ここから先は進ませないよ
自分の身長の半分ほどもある、大きなスコップを両手で抱えながら、私は必死に地面を掘り返していた。ざく、ざくと湿った土をすくい上げては、横へと放り投げる。太陽の昇らぬ闇夜の中、周囲は木々に囲まれていて、僅かな月明かりが濡れた葉を鈍く照らしていた。
一心不乱に掘り続けた。音もなく息を殺し、ただ無心に土を退けていく。やがて、棺桶ほどの深さの穴ができた。私はスコップを放り出し、ふらりとその縁に膝をついた。
そして、何のためらいもなく、その穴の中へと身を沈めた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうすべきだと、身体が勝手に動いた。
仰向けに横たわると、冷たい土の感触が背中越しにじわりと伝わる。湿り気を帯びた腐葉土の匂いが鼻腔をつき、胸の奥にまで染み込んでくる。
ふと、視線を足元にずらした。その時だった。
土の中から、這い出るように現れた小指ほどの太さの巨大な巨大なミミズが、まるで意志を持ったかのように、ゆっくりと私の足先に触れた。そして、その粘ついた異物は、這うように脚を伝い、膝、太腿、腹、鎖骨を這い上がっていく――
そしてついには、耳元で一瞬止まったかと思うと、するりと中に滑り込んできた。
「……!」
異物が這い回るような奇妙な感覚が、耳の奥から脳髄にかけて広がる。どこかで触れられているわけでもないのに、体中の神経がぞわぞわと波打ち、内側から侵食されていくような錯覚に襲われた。
だが、不思議と私は抵抗しなかった。
――むしろ望んでいたような気さえする。
「……う、あ……っ」
その言葉とともに、意識がふっと暗転した。
どれほど時間が経ったのか。目が覚めたとき、私は避難民たちの群れの中で、敷かれた布の上に横たわっていた。ざわついた空気、泣き声、うめき声、誰かの怒鳴り声。街は未だパニックの只中にあり、悲鳴と嗚咽が絶えず耳に飛び込んでくる。
自分の身体に目をやる。誰かが掛けてくれたらしい毛布がかすかに温かい。脇腹に手を当てれば、包帯が何重にも巻かれ、出血は止まっているものの、ズキズキと痛みが走る。助かった――そう思い、胸の奥にわずかな安堵が灯った。
少女の姿を探して視線を巡らせるが、見当たらない。きっとどこかで休んでいるのだろう。
だが、それよりも胸を締めつけるのは、あの母親のことだった。私がもう少し早く駆けつけていれば、彼女は命を落とさずに済んだかもしれない。悔やんでも悔やみきれない。少女はこれから、一人で生きていかなくてはならない。たったひとりで。ひとりで――。
ふと、かつて出会った少年の顔がよぎる。世界すべてを恨んでいるような、あの底知れぬ眼差し。あれと同じものを、あの少女も、いずれ宿してしまうのだろうか。
気持ちが沈んでいく。胸が重くなる。
――お腹、空いたな。
空腹に気付いた瞬間、思考が一気に切り替わった。脳内に、それまで必死で押し殺していた感情が、奔流のように溢れ出す。
「クラフティ……」
その名を口にした瞬間、抑え込んでいた恐怖と焦りが一気に爆発した。全身に冷や汗が吹き出し、鳥肌が立つ。
私は飛び起き、避難民たちの間を縫うように走り出した。
「クラフティ、クラフティ……!」
名前を呼びながら、頭を左右に振って彼女の姿を探す。
「どこ……どこに……!」
――いない。どこにも、いない。
私は人の間を縫うように歩き、入り口付近で見張りをしていた兵士に声をかけた。
「すみません……黒髪で、私より背が高くて、鋭い目をしてて、鼻が高くて……脚の長い女の子を見ませんでしたか? 名前はクラフティって言います」
兵士は一度だけまばたきをし、疲れた目を細めた。蝋燭とランプの光がちらつく避難所の中、その顔には明らかな疲労と、けれど職務を捨てない意思がにじんでいた。
「……その特徴だと、正直心当たりがありすぎる。ここには似たような女の子が何人も避難してきてる。名前までは、確認してないな」
そう言いながらも、彼はわずかに視線を外し、そして付け加えた。
「でも……見つけたら知らせるよ」
私は力なく笑って、小さくうなずいた。肩が自然と落ちたのが、自分でもわかった。その様子を見た兵士は、静かに続けた。
