女騎士の忠義
私の美しい王女様。
儚く、可哀想な王女様。
私は何があっても、あなたのためだけに剣を振るう。
十五の年、私は女性騎士として正式に叙任され、王宮に仕えることとなった。
女性王族の護衛として配された先で、私に任されたのは病弱で小さな王女様――まだ、ほんの少女であられた。
「あなた」
そう私を呼ぶ幼い声が、今でも耳に残っている。
王女様は病弱ゆえに祝賀の場に出られることもなく、初めて拝謁したとき、そのお姿は可憐で美しく――けれど今にも消え入りそうに見えた。自然と胸にこみ上げた庇護の念を、私は生涯忘れない。以来、この小さな「姫君」をお守りしたいと、強く願うようになった。
私はいつも王女様の傍らに控えた。体調の悪いときも、公務のときも、就寝のときさえも。護衛騎士として当然の務め――そう思っていた。
けれど今にして思えば、それはただの「役目」ではなく、もっと別の感情に突き動かされていたのだろう。
私たちはよく語らった。王女様は病弱で、外で遊ぶ経験を持たれない。対する私は田舎の領地で育ち、野山の楽しさを知っていた。だから王女様は体調を崩すと、決まって私にその話をせがまれた。
「現実のわたくしの身体は思うようにならないけれど、せめて夢の中だけは自由でいたいの」
そうおっしゃる額の汗を、私は侍女に代わって拭ったものだ。
やがて王女様は成長し、寝台で過ごす時間が減り、公務にも臨席されるようになった。
「王女様、ご立派でしたよ」
「騎士様、ありがとう。でもね……」
兄弟より遅れて公務に出られたことから、王女様は疎外感に苛まれていた。役目を果たしたあと、自己反省と悔しさに涙されることも少なくなかった。
そのたびに私は、俯く彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。けれど御身に触れることは許されず、言葉だけを尽くして慰めるしかなかった。
私は本来、騎士として生きていくと心に決めていた。ゆえに両親からの縁談は全て断ってきた。
だが、一度だけ断りきれぬ家からの見合い話が持ち込まれたことがある。親も乗り気で、私も王女様の護衛を辞する覚悟を迫られた。
そのことを王女様に伝えた日、彼女は何かを察していたのだろう。決意を帯びた声で人払いを命じ、私を私室に迎え入れられた。
「騎士様。私の騎士様。どうかわたくしの前からいなくなるなんて言わないで……」
「お気持ちは嬉しいです、王女様。ですが、この縁談は我が家では到底断れません。どうかお許しください。私は、王女様の幸せを祈って――」
言い切る前に、目を疑った。
王女様が豪奢なペーパーナイフを首に突き立てようとしていたのだ。
咄嗟に飛びつき、それを奪い取る。確かにナイフでは首を断つことはできなかっただろう。だが、あの瞬間の私は必死だった。
錯乱された王女様は私に馬乗りになり、力ずくで奪い返そうとされた。
「いやよ! どうして? わたくしにはあなたしかいないのよ!」
「いけません! どうか落ち着いてください!」
ナイフを取れぬと悟ったのか、王女様は顔を歪め、叫んだ。
「騎士様……あなたは、わたくしのものよ!」
その言葉と同時に、私の首に噛みつかれた。犬歯が食い込み、血が滲む。
「……っ、王女様!」
彼女はすぐに我に返り、慌てて身を離した。
「ご、ごめんなさい……! わたくし、なんてことを……」
泣きそうな声に、私は首を押さえながら微笑みを返した。
「大丈夫です。この程度、すぐに治ります」
しかし王女様は首を振り、私の手を引き剥がした。
食い込んだ歯形と滲んだ血を見つめ、痛ましげに囁く。
「あなたに……この噛み跡が残れば良いのに」
そして彼女は、許しを請うように私に抱きついてきた。
肩口に顔を埋めて嗚咽するその背を、私はただ黙って撫で続けた。
「……ねえ、騎士様」
王女様は私の首にそっと手を添え、まっすぐに見つめてきた。
「あなたは、わたくしのものよね?」
その声音に、思わず息を呑む。
「……ええ。ですが騎士として、あなたの御身を傷つけることはできません」
