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向こうより

避難所での生活にも、嫌でも慣れが生じ始めたころ。

ひとつの吉報が、避難者たちのあいだを駆け抜けた。


兵士たちによる街の安全確認が完了し、外へ出てもよい、という知らせだった。


その場にいた全員が、少なからず安堵と歓喜を覚えただろう。

この閉ざされた生活は、目に見えて人々を摩耗させていた。

避難が始まった当初は、誰もが自分のことで精一杯で、衝突はほとんどなかった。

けれど日が経つにつれ、怒声は朝から夜までどこかで響き、時には殴り合いさえ起きるようになった。

兵士が間に入って収めてはくれるものの、そんな光景を毎日見せられ、ろくに腹も満たせない環境では、心も体も削られていく一方だった。


そんな中での外出許可は、干上がった喉に注がれる水のようだった。

人々は次々と避難所を後にし、空間には少しずつ隙間が生まれ、床が見えるようになっていく。

それに合わせるように兵士の数も減り、私を手伝ってくれていた男の人たちも、いつの間にか姿を消していた。


私は、完全にひとりになった。


外に出た人たちは、それぞれ自分の家へ帰ったのだろう。

でも、私には帰る場所がない。


これからどうすればいいのか、分からなかった。


魔王を倒さなければならない。

それは分かっている。

けれど、何の手がかりもないまま、どこへ向かえばいいのか――。


――クラフティを探そう。


残された当ては、それだけだった。

彼女が見つかれば、次に進む道も、何かしら見えてくるかもしれない。

不確かで、根拠もない期待だ。それでも、何もないよりはよかった。


私は腰を上げ、他の人々と同じように避難所を後にした。


外は人で溢れていたが、空気は暗く、重く、街全体が曇天に押し潰されているようだった。

昼の賑わいから、笑顔と活気だけを丸ごと抜き取ったような光景。

私は胸に沈んだ絶望を抱えたまま、別の避難所へ向かった。


他の避難所も、隅々まで探し回った。

迷惑にならないように顔を覗き込み、時には放置された遺体を仰向けにし、兵士にも声をかけた。


それでも、クラフティはいなかった。


街へ出て探し続けた。

石畳に転がっていた遺体は片づけられ、残っているのは乾ききった血だまりだけ。

人の数は多かったが、誰もが絶望的な表情で歩いていて、声をかけられる雰囲気ではなかった。

だから、ただ黙って顔を盗み見るしかなかった。

何度も繰り返し、時には睨まれた。


それでも――見つからなかった。


数日が過ぎた。

配給のおかげで飢えは凌げた。

街の隅々まで歩いた。


それでも、クラフティはいなかった。

痕跡さえ、何ひとつ。


どうして。

いないはずがない。

街の外へ逃げた?

でも、魔物は外から来た。そんな混乱の中で、外へ出るだろうか。


――どこへ行ったの。


心が折れかけていた。

探すこと自体が、無意味なのかもしれない。

もう彼女は、魔物の腹の中に完全に飲み込まれ、跡形もなく消えてしまったのかもしれない。

そういう人は、たくさんいる。


……そのはずなのに。


私の頭には、あまりにも突飛で、馬鹿げた考えが浮かんでいた。


――クラフティという人間は、最初から存在しなかったのではないか。


その考えが輪郭を持ち始めた瞬間、私はそれを振り払うように、わざと大きく首を振った。

そんなはずがない。

私はこの目で見て、声を聞いて、一緒に食事をして、時間を過ごした。


――存在しないなんて、あり得ない。


そう言い聞かせても、その考えは頭に貼りついたまま離れなかった。


さらに数日が過ぎ、街は少しずつ落ち着きを取り戻していった。

人々は食べ物を分け合い、布を裂き、互いに手を取り合って、最大最悪の襲撃から立ち直ろうとしていた。

笑顔も増えた。無理に引きつったものかもしれないが、それでも確かに活力は戻りつつあった。


それでも私は、その輪の中に入れなかった。

よそ者であることもあるし、何より、頭の中が常にクラフティで埋め尽くされていた。

考え続けるほど、心は沈んでいく。

食事もまともに取れず、眠れない。眠れても、朝が異様に重かった。

吐き気のような不快感を抱えながら、力の入らない体で日々をやり過ごしていた。


なぜ、こんなにも彼女のことを考えているのだろう。

出会ってから、まだ一か月も経っていないのに。


……いや。

短くても、大切な時間だった。

一緒に過ごし、言葉を交わし、食事をした。


そのはずだ。


――本当に?


