変換
翌朝、私は悟った。もうこの街にはいられない。
理由を並べることはできた。
夜ごとに悪夢を見ること。
人の気配が増すほど、息が詰まること。
あの墓地の感触が、まだ掌に残っていること。
けれど本当は、もっと単純だった。
――ここにいれば、またあれに近づいてしまう。
そう感じた瞬間、答えは決まっていた。
私は街を出た。
門を越えると、空気が変わる。人の気配が薄れ、音が減り、世界が広くなる。
その広さが、かえって心細かった。
失くした左腕の付け根を、右手で押さえる。そこに何かがあるわけではない。それでも、確かめずにはいられなかった。
歩きながら、思い出してしまう。
クラフティの声。笑い方。こちらを見下ろす視線。
――本当に、彼女だったのだろうか。
魔物のことも、否応なく浮かぶ。
牙。血。叫び。そして、あの圧倒的な暴力。
胸の奥が、ひどく冷えた。考えるな、と自分に言い聞かせる。でも、考えは歩調に合わせてついてくる。
私はどこへ行くのだろう。何を倒すのだろう。誰を救うのだろう。
左腕の喪失は、身体の欠落というより、世界と噛み合わなくなった感覚として残っていた。
一歩進むたびに、何か大切なものを置き去りにしている気がする。
それでも、歩くしかない。背後に街を残し、前方に何も見えないまま、私はただ、あてもなく道を進んでいった。
歩きながら、私は考えていた。考えまいとしても、思考はそこへ戻ってしまう。
――あの時だ。
魔物を倒した、あの瞬間。悲鳴と血の匂いの中で、確かに私は何かを感じた。
耳だった、音を受け入れるはずの器官から、音ではないものが入ってきた。
ぐちゅり、と。今思い返しても、そうとしか表現できない感触。生き物のようで、生き物でない。液体のようで、意思を持っているような。
あれは何だったのだろう。
魔物の一部?呪い?それとも、魔王に連なる何か?
耳から入り、頭を通り、体の奥へと沈んでいった感覚。
痛みはなかった。
それ以来、静かな時間が怖い。
誰とも話していないとき。
風の音すら途切れたとき。
その存在が、私の内側で目を覚ます。
見られている、という感覚。声はない。触れてもこない。
ただ、じっと、こちらを向いている。
逃げ場はない。体の中なのだから。
クラフティのことを思い出すたび、その何かが、わずかにざわつく気がする。
偶然だろうか。それとも――。
もし、あの存在が私の記憶や感情に触れているのだとしたら。
もし、私が見たもの、聞いたもの、信じたものすら、少しずつ歪めているのだとしたら。
ぞっとした。私は本当に、私の意思で歩いているのだろうか。
失くした左腕を押さえる。そこには何もない。
けれど、体の中には、確実に余計なものがある。
それが、いつか表に出てくるのか。それとも、私が死ぬまで、静かに居座り続けるのか。
答えは出ない。
ただ一つ確かなのは、魔物を倒したあの瞬間から、私はもう、以前の私ではないということだけだった。
だから歩く。考えながら。怯えながら。それでも、止まらずに。
歩き続けながら、私はふと思った。
――私、気が狂ったんじゃないだろうか。
耳から入り込んだ何か。見えない声。地面から伸びる腕。
存在したはずの人間が、存在しなかったかもしれないという考え。
一つひとつを切り離せば、どれも説明がつかない。
全部を並べれば、なおさらだ。
正気でいる人間の思考ではない。
そう自分で分かっているのに、否定しきれない。
それが、いちばん怖かった。
――昔の私は、こんなふうじゃなかった。
村にいたころの自分を思い出す。
朝は太陽と一緒に起きて、土の匂いのする畑を歩き、子どもたちの声に囲まれて笑っていた。
何も考えず、深く悩まず、今日のご飯と、明日の天気だけを気にしていればよかった。
誰かと話すのが好きで、誰かのために動くのが当たり前で、心が、ちゃんと外を向いていた。
あの頃の私は、こんなふうに自分の内側を覗き込んで、そこに何かが潜んでいないか確かめる必要なんてなかった。
不作が始まってからだ。空気が変わったのは。人の目が濁り始めたのは。
夜が、やけに長く感じられるようになったのは。
そして、魔王。
すべての原因。
すべての歪み。
私は心の中で、その言葉を何度もなぞる。
――魔王を倒す。
――魔王を倒す。
――魔王を倒す。
それが目的だ。
それだけが、私をここまで歩かせている。
正気かどうかなんて、今はどうでもいい。
気が狂っていたとしても、この身体が動き、この足が前へ進むなら。
魔王を倒す。それができれば、この世界のどこかで、少なくともこれ以上の悲劇は生まれない。
もしかしたら――その先で、私自身がどうなってしまうかは、分からないけれど。
左腕のない身体で、体内に異物を抱えたままで、私はそれでも、前を向く。
狂っているかもしれない私が、唯一、確かだと信じられること。
――魔王を倒す。
……本当に?
