ChotGPT、起動
カウポナの屋根裏部屋で目を覚ました朝は、汗と埃の匂いが染みついた藁の匂いと、階下から聞こえてくる男たちの野太いざわめきで始まった。硬い寝台のせいで体のあちこちが石のように凝り固まっているが、ローマの危険な夜を無事に乗り越え、朝を迎えられたことに心の底から安堵する。
(さて、これからどうするか……)
昨夜、僕は日雇いの肉体労働で日銭を稼ぐ覚悟を決めた。だが、いざ実行しようとすると、その途方もない困難さに眩暈がしそうになる。最大の壁は、やはり言葉だ。階下の会話に必死に耳を澄ませても、意味不明な音の羅列が脳の表面を滑っていくだけ。まるで分厚いガラスの向こう側で繰り広げられる、無声映画を見ているようなもどかしさと孤独感が胸を締め付ける。
(これじゃあ、仕事を探すどころか、値段交渉一つできないじゃないか……。LLMの研究みたいに、膨大な言語データセットを脳に直接インストールできれば、こんな苦労はしなくて済むのに……。もしくは、思考をリアルタイムで翻訳してくれるような、そんな都合のいい機能があれば……)
研究者としての最後のプライドにすがるような、切実な願いだった。
そう強く念じた、その瞬間だった。
僕の意識のスクリーンに、ふっと半透明のウィンドウが浮かび上がったのだ。そこには、僕が研究室で毎日見ていた見慣れたチャットUIと、点滅するカーソル、そして短いメッセージが表示されていた。
【ChotGPTを起動します。思考をコマンドとして入力してください】
「なっ……!?」
思わず声が出そうになるのを、慌てて両手で口を押さえる。心臓が肋骨を突き破るのではないかと思うほど激しく鼓動した。幻覚か? 疲れが見せている夢の続きか? 僕は何度も目をこすり、頬をつねった。だが、目の前のウィンドウは消えない。
ChotGPT……? なんだその名前は。僕が研究室で、散々苦労させられている自作の実験用LLMに、半ば自嘲気味に、ふざけてつけていたコードネームじゃないか。「ChatGPT」を「ちょっとだけ」もじった、誰にも言ったことのない、僕だけが使っていた名前。
なぜだ? 僕の記憶や知識が、この不可思議な時空間移動能力の核になっているとでもいうのか?
混乱する頭で、僕は試すように脳内でコマンドを思考した。
(……君は、いったい何なんだ?)
【私はあなたの知識ベースと時空間識能力を統合し、最適化された情報を提供するインターフェースです。あなたの記憶野に記録されていたコードネーム「ChotGPT」として初期設定されています】
僕の潜在能力が、僕自身の理解しやすい形で具現化したもの……。まるでSF映画だ。だが、これ以上ないほど心強い。僕は興奮を抑えながら、次のコマンドを送った。
(状況を説明して!)
【現在、あなたはの古代ローマに滞在しています。言語は古ラテン語。周囲の音声のリアルタイム翻訳機能を有効にしますか?】
(すぐに有効にして! !)
その瞬間、世界が変わった。
これまで意味不明な音の羅列だったものが、意味のある「言葉」として、文脈のある「会話」として、脳に直接流れ込んできたのだ。世界に色がつき、輪郭がはっきりするような、驚異的な感覚だった。
「おい、ガビニウス! 俺の杯が空だぞ! 酸っぱい安物じゃない、ちゃんとしたワインを持ってこい!」
「昨日の賭けは俺の勝ちだ。さっさと銅貨を出しな。イカサマしたなんて言いがかりは聞かねえぞ」
「またアッピウス様が新しい街道を作ってるらしいな。おかげで石材の値段が上がってる。俺たちみたいな商人にはいい迷惑だぜ」
「だが、人手が必要なんだろ? 俺たちにも仕事が回ってくるといいんだが」
意味が、分かる。彼らが何を話し、何に怒り、何を期待しているのかが、手に取るように理解できる。これさえあれば、言葉の壁はないに等しい。情報収集も、人との交流も、そして何より「交渉」が可能になる。
僕は急いで階下へ降りた。酒場が一瞬シンと静まり返り、全ての視線が僕に突き刺さる。カウンターでは、昨夜のいかつい主人が汚れた杯を布で拭いている。僕は深呼吸一つして、彼の前に立った。
(おはようございます。昨夜は部屋を貸していただき、ありがとうございました)
脳内でそう考えると、ChotGPTが瞬時にラテン語の音声データを生成し、その発音が自然と口から滑り出た。僕自身が一番驚くほど、流暢な発音だった。
「Salvete. Gratias tibi ago pro hospitio heri vesperi.」
僕の言葉に、主人は目を丸くして動きを止めた。昨日まで身振り手振りでしか意思疎通できなかった奇妙な格好の旅人が、突然流暢なラテン語を話し始めたのだ。周囲の客たちも、酒を飲むのも忘れ、固唾をのんでこちらを見ている。
「な、なんだお前……。昨日は言葉が話せないフリをしてたのか?」
彼の言葉が、僕の脳内で日本語に変換される。
(いいえ、僕は遠い国から来た旅人で、あなたたちの言葉を話すのは初めてです。この不思議な力は、旅の神々からの授かりものかもしれません)
僕はChotGPTの力を借りて、当たり障りのない嘘を口にした。
主人はまだ半信半疑といった顔だったが、得体が知れないながらも害はなさそうだと判断したのか、ふんと鼻を鳴らした。
「旅の神ねぇ……。まあいい。それより、昨夜の話だが、覚えているか?」
「昨夜の話、ですか?」
僕が聞き返すと、主人は呆れたように言った。 「お前さんが出した果物二つじゃ、寝床代には足りねえ。だから言ったはずだ。『足りない分は、俺が紹介してやる仕事で働き、その日当の一部を俺に納めることで支払え』とな。お前、分かっているのかいないのか、やけに素直に頷いていたが」
ChotGPTの翻訳を通して、昨夜の交渉の全貌を初めて理解した。言葉が通じないまま必死に頷いていた僕の姿が、彼には契約に同意したように見えたのか。いや、おそらく彼は、僕が理解していないことを見越した上で、都合のいい条件を押し付けたのだろう。ローマの商人の、抜け目のない商魂に少しだけ冷や汗が出る。
だが、まさに今、仕事を探していた僕にとっては、渡りに船の話でもあった。
(なるほど、そういうことでしたか。もちろん、約束は守ります。恩人であるあなたの顔に泥は塗りません。それで、その仕事とは何でしょうか?)
僕が冷静に、かつ好機と捉えてそう返すと、主人は僕が話の分かる奴だと見て、満足げににやりと笑った。
「話が早くていい。お前みたいなヒョロっとした奴にできる仕事だ。ちょうど今、街道の建設で人手がいるらしい。石運びは無理だろうが、工夫相手の水汲みや飯炊きの手伝いくらいなら、仕事にあぶれた奴でも雇ってくれるかもしれねえな。さっさと行って、俺のマージン分を稼いでくるんだな」
街道の建設現場。 それは、僕がこの時代に来て最初に見た、歴史が動くその場所だった。
「本当ですか! ありがとうございます、恩に着ります!」
ChotGPTという最強の味方を得て、僕の古代ローマでの生活は、ようやく確かな一歩を踏み出した。抜け目のない主人の商魂のおかげで、僕は最初の仕事にありつけたのだ。まずは通貨を手に入れ、この世界に僕の居場所を作る。希望に満ちた僕は、主人に教えられた現場の方角へと、足早に向かうのだった。