静かに言った。

「無事でよかった」


 玄関の外で立ち尽くしていた由香が、堰を切ったように娘に駆け寄る。

 明里は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと、母の胸に顔を埋めた。


「ごめん、お母さん……」


 その声は、十年前に雪原の底から響いた「ごめん」と重なって聞こえた。

 だが、今度は違う。

 その「ごめん」は、生きている者同士の間で交わされる謝罪だった。


* * *


 事情聴取は、桐島の家の居間で行われた。

 ストーブの上で煮込まれているスープの匂いが、部屋の冷たさを少しだけ和らげている。


「明里さん、どうして先生の家に来たのか教えてくれる?」


 真壁の問いに、明里は膝の上で指を絡めながら答えた。


「お父さんに頼まれたからです。

 『ここにいたら、いつか雪原に呼ばれてしまう』って。

 『外の世界を見てこい』って」


「君自身は、どうしたかった?」


「……半分は、出てみたいと思いました。

 でも、もう半分は、この村に残って祐介おじさんのことをちゃんと知りたいとも思ってました」


 だから、彼女の中で決心はつききっていなかった。

 昨夜、桐島の家に来たあとも、眠れないまま、何度も雪原の方角を見ていた。


「夜のあいだじゅう、あの音が聞こえていたんです。

 ゴーッて、うなるような。

祐介おじさんが謝っているみたいな声が」


「それは、ポンプ小屋の音だよ」


 桐島が優しく言った。

「わたしたちが祐介の声だと思っていたのも、きっと、あの音」


「でも、わたしには……」


 明里は、唇を噛む。

「わたしには、あの音が『行ってこい』って言っているように聞こえました。

 『わたしのことはいいから、お前は外へ行け』って」


 その解釈は、誰にも否定できない。

 雪原の底が何を“残響”させるかは、聞く者の心によって変わるのだ。


「だから、それを確かめたくて。

 今日の朝、雪が止んだら、もう一度だけ雪原を見てから、村を出ようと思っていました」


 だが、その前に警察が動き出してしまった。

 村中で捜索が始まり、桐島の家にも警官が来るだろう。

 そうなれば、隠れていられない。


「先生は、『今からでもお父さんとお母さんに本当のことを話しなさい』って言いました。

 でも、お父さんが警察に捕まるんじゃないかと思ったら、怖くて」


「だから、黙っていた」


 真壁の言葉に、明里はうつむいたまま小さく頷いた。


「捕まるかどうかは、これから大人たちが決めることだよ」


 真壁は、少しだけ口調を柔らかくした。

「君は君のことを話してくれればいい。

 祐介さんのことを調べて、何を感じたか。

 この村で、何を“見ていた”のか」


 明里は、迷いながらも少しずつ言葉を紡いでいった。

 図書室で見た新聞記事、母の涙、村人たちの避けるような視線。

 そして、雪原の底に立ったときに感じた、強烈な既視感。


「わたし、夢を見たんです。

 雪原の底から空を見上げている夢。

 白い世界の真ん中で、『ごめん』って言い続ける夢。

 最初は自分の声だと思っていたけれど、何度も見るうちに、これは祐介おじさんの声なんじゃないかって」


 その夢が、彼女を“あの日”へと導いた。

 十年前の事故現場で、彼女はポンプ小屋の低いうなりを聞いた。

 それは、夢の中の「ごめん」と同じリズムだった。


「だから、あの音が呼んでいるんだと思いました。

 わたしに、『同じ間違いをしないで』って。

 『誰かの声を、聞こえなかったことにしないで』って」


 その言葉に、修一は顔を覆った。

 十年前、自分は祐介の声を「聞こえなかったこと」にした。

 その罪が、娘の夢となって再生されている。


「真壁さん」


 桐島が、慎重に言葉を選びながら口を開いた。

「わたしは、佐伯さんのやり方には賛成できません。

 警察をだましてまで娘さんを逃がそうとしたのは、大人として許されることではないと思います」


 修一は、うなだれたままだ。

 その肩は小刻みに震えている。


「でも同時に、気持ちもわかるんです。

 十年前、わたしたちは祐介を守れなかった。

 あのとき誰かが大人として立ち上がっていれば、祐介は『ごめん』と言わずに済んだかもしれない。

 そう思うと、今度は自分が誰かを守る側に回らなきゃいけない気がして」


 雪原の残響は、罪悪感だけでなく、責任感も残していく。

 それをどう受け取るかで、人の行動は変わる。


「佐伯さんをどう扱うかは、法律と裁判所が判断します」


 真壁は、はっきりと言った。

「ただ一つだけ、ここで終わらせておくべきことがある」


 全員の視線が、彼に向けられる。


「十年前の祐介さんの死を、『事故』のままにしておくのか。

 それとも、『一人の青年の選択と、それを取り巻いた大人たちの責任』として、正面から向き合うのか」


 雪原の底は、毎年雪に埋もれ、春になればまた姿を現す。

 埋めようとしても埋めきれないものが、そこには残り続ける。


「明里さん」


 真壁は、少女に向き直った。

「君がこれから村を出るにしても、残るにしても。

 どちらにせよ、君の言葉は、この村のこれからを変える力を持っています」


「わたしの、言葉……?」


「そう。

 十年前、祐介さんの声は、大人たちにかき消されてしまった。

 でも今度は、君が『聞こえたこと』を言葉にできる」


 明里は、ゆっくりと視線を落とした。

 握りしめた拳が、少しだけ震えている。

 やがて、決意を固めたように顔を上げた。


「……話します」


 その一言は、祐介の「ごめん」とは違う響きを持っていた。

