一戦と一閃と一線
魔物は真紅に染まった両手で、子供の臓物をまるで宝石でも選ぶかのように掻き回し、それを一心不乱に口元へと運んでいた。濡れたように照る腸が、ズルリと引き出されていく。私は、そのあまりにも異様な光景に、ただ立ち尽くしていた。どうやら魔物はこちらに気づいていないらしい。
──ゴーン、ゴーン。
その時、不意に町全体を揺らす鐘の音が響き渡った。低く、重く、心臓にのしかかるような音。続いて、誰かの声が空気を裂く。
「魔物だ! 魔物が出たぞ!!」
哀しみと恐怖が滲んだ叫び。鐘はなおも鳴り響き、闇に覆われた町は瞬く間に阿鼻叫喚の地と化した。人々の悲鳴、無数の足音が地を震わせ、鐘の音さえ掻き消していく。魔物もさすがに驚いたのか、そちらの喧騒へと顔を向けた。視線の先は大通り。私とは逆の方向だ。
──今なら、やれるかもしれない。
咄嗟に判断し、腰に手を伸ばす。だが、そこにはあるべきものがない。
──剣が、ない。
そうだ。あれはクラフティの家に置いたままだ。私は素手だ。武器も、術も、何も持たず、ただ一人、路地裏の闇に立っている。
「……まずい……まずい……」
言葉にならない焦燥が胸を満たし、呼吸が浅く速くなる。どうする?逃げるべき?戦えないのなら、せめて逃げないと。
だが、その浅く激しい息遣いが、私の存在を魔物に知らしめてしまった。
魔物が、ゆっくりとこちらを振り返る。血に濡れた大きな目が、まっすぐ私を見据える。その顔は人間の形を保ちながらも、何かが決定的に違っていた。目や口、鼻――パーツの配置は歪で、すべてがわずかにずれている。歪な仮面のように、それはにたにたと笑っていた。
背筋が凍る。私は無意識に一歩後ずさる。魔物はゆっくりと立ち上がり、血を滴らせた両手をぶら下げ、静かに歩み寄ってくる。逃がすまい、と言わんばかりに。
心臓が暴れ馬のように跳ねる。足が震える。走れ、走れ。逃げないと。
次の瞬間、魔物が腕を大きく振りかぶり、私へと飛びかかってきた。
「うわっ……!」
咄嗟に身を捩って横に跳ぶ。そのまま、私は背を向けて走り出す。来た道を、迷わず、ただ全速力で駆ける。すでに日は沈み、路地裏は闇の底だ。地面に這う虫、割れた瓶、崩れた木箱――何も見えず、何も考えず、ただ足を前に出し続ける。
あのときつまずいたゴミ山を、今度は跳び越える。
大通りへ飛び出した瞬間、目の前に広がったのは、悪夢そのものだった。
街は地獄絵図と化していた。
魔物が複数、あちこちで人々を襲い、捕らえ、食いちぎっている。悲鳴が交錯し、逃げ惑う群衆の波が通りを埋め尽くしている。視界の中、数えきれぬほどの死体が転がっていた。赤黒く濡れた石畳。動かぬ人々。その大半は、もう助からないだろう。
私は足元に目を落とす。そこにもまた、ひとり。鎧を着け、剣を手に握りしめたまま、動かない兵士がいた。胴を貫かれ、鎧ごと抉られている。その姿に、戦いの無力さが、はっきりと刻まれていた。防具など、意味をなさない。力なき者にとって、希望はない。
──逃げないと。
本能が叫ぶ。私は魔物の密度が比較的少ない方向へと、駆け出そうとした。
──その瞬間、視界の端に、どうしても見過ごせないものが飛び込んできた。
道の端。地に倒れ、すでに血を流し尽くしたかのように動かない女性の隣で、小さな女の子がその肩を揺すりながら泣き叫んでいた。母と娘――そう直感した。見誤るはずがない、あまりにも切実な悲鳴。だが、それ以上に目を奪われる光景があった。二人に向かって、じわじわと距離を詰めていく影――魔物だった。
――殺される。
胸に冷たい針が刺さったように、その事実だけが確かなものとして浮かび上がる。
――助けないと。
火を灯したように、その思いが心の奥底で激しく燃え始めた。
だが、私の手には何もない。武器が、ない。
焦って足元に目を走らせると、倒れた兵士の手の中に握られた剣があった。即座に駆け寄り、それを引き抜こうとするが――抜けない。死にゆく間際の執念か、兵士はなおもその柄を硬く握り込んでいた。
「くっ…!」
指に手をかけ、一本一本剥がしていく。硬い。剥がれない。だが、諦める暇などなかった。魔物は一歩、また一歩と確実に少女へと迫っている。泣き声が、まるで絞り出すように響いていた。
三本目の指を外し、あと少し。もう残りは引きちぎるようにして、無理やり剣を引き抜いた。
金属の感触が、掌に重く伝わる。
私はそれを握りしめ、魔物に向かって駆け出す。魔物は今まさに腕を振り上げ、少女に襲い掛かろうとしていた。
――その瞬間。
背後から一閃。剣を振り下ろした。
