What's weighing on me?
少女のもとへ駆け寄り、まず母親の身体に手を伸ばした。冷えきってはいない。皮膚にはまだ、ほんのわずかに温もりが残っている。けれど、それは確実に、命の灯が消えかけた者の体温だった。指先を首元に当てる。脈は――ない。胸元に目をやるが、かすかな上下動すら見られない。口元に耳を寄せても、ただ深い静寂が支配している。ほんの数分前まで確かに生きていたはずのその人は、今はもう、沈黙の中にいた。
母親の背中からは、地面へと赤黒い血がじわりと広がっている。ぬかるんだ石畳に血潮が染み込み、ほんの少し前に起きた暴力の生々しさを物語っていた。その真っ赤な輪郭は、今もじわじわと形を変えながら広がっている。まだ止まらない――そう思わせるほど、死が訪れたのは、ついさっきのことだった。
――……間に合わなかった
わかっていた。けれど、確認せずにはいられなかった。少女のためにも、私自身のためにも。
「……もう……いない」
思わず口に出た言葉に、少女がかすかに反応した。だが、目は焦点を失い、ぼんやりと宙を見つめている。呆然として、声も出さず、ただ母親の亡骸にすがりついていた。
「君…!逃げるよ!ここにいたら……」
私は必死に言葉をかけるが、少女は何も答えない。肩を揺さぶっても、びくりとするだけで、自力で立ち上がる気配はない。完全に、心が折れていた。母を失った現実を、まだ受け止められていないのだ。
このままじゃ……この子も……
遠くで上がる悲鳴、打ち鳴らされ続ける警鐘。砕けるガラスの音や、逃げ惑う人々の足音が入り混じり、町は未だ収まる気配のない混乱の渦中にあった。
そのとき、背後から声がした。
「俺が担ぐ、君は先導を」
先ほど魔物に斬りかかり、私を救ってくれた兵士だった。鎧には返り血がこびりついているが、眼差しはまだ鋭く、冷静さを失っていない。だがその姿は――明らかに、疲弊していた。
彼もまた、何体もの魔物と戦い抜いてきたに違いない。彼は貴重な戦力だ。ここで足止めさせてはいけない。私は即座に首を横に振った。
「いいえ。私が背負います」
「だが、お前も傷を……」
「大丈夫です。いまは、私の方が動ける」
言いながら、自分の手を見下ろす。脇腹の痛みは相変わらず鋭く、視界も時折揺れる。だが――どこか、妙だった。身体が軽い。極限の状況下であるはずなのに、足がもつれることもなく、腕にしがみつく少女の重さにも、不思議と耐えられている。
きっと緊張と、必死さが私を強くしているのであろう。
「とにかく、行かないと」
震える少女の肩にそっと手を添え、彼女の背中を支える。
「ごめんね、ちょっとだけ我慢して。すぐに安全な場所へ行こう」
少女は返事をしなかった。けれど、わずかに力を抜いたその身体が、私の言葉を受け入れてくれた証だと信じたい。私は彼女をそっと背負い、立ち上がる。
その重みは、決して軽くはなかった。けれど不思議と、歩ける。走れる。――やれる。
私は、剣を右手に、少女を背に、兵士に頷きかける。
「行きましょう。まだ終わっていません」
魔物たちのうなり声が近づいてくる。だが、それでも――まだ、守れる命がある。
母親の亡骸をその場に置き去りにし、私たちは走り出した。振り返る余裕もなく、ただ少女の命を背負って。視界の端には、同じように逃げ惑う人々の姿が次々と映り込む。彼らの顔には絶望と焦燥、全身には返り血や泥がこびりつき、いかなる地獄を潜り抜けてきたのか、想像するまでもない。
「この先に避難所があります!走って!」
先導する兵士の怒鳴り声が、混乱の中にひとすじの指針を与える。その背中を目印に、私は歯を食いしばりながら足を動かす。前方にはまだ魔物の影は見えない。おそらく、奴らは一方向から町に雪崩れ込んでおり、私たちはかろうじてその裏側――安全地帯へ逃れようとしているのだ。
だが、体は限界に近い。脇腹の傷から滴る血が地面を染め、走るたびに激しい痛みが神経を突き刺してくる。それでも、振り払うようにして走り続ける。少女が背から落ちぬよう片腕でしっかりと抱え、痛みをこらえて前へ前へと進む。
顔を歪め、足取りはよろめきながらも、ただ足を――命を、動かす。
疲労、痛み、不安。すべてを心の奥に押し込めて、今は走ることだけに集中する。
――その時だった。
横道に面した石造りの建物の隙間から、突如として影が飛び出した。黒くぬめる体表、赤黒い爪、その異形が現れた瞬間、世界の動きが鈍くなったかのような錯覚に襲われる。
音が消え、風が止まり、私の胸元へと迫るその巨大な爪だけが、異様な速さで近づいてくる。
当たれば――体ごと裂かれ、背の少女にも届く。避けきれない。逃げられない。
――死ぬ……!
