焼け死ぬ
左の肩からは、止めどなく血が噴き出していた。床に散らばる瓦礫や布の中、無惨に落ちた自分の左腕が、まるで誰かのもののように力なく横たわっている。
「うっ……! あっ、くっ……!」
反射的に剣を手放し、残された右手で肩の断面を押さえつけた。熱い液体が、滝のように手のひらを濡らす。どれだけ圧をかけても、それは決壊した堤防のように止まらない。
膝をついた。目の前には、私を狩ろうとする化け物がいるというのに。
恐怖ではない。恐怖もあるが、それ以上に、身体がもう立っていられなかった。
命が抜けていく。血が巡り、そして流れ出ていく感覚を、はっきりと感じていた。
魔物は、またもその姿を闇に沈めた。
止めを刺す好機を見送り、ただこちらを嘲笑うかのように。
完全に弄ばれている。それでも、私は諦めなかった。
私は這うようにして、瓦礫の下から黒く汚れた布を掴んだ。右手と口を器用に使い、肩を縛り上げる。
噴き出していた血潮は、やがて細くなり、しだいに細流のように穏やかになった。
震える脚に命令を下し、私は立ち上がった。意識はぼんやりと霞み、視界の端が歪んでいる。それでも、言葉を絞り出す。
「……みんな……っ、火をつけて……早く……!」
声が掠れていた。後ろは振り返れない。けれどきっと、彼らは震えながら私を見ているのだろう。
「なんでもいい……火を持ってる人……!」
か細い声に、誰かが応じた。
「これ!ランプあるぞ!」
力強い声が闇を裂いた。
「投げてっ!私の前に!床に叩きつけるように!」
その瞬間、真紅の炎が闇の中を弧を描き、私の目の前に落ちた。
ぱん、と爆ぜた音。油を含んだ炎が一瞬にして燃え広がり、周囲の闇を切り裂くように照らし出す。
光が生まれ、影が生まれ、そして希望が、わずかに灯った。
「火を持ってる人……!同じように……!暗闇を照らすの!」
言い切る前に、次々とランプが宙を舞い、あちこちの床に叩きつけられた。
右へ、左へ、そしてまた右へ。
火の帯が倉庫の中を駆け、やがて熱気となって空間を満たしていく。
もう一筋、汗が首を伝う。それは、命の熱を懸命に保とうとする、かすかな抵抗だった。
「まだ足りない……っ!」
喉が焼けるような声で叫ぶ。
「みんな! なんでもいい、燃えるものを! 火をもっと大きく…!倉庫全体を光で満たして!!」
その瞬間、誰かが応じた。
布切れ、板、紙束、破れた衣服――それらが次々と宙を舞い、燃え盛る炎の中へと投げ込まれていく。
火は一気に広がった。空気がうねりを上げ、倉庫の隅々を照らしながら、まるで生き物のように喰らいついていく。
熱気が押し寄せる。呼吸をするたびに肺が焼ける。皮膚は滝のような汗に覆われ、全身から水分が奪われていく。だが、恐怖よりも先に来るのは希望だった。
地獄のような混乱は消えていた。
人々は一つになって、闇を押し返そうとしている――背後を振り返らずとも、それがわかった。
炎はすでに建物の半分以上を飲み込み、倉庫はまさに火の海だった。
けれど、それは死ではない。
――そして、
「……見えた」
炎と影が揺れる視界の中。見逃すはずがない。禍々しいその輪郭。人間の形を模した異形の悪意。私の左腕を奪い、弄び、今なお人を狩ろうとするそれが、そこにいた。
「……っ!!」
思考より先に身体が動いた。叫びもせず、ただ一直線に魔物へと突進する。
もはや恐れるものはない。もう、ここは闇じゃない。
すべてが見えている。足元の瓦礫も、熱風に揺れる空気も、そして――あいつの動きも。
一瞬の刹那。全身の力を剣に込め、全速力で斬りかかる――
――斬った。が、手応えはなかった。
「……避けら――」
言い切る前に、視界が赤く染まった。
眼前、爪が振り下ろされる。
間一髪でかわした。
