扉の先は古代ローマでした
「……またエラーか」
深夜の大学研究室に、僕、Ryuの力ない声が響いた。 目の前のモニターには、おびただしい数の赤いエラーコードが並んでいる。僕が心血を注いでいる大規模言語モデル、通称LLMの学習がまたしても失敗した瞬間だった。
「もう三日も同じことの繰り返しだ……。何が悪いんだ?」
自己嫌悪と焦りが胸の中に渦巻く。このままでは修士論文どころか、卒業すら危ういかもしれない。そんな絶望的な気分で頭を抱えていると、不意に背後から声がした。
「よぉ、Ryu。まだいたのか。根を詰めるのもいいけど、少しは休めよ」
振り返ると、同じ研究室の先輩がコーヒーのマグカップを片手に立っていた。
「先輩……。すみません、どうしてもうまくいかなくて」 「見てりゃわかるさ。そういう時はな、一回全部忘れるのが一番だ。Ryu、お前『マインドフルネス』って知ってるか?」
マインドフルネス。いわゆる瞑想のことだ。 IT分野の研究者が、まさかそんなスピリチュアルなものを口にするなんて、少し意外だった。
「瞑想、ですか? 科学的じゃないような……」 「馬鹿言え。今やトップ企業の研修にも取り入れられてる立派な脳科学だぞ。頭の中のキャッシュクリアみたいなもんだ。騙されたと思ってやってみろよ。思考が整理されて、案外いいアイデアが浮かぶかもしれねぇぞ」
先輩はそう言って僕の肩を叩くと、自分のデスクに戻っていった。
正直、半信半疑だった。だが、藁にもすがりたい今の僕には、その提案を断る理由はなかった。
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その夜、自室のアパートに戻った僕は、早速ネットで調べた方法で見様見真似の瞑想を試してみることにした。 あぐらをかいて、背筋を伸ばし、そっと目を閉じる。
(……呼吸に、意識を集中する……)
だが、集中しようとすればするほど、研究の焦りや将来への不安といった雑念が次から次へと湧き上がってくる。 「だめだ、向いてないのかもな……」 諦めかけた、その時だった。
ふと、意識の深い場所が、水面に落ちた雫のように静かに波打った。雑念がすっと消え、完全な静寂が訪れる。心地よい浮遊感に身を任せていると、目の前の暗闇に、輪郭だけがぼんやりと光る古い木製の「扉」が浮かび上がったのだ。
(なんだ……これ。幻覚か?)
夢を見ているのかもしれない。だが、その扉は妙にリアルだった。重厚な木の質感、錆びついた蝶番、そして中央には複雑な紋様が刻まれた真鍮のドアノブまで見える。まるで「ここを開けろ」と誘っているかのように、僕の心を強く惹きつける。
好奇心だったのか、それとも現実逃避の願望だったのか。
僕は無意識のうちに、意識の中の腕を伸ばし、その冷たいドアノブに手をかけていた。
ギィィ……と、軋むような音とともに、扉がゆっくりと開く。 隙間から溢れ出したのは、目も眩むほどの白い光。次の瞬間、僕の身体は掃除機に吸い込まれるみたいに、抗えない力で光の中へと引きずり込まれていった。
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「……っ!」
次に目を開けた時、僕の目に飛び込んできたのは、見慣れた自室の天井ではなかった。 突き抜けるように青い空と、目に痛いほどの強い太陽の光。
「どこだ……ここ?」
慌てて身体を起こすと、そこは硬い石畳の上だった。周囲には、見たこともない時代がかった石造りの建物が立ち並び、腰布のようなシンプルな服をまとった人々が、僕の知らない言葉を喧噪として響かせながら行き交っている。鼻をつくのは、土の匂いと、家畜の匂い、そして香辛料の混じったようなエキゾチックな香り。
(……どこだ、ここ? 映画のセットか何か……?)
あまりにリアルな光景に思考が追いつかない。呆然と立ち尽くす僕の横を、屈強な男たちが巨大な石材をいくつも積んだ荷車を引いて通り過ぎていく。その先では、大勢の人々が何やら壮大な道の建設に従事しているようだった。
とにかく情報を得ようと、近くの露店で果物を売る老婆に話しかけようとするが、僕の口から出る日本語に、彼女は怪訝な顔をするだけ。彼らの話す言葉は、どこか学術論文で目にする古典ラてン語の響きに似ているが、僕に理解できる単語は一つもなかった。
(言葉が通じない……。服装も、街並みも、明らかに現代日本のものじゃない。まさか本当に……)
僕は混乱しながらも街をさまよい、何か決定的な手がかりを探した。人々の服装は「トガ」や「チュニック」と呼ばれるものに酷似している。兵士らしき男たちの武具も、資料で見たローマ軍団兵のものとそっくりだ。仮説が、徐々に確信へと変わっていく。
その時、市場で人々が支払いに使っている古風な銅貨が目に留まった。そのうちの一枚が、足元に転がっているのを見つけた。
拾い上げてみると、そこには**狼の乳を飲む双子の赤ん坊**という、見覚えのある意匠が刻まれていた。そして、その上にはハッキリと、**「ROMA」**という四文字が。
「ROMA……ローマ……。はは……マジかよ……」
乾いた笑いが漏れる。 目の前には、歴史の教科書でしか見たことのない、活気に満ちた古代の世界が広がっていた。研究の息抜きに始めたはずの瞑想が、僕を遥か二千年以上も昔の世界へ連れてきてしまったらしい。
これからどうなるのか、どうやって帰るのか。不安は尽きない。だけどそれ以上に、僕の胸はかつてないほどの興奮と好奇心で高鳴っていた。