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古代ローマのパンは硬かった

瞑想から覚めた瞬間の浮遊感は消え、硬い石畳の感触と、肌を焼くような太陽の熱さが現実を突きつけてくる。


目の前に広がるのは、紛れもなく古代ローマの街並みだった。


活気、熱気、そしてむせ返るような生活の匂い。土埃と、汗をかいた人々の匂い、家畜の糞尿の匂い、そしてどこからか漂う香辛料と焼きたてのパンの香りが渾然一体となって鼻をつく。僕の知っている21世紀の日本とは、空気の密度からしてまるで違っていた。


「……どういうことだ……?」


呆然と道の真ん中に立ち尽くしていると、背後からけたたましい怒声が響いた。振り返る間もなく、巨大な影が僕に迫る。二頭の馬が引く、石材を満載した荷車が暴走していたのだ。


(危ない!)


避けられない。そう死を覚悟した瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。視界がノイズの走った映像のように乱れ、次の瞬間、僕は道の端に立っていた。猛烈な風圧と砂埃を残し、荷車は僕がほんの一瞬前まで立っていた場所を猛スピードで駆け抜けていく。


「……え?」


何が起こったのか、全く理解できなかった。御者は僕を睨みつけ、何か罵詈雑言を叫びながら去っていく。周囲の人々も「今のは危なかったな」「あいつ、いつの間に避けたんだ?」と不思議そうな顔で僕を見ている。僕自身にも、どうやって避けたのか、全く分からなかった。ただ、身体の芯に残る奇妙な浮遊感だけが、何か常識ではありえないことが起きたのだと告げていた。


「さて、どうしたものか……」


謎の現象のことは一旦頭の隅に追いやり、僕は改めて周囲を見渡した。興奮が少し落ち着くと、今度は津波のような現実的な問題が次々と頭をもたげてくる。


まずは服装だ。着古したTシャツにジーンズという僕の格好は、腰布のような「スブリガクルム」や、シンプルな貫頭衣「チュニック」をまとった人々の中では、異様というほかない。


次に言葉。彼らが話しているのは、おそらくラテン語だろう。これでは情報収集どころか、コミュニケーションすらままならない。


そして、最も切実で、根源的な問題が、空腹だった。


そういえば、研究室で最後のコーヒーを飲んでから、何も口にしていない。極度の緊張が解けた途端、胃が抗議の声を上げるようにキューッと強く鳴った。


ふらふらと市場を歩いていると、石窯で焼かれるパンや、串焼きの肉、山と積まれた果物が目に飛び込んでくる。だが、僕にはこの時代の通貨など一銭もない。


(どうする?……いや、待てよ)


僕は先ほどの、荷車との一件を思い出した。あの奇妙な感覚。あれは、もしかして……。僕の意思とは関係なく発動した、何かの力だったのではないか?


考え事をしていると、果物屋の前で、小さな子供が母親の手を振り払い、木のコマを追いかけて駆け出した。次の瞬間、その子は店先にピラミッドのように積まれていた果物のかごに、勢いよくぶつかってしまう。


ガシャン!という派手な音を立てて、リンゴに似た赤くて艶やかな果物がいくつも石畳の上に散らばった。


「あぁっ!」


店主の老婆が悲鳴に近い声を上げる。一つの果物がコロコロと転がり、すぐそばにあった汚水が流れる側溝へと、まさに落ちようとしていた。


(試してみるなら、今だ!)


僕は、あの荷車を避けた時の感覚を、今度は意識的に再現しようと試みた。


側溝に落ちる寸前の果物がコロコロと転がり、すぐそばにあった汚水が流れる側溝へと、まさに落ちようとしていた。


(試してみるなら、今だ!)


僕は、あの荷車を避けた時の感覚を、今度は意識的に再現しようと試みた。 目標は、側溝に落ちる寸前の果物。移動先は、そのすぐ隣。


**「あの果物の、そばへ!」**


強く、強く意識を集中する。 来い、僕の身体。


荷車を避けた時と同じ、世界がぐにゃりと歪むような感覚。視界が一瞬ホワイトアウトし、次の瞬間、僕は数メートル離れた側溝の縁に立っていた。そして、その手には泥に汚れる寸前だった果物が、確かに握られていた。


周囲の人々が「え?」と驚きの声を上げる暇も与えず、僕は再び意識を集中した。 ――戻れ、元の場所へ。


再び世界が歪み、気づけば僕は、先ほどまで立っていた果物屋の店の前に戻っていた。 周囲の人々には、僕の姿が一瞬かき消え、次の瞬間には何事もなかったかのように同じ場所に立っており、その手にいつの間にか果物を持っている、という摩訶不思議な現象にしか見えなかっただろう。


だが、僕には分かった。これは間違いなく、僕自身の力だ。


僕は、呆然としている店主の老婆に歩み寄り、泥で汚れる寸前だった果物を、両手でそっと差し出した。


「……!」


老婆は僕と、僕の手の中の果物を交互に見て、何か早口のラテン語でまくし立てた。言葉は分からない。だが、その大きく見開かれた目と、感謝を示すように何度も上下する手振りから、彼女が深く感謝し、そして僕の動きの異常さに驚嘆し、少し怯えていることすら痛いほど伝わってきた。



彼女は僕に待っているように手で合図すると、店先から少し硬そうな黒パンと、先ほど僕が拾ったものと同じ果物を二つ、僕の手に力強く握らせてくれた。


「え……いいんですか? そんなつもりじゃ……」


言葉は通じないはずなのに、自然と日本語が出てしまう。老婆は優しく微笑むと、深く刻まれた皺を目元に寄せ、こくこくと力強く頷いた。


これが、この時代で僕が得た、初めての「報酬」だった。


僕は市場の喧騒から少し離れた日陰に腰を下ろし、手に入れたばかりの食事をまじまじと眺めた。


まずはパンを一口。ガリっと音がするほど硬いが、噛み締めれば噛み締めるほど、小麦の素朴で力強い甘みが口の中に広がっていく。現代のふわふわしたパンとは全く違う、生きるための味がした。


次に果物をかじる。シャクっとした歯ごたえと共に、爽やかな酸味と甘みが喉を潤す。空っぽの胃に、その優しさがじんわりと染み渡っていった。


「……うまい……でも硬い……」


思わず、そんな言葉が漏れた。


空腹が満たされると、改めてこれからのことを考える余裕が生まれる。言葉、服装、そして寝床の確保。問題は山積みだ。だが、絶望的な気分はもうなかった。僕にはこの世界で誰も持たない、未知の力がある。


ティベリス川の向こうに沈む夕陽が、ローマの七つの丘を黄金色に染め始めていた。


僕は最後のパンを惜しむように飲み込むと、決意を新たにして立ち上がった。


「まずは、この世界に溶け込むことから始めよう」


僕の古代ローマでのサバイバル生活は、こうして静かに幕を開けたのだった。

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