「ここ以外にも、まだ避難所は二つある。距離はあるが、魔物の進行方向とは逆だ。クラフティって子も、そっちに逃げた可能性は十分ある。……だから、希望を捨てるな」
私はその言葉に、小さな希望の光を見た気がした。心の奥の冷たい水が、ほんの少しだけぬるくなったような気がした。
「……ありがとうございます。探してみます」
兵士に頭を下げて、私は避難所の内部を隅々まで探し回った。
この巨大な避難所は、石の壁に囲まれている。夜が徐々に更け始め、ランプの明かりが頼りで、人々の影が床に長く伸びている。
通路に寝そべる人。隅で座り込む母子。毛布にくるまったままうずくまる人影。私は一人一人の顔を確認し、何度も間違いそうになりながら、クラフティを探し続けた。
けれど――
どこをどう探しても、彼女の姿はなかった。
私の脚は、限界に近づいていた。隅にしゃがみ込み、壁に背を預けてゆっくりと座り込む。薄い床から、じわじわと冷たさが体に伝わってくる。空気は湿り気を帯びて重たく、喧騒が絶え間なく響いていた。
ここに来てようやく、意識が次第に内側へ向き始めた。無理やり閉じ込めていた考えが、波のように押し寄せる。
――私は魔王を倒す旅をしているはずなのに。
――魔物とはまともに戦えなくて。
――ひとりの命すら、満足に救えなかった。
ふがいなさが、胸の奥に沈殿していく。
そして――あの時、魔物を倒した直後に現れた、奇妙な液体。
耳の中に入り込んだ“何か”が、今も私の中にいる。少しずつ、確実に、私の体の一部に馴染んでいるような、不気味な感覚。未だに体内に感じる異物感。形容しがたい気持ち悪さがこびりついて離れない。
今日読んだ本の一節が脳裏をよぎる。《魔物の崩壊と同時に高速で地面を這い、人間の接近を回避するように移動する》
そのはずなのに――
まるで待ち構えていたかのように、這い寄ってきた。地面から、私の足元から、這い上がるようにして――真っ直ぐ、迷いもなく、私の耳を目指して。
あの“何か”が私の中にいること。そしてそれが、本来とは明らかに異なる行動をとったという事実。その二つが結びついた瞬間、体の奥からじんわりと冷たい恐怖がにじみ出してくる。
私は一体、何に目をつけられたのだろうか――。
私は膝を抱え、じっとその感覚を思い返す。避難所のざわめきのなか、自分だけが異質なものを抱えているような、ひどく孤独な気分だった。
そして――私の胸の奥で、何かがひっそりと、目を覚まし始めていた。
突然、騒然とした倉庫内に、耳をつんざくような絶叫が響き渡った。
それは、怒号やすすり泣きが飛び交う混沌の只中にあっても際立っており、建物の壁を震わせるような衝撃を孕んでいた。
人々はざわつきを止め、一斉に声のした方へと顔を向ける。私も同じように、その異様な気配の発生源を探すように目を凝らした。
視線の先――倉庫の片隅で、ひとりの男が腰を抜かし、床を這うようにして後退していた。その目は、闇に紛れた何かをただ一点、見開いたまま見据えている。
影。そこに、確かに何かがいた。
私は目を細めて闇を注視するが、ほとんど形が掴めない。
やがて、その場に一人の兵士がランプを掲げて駆け寄った。
「大丈夫ですか! しっかりしてください!」
私の周囲からは、精神を病んだのではという囁きが漏れる。極限の恐怖の中で正気を失う者も、珍しくない。
だが私は、その奥に潜む気配が気になって仕方なかった。
何かがおかしい。ただの錯乱では済まされない、底知れぬ悪寒が背筋を這い上がってくる。
すると、腰を抜かした男が震える指先で、その“影”を指し示した。
兵士はその方向に向けて、ランプの明かりを向ける――
――次の瞬間だった。
ズシン、と重い音と共に、兵士の身体が唐突に宙へ持ち上げられた。
重力を無視したかのように、人とランプが空中に浮かぶ。
「えっ……?」
思わず、私は声を漏らした。その光景はあまりにも非現実的で、脳が状況の把握を拒絶する。空中にあったランプが、やがて手を離れ、地面に落ちて砕け散る。
火が木の板に燃え移り、倉庫の隅を赤く染めた。
その炎の照り返しが、闇に潜んでいた“それ”を照らし出す。
魔物――だった。
赤く燃える足元だけがはっきりと浮かび上がり、上半身は炎のちらつきに包まれて判然としない。
だが、その手に握られていたのは、先程の兵士の身体。
