変化
「――起きて……」
その声は、夢と現実のあわいにただよう私の耳に、ひどく冷たく届いた。意味まではすぐに掴めなかった。ただ、その音の持つ硬さが、胸の奥にじんわりと沁みてゆく。
意識は、波打つようにゆっくりと戻ってきた。けれど、身体はまだ深い霧の中にあるようで、まるで自分のものではないような重たさだった。動かぬ四肢、じわりと全身に広がる鈍い痛みが、私を再び眠りへと引き戻そうとする。
けれど、何かが――誰かが、目覚めることを私に命じているようだった。
そっと、瞼をひらく。
ぼやけた視界の中にまず見えたのは、白髪が無造作に伸びたおじいさんの横顔。そしてその隣には、黒い短髪の中年の男がひとり。顔には深い皺が刻まれていて、静かに何かを語り合っていた。まだ、私が目を覚ましたことには気づいていないらしく、ふたりの声だけが穏やかに行き交っていた。
知らせたい。目が覚めたことを、伝えたい――そう思って声を出そうとするが、出来ない。口も、指も、首さえも、まるで別の世界に縛られているように、ぴくりとも動かない。
私はここにいるのに。ふたりの気配を感じているのに。その存在を、どうしても示すことができない。
だんだんと、息が苦しくなってきた。長い間、呼吸の仕方を忘れていたかのようで、肺の奥が空気を欲して焦がれている。けれど、吸おうとしても空気はなかなか入ってこない。胸ばかりが苦しくなる。
――だめ。このままじゃ、息が……できない。
そんな思いが脳裏をよぎったそのとき、不意に、肺の奥が大きく痙攣した。本能が、私の意識に先んじて動いたのだろう。溜まっていたよどんだ空気を一気に吐き出した。
「……っ、ごぼぉ……!」
喉の奥からせき上がってきたのは、古い空気と、ほんの少しの胃の内容物だった。それを吐き出すと、ようやく呼吸が戻ってきた。浅く、細く、けれど確かに、リズムが戻ってくる。
その音に、ようやくふたりが気がついた。
「おお……目を覚ましたのか!」
「大丈夫か!?水飲むか!?」
二人が、驚きと喜びの入り混じった顔で、私の方へと身を乗り出してくる。
「……み、みず…ください……」
喉がひどく渇いていた。声はかすれ、ほとんど聞こえぬほどだったけれど、それでも、そう言わずにはいられなかった。口許にはまだ、吐いたばかりの液体のぬめりが残っている。恥ずかしさもあったが、それを訴える気力もなかった。
黒髪の男のひとが、すぐさま立ち上がり、小走りで視界から出てゆく。その背を、目で追う余裕さえ、いまの私にはなかった。
代わって、白髪のおじいさんが、わたくしの枕元まで顔を近づけてきた。眉間にしわを寄せ、私の口元のよだれと言うにはにごりすぎている液体を布で拭き取りながら、やさしい声で訊ねてくる。
「苦しくはないか?……少し、身体を起こしてみようか?」
その言葉が、なぜだかとても遠くから響いてくるようで、ひどく優しく感じた。
返事をしたかった。けれど、先ほど「水を」と絞り出したことで、私の力はすっかり尽きてしまったようで、唇は思うように動いてくれなかった。その代わりに、かすかに首を縦にふることで、意思を示した。
それをきちんと見届けたのだろう、白髪の老人は私の背に腕をまわし、ゆっくりと、けれど確かに、身体を起こしてくれた。
横たわっているだけでも声を出すことすら困難だった。だから、半身を起こす痛みはきっと並のものではないと覚悟していた。けれど――それは、思ったほどの苦しみではなかった。
上体を立ててみると、たしかに身体は重く、岩のようにのしかかるものを感じた。けれど、その重さのなかでも、首はゆっくりとだが動かせた。そして、ひとときごとに、身体にまとわりつく鉛のような感覚は薄れていった。
十数える頃には、気怠さを抱えながらも、自力で上体を保っていられるまでに回復していた。
そっと、まわりを見渡す。
そこは、私が子どもを背負い、必死に逃げ込んだ避難所によく似ていた。広々とした空間を人々が埋め尽くし、ざわめきと人声、ものの動く音が、ひとときも絶えることなく響いていた。
あの倉庫は、私の意識がまだあったときには、相当燃えていた。でも、この場所には焼け跡などどこにも見当たらない。きっと――ここは別の避難所だ。
しばし静かにその様子を見つめ、やがて、そっと視線をおじいさんに戻した。背を支えてくれたことへのお礼を言いたくて、ただ目を合わせようと。
けれど――おじいさんは、なぜだかひどく困ったような顔をしていた。
どうして、そんなふうに悲しげに眉をひそめているのだろう。ふと不思議に思ったそのとき、その理由はすぐにわかった。
彼の視線は、私の左肩に注がれていたのだ。
ゆっくりと、私もその肩へと目を向ける。
――そこに、あるはずのものがなかった。
左肩から先。左腕が、消えていた。
夢じゃ、なかったんだ。
あの倉庫での出来事。あの化け物との死闘。あの恐ろしさ、そして痛み。斬られ、焼かれ、命を振り絞ってあの怪物を倒した。けれど、それと引き換えに――
左腕を失った。
十六年間、ともにあった腕。本を読み、食器を持ち、ほうきを握り、何気ない日々のなかで、片時も離れることのなかった左の手。私には、もうそれがない。二本のうち、ひとつだけの、大切な腕。
それを、確かに「失った」と認めた瞬間、胸の奥がふと空っぽになるような感覚に襲われた。
寂しさとも、虚しさとも違う――でも、どこか近い。冷たい水が胸に流れ込んでくるような気がした。