その疑問は、最初は息の漏れのように、ごく小さく浮かんだだけだった。
――魔王は、本当に存在しているのだろうか。
街を壊した魔物。炎。死体。絶望。
それらは確かにあった。この目で見た。この身体で感じた。
けれど、魔王を見た者はいるのだろうか。
名前を知っている人は?姿を語れる人は?声を聞いた人は?
私が知っているのは、魔王がいるという言葉だけだ。
その言葉は、理由を与えてくれた。恐怖に、形をくれた。
でも、それだけだったのではないか。
不作は、偶然だったかもしれない。家畜の死も、病だったかもしれない。
私たちは、理解できない出来事を前にすると、大きな存在を作り出してしまう。
そうすれば、怒りの矛先が定まり、恐怖に意味が生まれるから。
――もし。
もし、魔王など最初から存在せず、ただ世界が壊れただけだったとしたら。
もし、誰かが流した言葉を、私たちが信じ、祈り、憎み、戦う理由にしてきただけだったとしたら。
その時、私が掲げてきた目的は、どこへ行くのだろう。
左腕を失い、生き物を殺し、何かを体に宿してまで、私は何と戦っているのだろう。
――それでも。
疑いは、胸の奥で冷たい塊になっているのに、足は前へ進んでいる。
魔王がいるかどうかは、もう分からない。
もう、何がなんだかわからない。
―――――――――――――――――――――――
何日、歩いただろう。
昼と夜の境目が曖昧になり、空の色で時間を量ることすらやめていた。
足は重く、肺は浅く、思考は粘ついて前に進まない。
食べ物はほとんど口にしていない。水も、十分ではなかった。
森に入ったのは、いつの間にかだった。
背の高い木々が視界を塞ぎ、光は細く、地面は柔らかい。
足元がふらつく。左のない腕の感覚が、なぜか強くなる。
――もう、だめだ。
そう思った瞬間、膝が折れた。受け身を取ることもできず、身体はそのまま、落ち葉の上に倒れ込む。
冷たい。柔らかい。土の匂い。息を吸うたび、胸が軋む。
目を閉じたまま、私は思った。
――このまま、終わるのかもしれない。
森の音が遠のいていく。風の擦れる音も、鳥の声も、すべて水の底に沈んでいくみたいに。
意識が、ほどけていく。
そのとき――かすかに、足音がした。
「……だれか……?」
声が、近づいてくる。
「……ねえ、大丈夫……?」
明るい女の子の声だった。はっきりしない。夢かもしれない。
まぶたを持ち上げようとしても、力が入らない。
「ちょっと……しっかりして……!」
焦った息遣い。温度のある声。
小さな影が、私の視界に滑り込む。
女の子だ。年は、私と同じくらいだろうか。逆光で、顔はよく見えない。
「ねえ……怪我してる……?ひとりなの……?」
私の肩に、小さな手が触れる。
その感触だけで、胸の奥が、ひどく軋んだ。