彼女は小さく目を伏せ、やがて寂しげに微笑んだ。
「では……せめて、あなたの“初めて”をちょうだい」
「初めて……?」
「そう。強引な縁談相手なんかではなく、わたくしに」
胸の奥が熱くなる。
「王国のしきたりでは、生涯を共にする者と交わすものだと――」
「知っているわ」
私の言葉を遮って、彼女はわずかに唇を震わせた。
「でも……どうしても欲しいの。あなたの“初めて”が」
そう告げると、王女様は私の首に腕を回し、静かに顔を近づけてきた。
拒む理由は数えきれない。
けれど、その瞳に宿る切実さが、すべてを無力にした。
そっと目を閉じる。
触れた唇は、驚くほど柔らかく、ひどく冷たかった。
――これは誓いの口づけではない。ただの背徳だ。
それでも私は、その一瞬を拒めなかった。
それからほどなくして、私の婚約は解消された。
相手方の家に何らかの不祥事があったのだと耳にしたが――今となっては、真実は分からない。
これで、まだ護衛騎士としてお傍に仕えることができる。
その事実に胸を撫で下ろした自分がいたのも、確かだ。
あの日から王女様の態度は変わらなかった。
だが、侍女たちの目を盗んで指先を重ねてくることがあった。
くすぐったい感触に混じる、どこか罪深い喜び。
「騎士様、いつもありがとう」
そう微笑む王女様は、私にだけ見せる顔を持っていた。
その笑みを「自分だけのもの」だと――私は愚かにも信じてしまった。
けれど、王女が嫁ぐ日取りが決まったのは、その矢先のことだった。
報せを聞いたときの私の顔は、きっと歪んでいたに違いない。
めでたい知らせに喜ぶ気持ち。
王女様の幸せを祈る気持ち。
嫁がれる先で彼女が苦労しないかと案じる気持ち。
――そして、王女様は最初から「私のもの」ではなかったのだと突きつけられた、どうしようもない寂しさ。
王女様は憔悴しておられた。
「わたくしは身体が丈夫でないし、公務にも遅れて参加している身。父上も、わたくしに嫁げとは言わないと思っていたわ」
この頃にはもう、王女様が床に伏すことはほとんどなかった。
だからこそ、王は娘の未来を案じ、縁談をまとめたのだろう。
「王女様、戸惑うお気持ちは分かります」
私自身、かつて強引に縁組を迫られた。無力感も、抗えぬ現実も、痛いほど理解できた。
けれど、彼女は首を振った。
「いいえ、あなたにこの気持ちは分からないわ」
そう言ってさめざめと泣く王女様を、私は人払いをして抱き寄せた。
「王女様。私たちは初めてのキスを交わした仲ではありませんか。例え結ばれなくとも、心は共にあります」
「……そうね。確かにそうだわ」
一度は頷いた彼女は、けれどすぐに小さく震える声を零した。
「でもわたくしはね。この身が自由なら、あなたの性別が違ったなら……あなたのお嫁さんになりたかったの」
その言葉に、私は返す言葉を失った。
ただ彼女を抱き寄せ、小さな頭を撫で続けるしかなかった。
嬉しさと、背徳感。
護るべき主君への忠誠を超えた感情を、私は確かに抱いてしまっていた。
「王女様、私は……」
思わず漏らしかけた言葉を、彼女は首を振って遮った。
「お願い、何も言わないで」
そして、唇が重なる。
柔らかく、冷たい感触。甘い香りに眩暈がする。
長い口づけのあと、王女様は熱のこもった瞳で私を見上げた。
「……ごめんなさい」
謝罪の言葉とは裏腹に、彼女は再び私を抱きしめてきた。
泣き止むまで、私はただその細い身体を抱きしめ続けるしかなかった。
――王女が死んだ。
流行病だった。
彼女の最期を看取ったのは、私だ。
苦しみ、嘆き、それでも最後まで気高かった。
『ずっとわたくしの傍にいてくれてありがとう』
それが彼女の最期の言葉だった。
葬儀はひっそりと執り行われ、多くの国民が悲しみに暮れた。
私は泣かなかった。
想いを交わした王女様が誰のものにもならずに逝ったことへの、安堵とも絶望ともつかぬ感情で、胸はぐちゃぐちゃだった。
遺髪を切り取り、小瓶に入れ、それを形見とした。
もう王女様はどこにもいない――その事実を、心の奥底へ閉じ込めて。