私の人生は、まだ半分にも満たない。もし老いて、眠るように死を迎える日がくるとしても、それはまだずっと先のことだろう。なのに、すでに戻らぬ傷を、ひとつ負ってしまった。
もう、この手は戻らない。どんな奇跡が起きようとも、左腕は、もう、私のもとにはない。
そっと、肩に手をあてる。切断面には触れぬよう。なんだか少しあたたかかった。
――そのとき。
「水!持ってきたぞ!」
突然、大きな声がその静寂を破った。わたくしの沈黙を、思考を、現実へと引き戻すように。
黒髪の男の人が、息を切らしながら、両手に水の入ったコップを携えて戻ってきた。
男の人が、左手に持っていたコップをそっと私の前へ差し出した。
私は両手を差し出すような素振りをしながらも、気づけば右手だけでそれを受け取っていた。
少し遅れて、隣にいたおじいさんも同じように水を受け取り、小さく礼を言ってから、それを一息に喉へ流し込んだ。
私もまた、コップを手にして中を覗き込む。わずかに茶色がかった濁りが、光を鈍く反射している。口をつけて一気に飲み干すと、生ぬるさが喉にまとわりついた。どこか泥の味がするような、そんな不思議な違和感。
きっと、この混乱の中で確保された水なのだろう。それでも、ありがたくすべてを飲み干した。
ふっとひと息ついた、その瞬間だった。
「本当にありがとう」
静けさを破ったのは、短髪の男の人の声だった。彼は唐突にそう言って、深々と頭を下げた。
あまりに深くて、まるで後頭部が床につきそうなほどだった。
「えっ…?どうしたんですか?」
私は思わず声を漏らす。言葉の意味よりも、その態度に面食らった。
男の人は、私の問いに答える前に語り始めた。
「あの化け物を倒してくれただろ? あのとき、俺もこのじいさんも、そこにいたんだ。君が戦ってるところ、ちゃんと見てた。本当にすごかった。君がいなかったら、きっと全員死んでた」
「ああ、そういうことですか……」
そのときの情景が、火の粉のように脳裏にちらついた。あの地獄のような場所――。
「君が化け物を倒してから、俺たちは全員で火の海をすり抜けてここまで来たんだ。君は気を失ってたから、何人かで運んできて……とにかく、君のおかげでみんな助かった。本当に、ありがとう」
男の人は再び頭を下げた。
それに続くように、隣のおじいさんも、静かに、けれど丁寧に頭を垂れる。
「い、いえ……そんな……」
どう振る舞えばいいのか分からない。
村では何度も感謝の言葉をもらったけれど、こんなふうに、命を救われた人の目で真っ直ぐに見つめられながら礼を言われるのは、初めてだった。
とはいっても、自分で言うのも変だけれど――私はこの人たちを、本当に救った。
私、いい子かもしれない。
「……とにかく、無事でよかったです」
そう言って、少しだけ口角を持ち上げる。ぎこちない笑顔だったけれど、それでも二人はそれを見て安堵したように微笑み、背を丸めた。
私もまた、ようやく肩から力が抜けた気がした。
張りつめていた空気――初対面の人と向き合うときに生まれる、あの緊張の膜がふいに破れた。
だが次の瞬間、全身に焼けるような痛みが走った。
針で刺されるような、あるいは熱をもった布で体を包まれるような、ひりつく感覚。
私は思わず体を抱きかかえるように腕を回し、その場に横になった。
「だ、大丈夫か!?火傷がひどいから……!」
慌てて私の体をさする男の人の手が、少し震えていた。
火傷――。
そうか、あの炎の中にいたのだから、当然か。
戦っていたときは、まるで痛みなんて感じなかった。
恐怖と、使命感と、何かもっと深いところから湧いてくるものに突き動かされて。
火傷は痛い。でも、今ここにはあのときのものはもういない。
人を狂わせる恐怖も、焼けつく業火も、命を脅かす魔物も。
それだけで、少しだけ心が軽くなった。けれどその安堵と引き換えに、ひとつの不安が頭をもたげた。
「そういえば、魔物は……街は、大丈夫なんですか!?」
体をかばい、さすりながら必死に問いかける。
すると二人は、まるでその質問を予想していたかのように、微笑んで頷いた。
「もう騒ぎは治まったよ。今は兵士たちが街の様子を確認と救助活動にあたってる。市民には外に出るなって通達も出てるし、安全は確保されてるはずだ」
それなら――よかった。
すべて、本当に終わったんだ。
あの、残酷で無慈悲な災厄が。
ただの悪夢だったと願いたくなるような時間が、ようやく終息を迎えた。
けれど、胸に去来するのは安堵よりも重たいものだった。
一体、どれだけの命が失われたのだろう。私が短い時間で目の当たりにしただけでも、十を優に超えている。それはきっと、ごく一部にすぎない。この避難所の規模を見れば、もっと広範囲で、もっと多くの命が、牙や爪に飲まれたに違いなかった。
腸を引きずり出された少年。母親を殺され、放心状態となった少女。
思い出したくもない光景が、頭の奥底から浮かび上がってくる。祝福のように「終わった」とは言えなかった。
ただ静かに、終焉の事実が身に沁みるだけだった。
これまでの出来事が、一本の物語のように脳裏を駆け巡る。
現実に起こったこととは思えないほど、断片的で、歪んでいて――それでも確かに刻まれていた。
そしてその時、不意に頭のてっぺんから何かが落ちてきたような感覚に襲われた。
雷鳴のような衝撃だった。全身が痺れ、内側から何かが跳ねた。
――思い出した。
目の前の出来事にあまりにも必死で、いつの間にか、忘れていた。
最も大切なことを。