さらに数日が過ぎた。

この街を出なければならない。魔王を倒さなければならない。

思考はまとまらなかったが、立ち止まっている場合ではない。


地平線に沈みかけた赤い太陽を横目に、乾いた血を踏みながら、死んだように歩いていたとき――

背後から、ふいに声がした。


「ねえ、メアリ」


――全身が強張った。


喉から手が出るほど欲しかった、あの声。


「クラフティ――」


振り返る。

ゆっくりで、でも、逃げるように。


そこにいたのは、探し求めた彼女だった。

薄く笑い、整った顔立ちと綺麗な服。

なぜ今まで見つからなかったのか不思議なほど、際立って見えた。

人よりも、どこか上の世界に属しているような、神に近い雰囲気。


彼女は、私が振り返ったのを確認すると、背を向けて走り出した。


「待って!」


細くなった脚を必死に動かし、追いかける。


「待って……! 待ってよ……!」


距離は縮まらない。

離れてもいない。

まるで同じ速さで、同じ距離を保ったまま走っているような、不自然な感覚。


人の波をかき分け、視線を逸らさぬよう走り続け、やがて太陽は完全に沈み、夜の帳が降りた。


辿り着いた先は、街の端にある墓地だった。

秩序は失われ、無数の死体が乱雑に埋められているのが、土越しにも伝わってくる。


冷たく湿った道を進む。

彼女は確かにここへ入ったはずなのに、突然、姿が消えた。

浅く埋められた死体の匂いが鼻を突く。

鼻を押さえ、柔らかい地面を踏む。


……どこへ行ったの。


辺りを見回しても、誰ひとりいない。

静かすぎて、自分以外の人間が消えてしまったように錯覚するほどだ。


このままでは、帰り道すら分からなくなる。

それに、夜道は――。


嫌な予感を振り払うように、私は足を動かした。

この墓地はそんなに広くない。そのはずなのに、彼女はどこにもいない。

こうしている間にも、最後の陽は削ぎ落とされるように沈んでいく。

影が伸び、墓地は輪郭を失い、世界が腐敗へ傾く音がする。


――もう、やめよう。


そう思い、踵を返しかけた、その瞬間。


「ねえ、メアリ」


呼ばれた。


距離は、ない。

声は、すぐ背後――いや、もっと近い。


首を振り、息を殺して周囲を見回す。

闇、墓標、湿った地面。

どこにも、人の姿はない。


心臓が強く、鈍く、内側から叩かれる。

その拍動を嘲るように、声が重なった。


「ここだよ、メアリ」


笑っている。間違いなく、笑っている。


私は何度も視線を走らせた。

だが、見つからない。

声だけが、皮膚の裏側を這うように響き続ける。


やがて、ある一点に意識が引き寄せられた。

おかしい。

声の高さが、どうしても合わない。


私と、同じ目線ではない。


――下だ。


喉が詰まり、唾を飲み込むことすらできないまま、

私は、ゆっくりと視線を落とした。


そこには――


地面から、腕が生えていた。


花の茎のように細く、死人のように白く、血の気のない皮膚が、土を押し分けて露出している。


指は五本。爪は、覚えのある形をしていた。

腕は、目的を失った生き物のように宙を掻き、風もないのに、ふらふらと揺れている。


逃げようとした瞬間、その指が、わずかに震えた。


――呼ぶように。


「ここだよ……メアリ……」


声が、地面から滲み出た。

ささやきとも、呻きともつかない。


脳裏に、あの顔が浮かびかける。

否定しようとした瞬間、腕の向きが変わった。


私のほうへ。


確かに、私を知っている動きだった。


「……へ……っ……」


声にならない息が漏れる。

足が、まるで地面に縫い留められたかのように動かない。


恐怖が限界を越えた瞬間、脚から力が抜け落ちた。

その場で腰を砕くように崩れ、尻餅をついたまま、それきり立ち上がれなくなった。


目の前で、病的な白さの腕が揺れている。

骨ばった指先が、空を探るように、意味もなく彷徨っていた。