爪は唸りを上げ、私の胸のわずか数センチ前を裂いて地面に叩きつけられた。
熱を含んだ空気が爆ぜ、鋭い金属音とともに火花が散り、その一部が足首をかすめた。
痛みを無視して、即座に身を翻す。剣を振るう。だが、魔物の爪が素早く持ち上がり、私の一撃を弾き返した。
――重い。まるで鉄塊をぶつけられたような衝撃。
体がのけぞり、思わず膝が揺らぐ。それでも手は、剣だけは離さなかった。
気力を振り絞って再び斬る。
だがまた、あっさりと弾かれる。
魔物の攻撃、受け止める。私の反撃、弾かれる。金属がぶつかり合う鈍い音が、燃え盛る倉庫内に幾度も響く。
足元の火はじりじりと肉を炙り、空気は焦げるような熱を孕んで肺を焼く。
それでも腕を振り続けた。目の前の化け物を、絶対に倒すと心に決めて。
必死だった。だが、不思議なほど頭の奥は澄んでいた。
――このままじゃ押し負ける。力では敵わない。長引けば、長引けば私の体力が先に尽きる。
そう考えた瞬間だった。
「くっ……!」
鋭く重い一撃が剣を捉え、バランスを崩す。体が宙を舞い、灼熱の地面に叩きつけられた。
「――あづっ!!」
床に焼きつくような痛みが背中を駆け抜ける。反射的に身を捩り、炎の届かぬわずかな場所に転がり込んだ。
その時、ある策が閃光のように脳裏をよぎった。成功する保証はない。だが、悠長に考えている時間はもうない。
「……私の……腕を……!」
声を張ったつもりだったが、喉は乾ききり、ほとんど空気に吸われた。
「私の腕っ……投げて!ここに……!!」
二度目の叫び。炎の轟音にかき消されそうなその声が、誰かに届いたのかどうか。
だが次の瞬間――
ボトリ、と音を立てて、斬り落とされた左腕が私のすぐそばに転がった。
届いた――!
ためらわず剣を突き立てる。
そのまま燃え盛る炎の中へ、左腕ごと剣を突っ込んだ。
一歩、また一歩――
魔物が迫ってくるたびに、私の中の静寂は揺らぎ、やがてひとつの覚悟に凝り固まっていく。
私は再び剣を構えた。
その柄には、己の左腕が串刺しになって燃え盛っている。皮膚が焼け、骨が焦げている。
火と肉の剣――それを迷いなく振りぬいた。
炎は空気を裂き、唸りを上げて魔物に襲いかかる。
魔物も応じるように爪を振るった。だが、私は弾かれるのを待たなかった。全身に力を込め、剣を押し込むように踏み出す。攻撃の中に守りを、守りの中に攻めを織り交ぜた。
鍔迫り合い、それは精神の交戦だった。
ほんの一瞬、魔物の表情が変わったように見えた。そこには驚きが――迷いが宿っていたように感じた。私はそれを見逃さなかった。
剣を滑らせ、爪から腕へと刃を移動させる。
その瞬間、私の腕を焼いていた炎が、獲物を変えるように魔物の腕へと噛みついた。炎は歓喜するかのように音を立てて燃え広がり、魔物の全身を包んだ。
悲鳴は上がらなかった。魔物は、叫ぶこともできず、己の身体を両腕で抱きしめる。
熱さに、苦悶に、焼け爛れる肉体の重みに沈んでいく。
剣を返す。
標的は、口内――その奥にある、意識の核。
燃え上がる刃を一点に集中させ、突き刺した。
手応えがあった。
その瞬間、魔物の頭部にぽっかりと風穴が開いた。
そこから、赤黒い血が泉のように噴き出し、炎の中で蒸発した。
巨体が崩れ、床に沈む。
沈黙が戻る。
――倒した。
言葉に出すことなく、ただその事実が脳裏を満たした。
そして、私もまた崩れ落ちた。
熱い。全身が焼ける。
このまま焼け死ぬのかもしれない。そう思うほど、身体はすでに限界を超えていた。
その時だった。耳の奥から、あの音がした。ぬるりと、ぐちゅりと、何かが入り込む感覚――耳の内側に、冷たいものが這いずるような感触。
そして、意識は静かに、闇の底に沈んでいった。