刃は魔物の肩に届き、しかしそれは深く斬り裂くには至らなかった。魔物がぎこちなく振り返る。口元は赤黒く染まり、眼だけが異様なまでに爛々と光っていた。にたり、と笑みを浮かべ、まるでおもちゃを見下ろすかのように私を見据える。
「早く逃げて!!」
私は女の子に向かって叫ぶ。だが、彼女は動けない。母の亡骸から離れようとしない。私は咄嗟に、腹をくくる。
――ここで倒すしかない。
魔物に狙いを定め、剣を大きく振りかぶって肩口を狙う。だが、その刃は魔物の手に掴まれ、寸前で止められた。次の瞬間、もう片方の腕が鋭く私の胴へ突き刺さる。
「っ――が、あ……!」
焼けるような痛みが体内を駆け抜ける。脇腹に鋭い激痛。血が噴き出し、服を赤く染める。それでも――まだ、倒れられない。
ここで倒れたら、この子も死ぬ。
必死で力を込め、魔物の手から剣を引き剝がす。ふらつく足をなんとか踏みしめ、もう一度剣を振るう。しかし、再び軽々と受け止められた。体力も、技術も、何もかもが足りない。その絶望が、静かに心を浸していく。
――勝てない。
その一言が、胸の奥でひどく重く響いた。
そして、魔物の腕が再び振り上げられた――。
私の視界いっぱいに血に濡れた爪が迫る――その刹那。
鋭い金属音と共に、脇から鎧に身を包んだ兵士が飛び出し、魔物の体に斬撃を叩き込んだ。鋼の一閃は確かに魔物の動きを鈍らせ、あの忌まわしい笑みが一瞬にして消える。私は呆気にとられ、ほんの一拍遅れてからその意味を理解した。
今だ。
思考よりも先に体が動いていた。魔物の脇腹目掛けて剣を振るう。私の刃は、硬い肉を裂き、骨を砕き、奥へとめり込んでいく。魔物は声にならない悲鳴を喉の奥でくぐもらせたまま、膝をつき、全身を震わせながら崩れ落ちた。
その体は、砂の山のように、静かに、そして不可解な速さで崩れ始める。まるで時間に逆らうように、形が解け、重さを失い、粉のような灰になって地面へと溶けていった。
だが、それは終わりではなかった。
その灰の中心から、何かが飛び出した。半透明の、ぶよぶよとした何か。液体にも見え、意志を持って動く異物――私はその正体を、今日、図書館で読んだ本の一節から思い出す。
《絶命の瞬間、肉体は粉状に崩壊し、その内部から“ぶよぶよとした液体状の何か”が現れる》
本にそう書かれていた。これが、そうなの?
そう思った瞬間、“ぶよぶよとした液体状の何か”が高速で私の足にまとわりつき、そのまま這い上がってきた。ふくらはぎ、太腿、背筋へと冷たい感触が這い寄る。まるで生きているような動きで、粘つくそれは背骨に沿って首筋へと滑り、耳元で一瞬止まったかと思うと――
ズブリ、と音すら感じさせる勢いで、耳の奥深くへと突き刺さるように入り込んだ。
「……っ!」
冷たいものが脳の奥に染み込むような感覚。頭の中を這うような異様な不快感とともに、体内に入り込んでいくのがはっきりとわかった。
「…っえ…!?ああっ…!?」
思わず喉の奥から悲鳴が漏れ、私は膝から崩れ落ちた。掌が地面を掴み、体が折れ曲がる。肺が凍りつくような冷気を吸い込み、背骨の内側を何かが這い上がる。
「っあ……あああ……!」
耳元から入り込んだぶよぶよとした“それ”が、私の中を這っている。脳と骨髄のあいだを、内臓と皮膚の隙間を、細く、冷たく、ねっとりと侵食していく。まるで全身をひっくり返されるような錯覚――肋骨の裏が引きずり出されるような、息を飲むほどの異物感が、身体の奥底から這い上がってきた。
胃がひっくり返る。心臓が自分の意志とは無関係に跳ね上がる。喉の奥から漏れる嗚咽は制御不能で、涙すら勝手にこぼれていた。
それでも――壊れない。
死の一歩手前のような感覚が続くにもかかわらず、私は生きている。視界はぼやけるが、意識ははっきりしている。全身が汗でずぶ濡れになり、息は乱れ、指先は痺れているのに、それ以上の異常はない。
「……なに、これ……なんで……」
呟きはかすれ、地面にこぼれる。誰も答えてはくれない。ただ、己の体にひそむ何かが、確かにそこに“いる”。その存在感が、私の内側からじっとこちらを見ているようだった。
「……違う、今じゃない……!」
歯を食いしばり、ぐらつく膝に力を込める。体の奥に巣食った何かへの恐怖も、それによってもたらされる未知の予感も、すべてを後回しにするしかない。
“あの子を守る”――それが、今の私の唯一の理由だ。
まだ震える足を動かし、立ち上がる。痛む腹を押さえながら、少女の元へと走り出す。少女の泣き声が、まだこの混乱の中で続いていた。
そして私は、自分が人間として踏み越えてはならない一線を越えたことを、薄々悟り始めていた。