「メアリ……どうして、無視するの……」


先ほどの、あざといほど軽い声とは違う。

今度のそれは、湿り、掠れ、喉の奥で腐りかけたような音だった。


腕が、助けを求める仕草をする。掴む相手など存在しないのに。


「……クラフティ……?クラフティ、なの……?」


そんなはずがない。頭では、わかっている。


それでも――私の名前を、知っている。

それだけで、胸の奥が軋んだ。


「うん……私だよ……クラフティだよ……」


返事は、確かに地面の下から響いた。

泣き声のようで、祈りのようで、それなのに、どこか作り物めいている。

体が、勝手に震え出す。


「……どうして……どうして、埋まってるの……」


言葉は、ほとんど反射だった。


「だって……私は、死んだんだよ……」

「……え……」


意味を拒む言葉が、耳に触れた瞬間、思考が止まる。

それでも、声は続いた。


「私、死んだの。あの時……魔物に襲われて……殺されたんだよ……でもね、メアリ……あなたが、恋しくて……だから、こうして……戻ってきたの……」


戻る、という言い方が、あまりにも軽かった。


「ほんとだよ……メアリ……」

「……な、なにを……そんなこと……あるわけ……」


否定しようとした言葉は、途中で崩れた。


「どうして……?信じてくれないの……?」


声が、急に近づいた気がした。


「私だよ……クラフティだよ……私のこと……忘れたの……?」


その瞬間、一本きりの腕が、狂ったように振れ始めた。

ぶん、ぶん、と。まるで感情そのものが形になったみたいに。


私は、反射的に後ずさった。汚物から距離を取るように、触れてはいけないものから、逃げるように。


「ねえ……メアリ……どうして……」

「……え……?どうして、って……」

「どうしてなの……」

「……な、なにが……」

「どうしてって……何が、じゃないよ……」


言葉が、噛み合わない。

意味が、繋がらない。


「……な、何を言って……」

「……そっか……もう……いいよ……」


その一言と同時に、腕は、力を失った。


糸を切られた人形のように、枯れた植物のように、だらりと、地面へ垂れ下がる。

動かない。


「……え……クラフティ……?」


呼びかけても、返事はない。


土の中は、沈黙だけを抱え込んでいた。


まるで、最初から――そこに「何か」があったこと自体が、間違いだったかのように。


しばらく、私は動けなかった。

視線は、力を失ったその腕に縫い留められたまま。


――掘らなきゃ。


ふと、そんな考えが浮かぶ。

埋まっているのなら、掘り起こせばいい。助けられるかもしれない。少なくとも、確かめることはできる。


そう思った瞬間、指先が、無意識に地面へ伸びかけた。

その時だった。


触れてはいけない。


言葉になる前の、感覚。胸の奥を、冷たい針で刺されたような警告。


土の下には、腕の“続き”があるはずなのに、私の想像は、そこで止まった。

続きが、想像できない。


いや――想像してはいけないのだと、そう思った。


掘り返せば、腕の持ち主に辿り着くのではなく、「何か別のもの」に触れてしまう。

そんな気がしてならなかった。


喉の奥が、ひくりと引き攣る。吐き気とも、涙ともつかない熱が込み上げた。


――だめだ。


私は、ゆっくりと手を引っ込めた。まるで、目に見えない境界線から、身を退くように。


背中を向けるのが、怖かった。

それでも、振り返らずに、一歩、また一歩と後ずさる。

逃げる、というより、関わらなかったことにするための動きだった。


足がもつれそうになりながら、

私はその場を離れた。


振り返らない。絶対に、振り返らない。

もし、あの場所を掘っていたら――

そんな想像が、背中に、重く貼り付いて離れなかった。

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