 それは、過去に縛られた声ではなく、未来へと向けられた声だった。


* * *


 数ヶ月後。

 白鹿村の雪はすっかり溶け、山の斜面には薄い若草色が広がっていた。


 雪原の底では、村人たちが集まっていた。

 村長、役場の職員、佐伯家と桐島家の人々、それから何人かの若者たち。

 そこには真壁の姿もあった。


 窪地の一角には、小さな石碑が建てられている。

 その前で、明里が紙を手にして立っていた。


 今日、村は十年前の事故についての検証結果を公表する。

 再調査の末、公式には「自殺の可能性が高い」と結論づけられ、村の事故記録も訂正された。

 それに伴い、村としての反省と再発防止のための場が設けられた。


 明里は、その冒頭で短い文章を読み上げる役目を担っていた。

 それは、彼女自身が書いた、祐介への手紙でもある。


「——わたしは、祐介おじさんの声を夢で聞きました」


 澄んだ声が、雪のない窪地に響く。

 十年前とは違い、その声は誰にも遮られなかった。


「おじさんは『ごめん』と言っていました。

 でも、わたしはもう、その『ごめん』を聞き続けなくてもいいと思っています。

 おじさんの代わりに謝る人たちが、こうしてここにいるからです」


 明里の視線が、父の修一に向けられる。

 雪原の底の手前に立つ修一は、静かに頷いた。

 彼は、十年前の証言を偽った責任を問われ、罰金刑と一定期間の社会奉仕活動を命じられた。

 重い刑ではないが、その過程で彼は、自分の罪ときちんと向き合わされた。


「おじさんは、きっとここで、何かの音を聞いていたんだと思います。

 風の音か、ポンプの音か、それとも自分の心臓の音か。

 それを『呼び声』だと勘違いしてしまったのかもしれません」


 明里は、紙から目を上げた。

 彼女の視線は、春の空に向けられる。


「もしもう一度だけ、おじさんの声が聞こえるなら。

 わたしは『もういいよ』と言いたいです。

 『ごめん』じゃなくて、『ありがとう』と言って消えてほしいです」


 その言葉に、由香が静かに涙を拭った。

 桐島遥も、隣で目を伏せている。


「わたしは、この村を出ます」


 明里の宣言に、ざわりと小さなどよめきが起きた。

 彼女は一呼吸おいてから、続ける。


「外の世界で、いろいろな音を聞いてきます。

 楽しい音、悲しい音、忙しい音、静かな音。

 そのすべてを、自分の言葉で書いていきたいです」


 最後の一文を読んだとき、彼女の声はほんの少しだけ震えた。

 しかし、それは恐れではなく、期待の震えだった。


「——以上です」


 読み終えた明里に、村長が小さく頭を下げた。

 ほかの村人たちも、それぞれのやり方で拍手を送った。

 雪原の底を囲むように、その音が柔らかく反響する。


 真壁は、少し離れた場所からその光景を見つめていた。

 隣には森下が立っている。


「これで、あの“残響”も少しは静かになりますかね」


「どうだろうな」


 真壁は、わずかに笑った。

「雪は、きっとこれからもいろんな音を飲み込んで、また吐き出し続ける。

 でも、少なくとも今回は、誰かの声が消されずに済んだ」


 森下は、照れくさそうに頭をかいた。

「明里ちゃん、都会でやっていけるでしょうか」


「やっていけるさ。

 あれだけ自分の言葉を持っている子だ。

 それに——」


 真壁は、空を見上げた。

 春の光が、まだ色の浅い山肌に柔らかく差し込んでいる。


「雪原の底から聞こえる音が、いつか彼女の中で“恐怖”じゃなくて“物語”に変わる日が来る。

 そのとき、ここでの出来事も、きっと誰かの救いになる」


 雪は溶けても、残響は消えない。

 だが、その残響をどう意味づけるかは、人間次第だ。


 十年前、「ごめん」という声を聞きながら目をつぶった大人たちは、その意味を恐怖と恥として抱え込んだ。

 十年後、その声を夢で聞いた少女は、それを“次の一歩”のための合図として受け取った。


 同じ音でも、聞き手が変われば意味が変わる。

 それが、人間の残酷さでもあり、救いでもある。


 ふと、窪地の底から、風が一筋吹き上がった。

 誰かが小さく身震いする。

 だが、今度はもう、「ごめん」という幻聴に怯える者はいなかった。


 ——雪原の残響は、静かに、しかし確かに、別の音へと変わりつつあった。

 誰かの謝罪ではなく、誰かの始まりを告げる音へと。


 真壁は、胸ポケットから古いICレコーダーを取り出した。

 再生ボタンを押してみる。

 そこから聞こえてきたのは、十年前の「ごめん」でも、「何も聞こえなかった」という沈黙でもなかった。


 ザザッというノイズの向こう側で、春の風がマイクを撫でている。

 新しく録音されたばかりの、今日の音だ。


 真壁は、それをしばらく聞いたあと、再生を止めた。

 そして、レコーダーを静かにポケットに戻す。


(この音もいつか、“残響”になるのかもしれないな)


 そう思いながら、彼は雪のない雪原の底を見下ろした。

 そこには、かつての事故現場を示すようなものは何もなかった。

 ただ、春の陽射しに照らされた土と岩と、芽吹き始めた草だけがある。


 雪がすべてを覆い隠す冬は、また来年やって来る。

 けれど、そのたびに同じ物語を繰り返す必要はない。


 雪原の残響が、もう誰かを“底”へ引きずり込むことのないように。

 それを願いながら、真壁はゆっくりとその場を後にした。


 彼の足音は、柔らかい土に吸い込まれ、やがて何の跡も残さなくなった。

 それでも、その歩みは確かに、雪原の上に新しい物語の線を描いていた。

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