少女の命も、私自身の命も、いままさに終わる――時間が止まったかのようだった。
死を確信したその瞬間。
刹那、視界の端から疾風のように先ほどの兵士が飛び込んできた。全身の力を込めて魔物に体当たりしながら剣を突き立てたその衝撃で、私の体は巻き込まれるように横へ弾かれ、バランスを崩した。
「……っ!」
少女をかばうように体をひねるも、支えきれず、私は貫かれた脇腹から地面に倒れ込んだ。石畳の硬さが臓器を揺らし、脇腹の傷が引き裂かれるように痛む。
「行け!迷ってる暇はない!こっちは任せろ!」
魔物の怒声にも似た咆哮、兵士の叫び声、土を蹴る音が入り混じり、混沌とした音の渦の中にいた。
私は少女が無事かを確かめるように背をかがめ、震える腕でしっかりと抱き直す。少女の体温がかすかに残ることで、現実に戻された気がした。
胸の奥に、怒濤のような感情が押し寄せる。恐怖、安堵、痛み、そして命を救ってくれた彼への、言葉にできぬ感謝。
「ありがとう……!」
呻くように、それでもしっかりと呟いた。
立ち上がる。脚がふらつく。だが倒れている暇はない。血と汗にまみれた少女を背負い直し、私はふたたび前へと走り出した。
息を切らしながら、私は少女を背負ったまま瓦礫と血の匂いが入り混じる道を駆け抜けた。兵士の叫び声と遠くの悲鳴が、混沌とした空気の中にこだましている。振り返らずに進む。振り返れば、怯えに足をすくわれる気がして。
「あっ…うぐ……っ」
苦しげな声が漏れる。脇腹の傷は焼けつくように痛み、足は鉛のように重い。それでも、私は止まらなかった。
やがて、視界の先に灯りが見えた。鉄製の門、瓦礫で作られた簡易な防壁、そしてその隙間から顔を出す複数の兵士たち。そこが避難所だった。
「開けろ!生存者だ!」
前を走る兵士が怒鳴るように叫ぶ。その声に反応し、門がきぃ、と鈍い音を立てて開いた。中には、すでに多くの避難民が肩を寄せ合って座り込み、子どもを抱いて震える母親の姿、負傷した者に応急処置を施す僧侶や医師の姿があった。
「こっちへ!」
別の兵士が私に手を差し伸べた。私はその手にすがるようにして、少女を背負ったまま中へと転がり込んだ。それに加えて数人が入ると、門がすぐさま閉じられ、外の世界との隔絶が完了する。
安堵――のはずだった。しかしその瞬間、私はようやく感じていた痛みを思い出したかのように、膝をついた。
「……っ、痛……」
少女は驚いたように私の背から滑り落ち、地面に座り込む。その瞳は虚ろで、涙の跡が頬に残っていた。私はゆっくりとその子の頭に手を乗せた。
「大丈夫、もう……大丈夫だから」
その言葉にどれほどの意味があったのか、自分でもわからない。ただ、そう言わずにはいられなかった。
兵士が私のもとに駆け寄る。
「おい、血が……すぐに治療を!」
私はかすかに頷きながら、崩れるようにその場に横たわった。騒がしいはずの避難所の音が、次第に遠のいていく。
意識が、暗闇に沈みはじめた。




