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アウェンティヌスの攻防

スブッラの喧騒から戻り、ローマという都市の持つ二つの顔――富裕層の華やかさと、庶民の力強い生活――を肌で感じた翌日のことだった。ルキウスの店で、彼の膨大な取引を記録した帳簿の整理を手伝っていると、店の奥から、普段の商人の顔とは違う、まるで戦を前にした将軍のような緊張を帯びた表情で彼が現れた。その手には、厳重に封をされた一枚のパピルスの巻物が握られている。


「Ryu、来たぞ。『特別なクーリエ』としての、我々の最初の戦だ」


ルキウスの声には、抑えきれない野心的な光が宿っていた。彼は僕に巻物を手渡しながら、低い声で説明を始める。その声は、店の奥に積まれた香辛料のように、乾いているが濃密な重みを持っていた。


「これは、シチリア属州からガリア産の小麦を買い付ける、極めて重要な契約書だ。相手はアウェンティヌス丘に倉庫を持つ、大物の穀物商マルクス・ユニウス。一刻を争う。日没までにこの契約書を奴の元へ届けねば、我々の商売敵に、数年分の利益を横取りされかねん」


専属契約を結んで以来、初めての具体的な指示。それも、国家の食糧事情にすら関わるような、大きな取引だ。僕の心臓が、期待と緊張で高鳴る。


「アウェンティヌスの丘……。承知しました。すぐにお届けします」


「頼んだぞ。これは単なる使い走りではない。我々のビジネスが、ローマの富の流れにどれだけ深く食い込めるかを占う、最初の試金石だ。失敗は許されん」


ルキウスの言葉を背に、僕はパピルスの巻物が持つ重みを確かめるようにチュニックの内ポケットにしっかりとしまい込み、店の外へと駆け出した。


人混みを抜け、最短距離でアウェンティヌスの丘を目指す。その道すがら、僕は脳内のアシスタントを起動した。


(_ChotGPT、アウェンティヌスの丘について教えてほしい。なぜ穀物商のような大物が、そこに拠点を構えているんだ?_)


【**_アウェンティヌス丘が商業の拠点の一つとなったのには、歴史的・地理的な理由があります_**】


僕がローマの街を駆け抜けるのと同期するように、脳内スクリーンに地図と年表が展開される。


【**_歴史的経緯:_** _元々、アウェンティヌス丘はパトリキ(貴族)の力が及ばない、プレブス(平民)の拠点でした。そのため、自由な商業活動が発展しやすい土壌があったのです。**地理的要因:** そして何より重要なのが、テヴェレ川に面した立地です。ローマの外港であるオスティアに地中海各地から届いた物資は、小型の船でテヴェレ川を遡り、**アウェンティヌスの麓にあるフォルム・ボアリウム(牛市場)近くの河川港「ポルトゥス・ティベリーヌス」** で荷揚げされます。つまり、ここはローマの物流の玄関口なのです_】


思考しているうちに、アウェンティヌスの丘の麓、フォルム・ボアリウムに隣接する河川港「ポルトゥス・ティベリーヌス」にたどり着いた。そこは、これまで見てきたローマのどの地区とも違う、むき出しのエネルギーに満ちていた。船着き場では、数多くの労働者たちが、船から穀物の詰まった麻袋やアンフォラを運び出し、掛け声と共に立ち並ぶ倉庫群へと運び込んでいる。荷車の車輪が軋む音、監督官の怒声、ギリシャ語やポエニ語の売り言葉が混じり合い、一つの巨大な交響曲を奏でていた。


(_この光景が、ローマの胃袋を支えているのか。僕が届けようとしている穀物も、ここを通って市民の元へ?_)


【**_その通りです。穀物はローマ国家の生命線です。首都ローマの膨大な人口を養う食糧は、そのほとんどをシチリアやアフリカ属州からの輸入に頼っています。もし供給が滞れば、市民は飢え、暴動が起き、国家の存立そのものが揺らぎます。そのため、国家が食糧供給を管理することは、極めて重要な責務なのです。これは、後世に制度化される、国家による市民への食糧配給制度、すなわち『アンノナ』の原型とも言える考え方です_**】


歴史の教科書で学んだ「アンノナ」という単語が、急に生々しい現実味を帯びてくる。ルキウスが手を伸ばしているのは、単なる商売ではない。ローマの政治と権力の根幹に触れる、あまりにも巨大なビジネスなのだ。