爪――いや、もはや刃と呼ぶべき巨大な爪が、兵士の腹を串刺しにしている。
魔物は、そのまま兵士の亡骸を振りかぶり、勢いよく投げ捨てた。
肉体は空を弧を描き、民衆の中へと叩きつけられ、無残に地面を転がった。
それを目撃した者たちは、瞬時に悲鳴を上げた。
叫び声はたちまち倉庫全体に広がり、今まで錯綜していたざわめきが、明確な“恐怖”という共通の鼓動に変わっていく。
魔物はゆっくりとこちらに顔を向けた。暗闇で表情は見えない。だが、確かに“見られている”という実感だけが突き刺さってくる。
前列にいた者たちは我先にと逃げ出し、奥へ奥へと人を押しのけながら混乱の波を作っていく。
「下がれっ、下がれ!」
「魔物だ! 魔物が入ってきたぞ!」
怒鳴り声と悲鳴が交錯し、倉庫の内部はたちまち地獄絵図と化した。
群衆が、怒号と悲鳴とともに一斉に後方へと雪崩れ込む。だが、倉庫は限られた空間だ。奥へ進める距離には限界がある。
「下がれ!下がれってば!」
「無理だ!もう後ろは詰まってる!これ以上は――!」
絶望が声に滲み始める。
前列の人々は恐怖に突き動かされて後方に逃れようとし、後列の者は逃げ場を失って叫ぶ。人と人とが押し合い、壁際では潰れそうになっている人もいるだろう。
その混乱の只中、複数の兵士が魔物に向かって走り出す。鎧が鳴り、剣が抜かれ、明らかに格上の存在に立ち向かう意志の火が、瞬間だけ、倉庫に灯った。
「包囲しろ!囲め!逃がすな!」
声とともに剣が振るわれた。一斉に兵士たちは魔物に飛びかかる。
だが――
瞬き一つする間に、その希望は打ち砕かれた。
鋭く振るわれた魔物の腕が、しなやかに、まるで舞うように空を裂く。
次の瞬間、兵士たちの身体が次々と吹き飛び、床を転がり、壁に叩きつけられ、命の灯火をあっけなく消していく。
辺りは凍りついた。希望だった光が、あまりにも呆気なく潰えたことで、避難所には静寂にも似た絶望が漂った。
魔物は、一歩。また一歩と、群衆へ向けて歩み始める。
その足音は、重く、静かで、それでいて背筋を氷のように冷たくする。
「来る……来る……!」
前列の人々は更なる恐怖に駆られて後ろへと逃げようとする。
だがもう、後ろには進めない。詰められ、押し込められ、圧迫された人々が壁にへばりつき、身動きできずに苦しげに喘ぐ声が聞こえる。
「無理だ!もう下がれない!」
「潰される……助けて……誰か……!」
「下がれ!」
「後ろが詰まってる!下がるな!」
前と後ろ、交錯する悲鳴が絶望の坩堝となり、倉庫全体を包み込んでいく。
私は――その場に座りこんでいた。足が動かない。心臓がどくどくと打ち、手のひらが冷たく汗ばむ。逃げろ、と頭が言っている。だが、身体がまるで凍りついたかのように、ただその場に固まっていた。
兵士たちの亡骸。飛び散った血。無惨な光景。
このままでは、ここにいる全員が――殺される。
その確信が、冷たい鉄のように胸の奥に刺さった。
私は、ふと視線を落とした。
床に転がった兵士の手が、虚空を掴むように伸びている。もう動くことのないその手の先に、一振りの剣があった。血に濡れ、静かに横たわるそれは、今にも何かを訴えかけてくるようだった。
この魔物は……明らかに今までのとは違う。そこに立つだけで、空気が変わる。音が消える。肌が粟立つ。私なんか、あの程度の魔物にすら歯が立たなかったのに。今、目の前にいる化け物なんて――勝てるはずがない。
――間違いなく、殺される。
膝が震える。逃げ出したい。
でも、このままだと、倉庫にいる全員が、今まさに泣いてる子どもたちが――殺される。
それだけは、絶対に、いやだ。
――私は勇者だから。
剣を、握った。手に取った瞬間、腕が痺れるほどの重みを感じた。
それでも私は、それを握ったまま、前に走り出していた。
脳裏に浮かぶ。あの時の少年。
涙を流さず、ただ黙って世界を呪うような瞳で私を見た少年。
『力になるって言ったじゃん――』
そして、クラフティ。
『怖い? 行きたくない?』
『大丈夫、何かあっても私が絶対守るから。メアリは私と手を繋いで後ろに隠れていればいいの』
守りたいという想いだけを支えに、私は魔物の前に立ちはだかり、剣を構えた。
「ここから先は進ませないよ」