僕は目的の穀物商、マルクス・ユニウスの倉庫を探し当てた。入り口の番人にルキウスの名を告げると、彼は僕を倉庫の奥にある事務所へと通してくれた。事務所の中は、戦場の司令部さながらの混乱と活気に満ちていた。書記たちがワックス板を手に走り回り、伝令の男が息を切らせて報告を叫んでいる。そして、その中心で、恰幅のいい壮年の男――マルクス本人が、まるで軍団を指揮する将軍のように、次から次へと指示を飛ばしていた。


「何をぐずぐずしている! オスティアからの船の荷揚げが先だ!」「サルデーニャからの船はまだか! 天候を報告させろ!」


僕の存在に気づくと、彼はイラついたように顔を向けた。


「なんだ、小僧。見ての通り、取り込み中だ。物乞いなら他を当たれ」


「失礼。香辛料商ルキウス様からの使いです。至急の契約書を、貴方様ご本人にお届けするよう言付かっております」


僕が冷静に告げると、マルクスの空気が一変した。「ルキウス」と「契約書」という単語が、この喧騒の中ですら特別な意味を持つらしい。彼は周囲の書記たちを「下がっていろ!」と一喝すると、僕に鋭い視線を向けた。


「……見せろ」


僕がパピルスの巻物を差し出すと、彼はそれをひったくるように受け取り、素早く中身に目を通す。その鋭い眼光が、羊皮紙の上を滑っていく。やがて、彼は満足げに一つ頷くと、羽根ペンで力強くサインをし、蝋で素早く封をした。


「よし、契約成立だ」


マルクスは窓の外、ポルトゥス・ティベリーヌスに停泊する船団に目をやった。その中の一隻を、顎でしゃくって見せる。


「見ろ、あの船がカルタゴ商人のものだ。奴らもこのシチリアの小麦を喉から手が出るほど欲しがっていた。あと半日、いや、数時間あんたの到着が遅れていたら、奴らの船倉に収まっていたところだ」


彼は僕に向き直り、値踏みするように、その目にわずかな好奇の色を浮かべた。


「ルキウスに伝えろ。奴の『速さ』が、ハイエナどもの牙から獲物をかすめ取った、と。見事な仕事だった、とな」


「必ず、そのように伝えます」


「お前が噂の『瞬足のクーリエ』か。ルキウスが自慢していた、とんでもない切り札というのは。なるほど、ただの若造にしか見えんが……」マルクスはそう言うと、近くの壺から並々とワインを注いだ杯を、無造作に僕に差し出した。「飲め。ただの使い走りにはやらん、俺からの褒美だ」


僕がためらいなくそれを受け取り、一口飲むと、彼は満足げに口の端を上げた。


「ハッ、気に入った。その若さで、このローマの心臓部で物怖じしない度胸。ルキウスはとんでもない拾い物をしたもんだ。だがな、小僧、覚えておけ」


彼の声のトーンが、ふと低くなる。


「速さだけでは、この街では生き残れん。このテヴェレ川の流れと同じでな、速すぎるものは、時に自分自身が渦に飲み込まれる。それを忘れるな」


それは、このローマ経済の最前線で生き抜いてきた男からの、重い忠告だった。


「ご忠告、肝に銘じます」


僕は杯を飲み干し、一礼してマルクスの事務所を後にする。


帰り道、再びポルトゥス・ティベリーヌスの活気を目の当たりにしながら、マルクスの言葉が頭の中で反響していた。今日僕が届けた一枚の紙が、これから何千、何万というローマ市民の食卓にパンを届ける。僕の能力は、単に物を速く運ぶだけではない。この巨大な経済活動の血流そのものを、加速させることができるのだ。


それは、まるで滞っていた血管に新たな血を送り込むような、途方もないスケールの仕事だった。ルキウスの野心は、僕の能力を得て、さらに大きく膨れ上がるだろう。そして僕もまた、このローマという巨大な生命体の中で、もはや単なる異邦人ではない、不可欠な一つの細胞となりつつある。


マルクスの忠告の通り、それは危険な渦の中へ自ら飛び込んでいく行為なのかもしれない。


パトロンとの最初の大きな仕事は、僕に確かな手応えと、この世界で生きていくことへの新たな覚悟を与えてくれた。アウェンティヌスの丘から見下ろすローマの街並みは、今日、これまでで最も鮮やかに、そして危険な魅力を持って僕の目に映っていた。

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